第百三十二話「咳の龍、動く岐阜」
加賀へ向かう上杉軍の列は、晩秋の冷気の中を進んでいた。
山々の影は濃く、道端の草は霜をまとい始めている。
謙信は馬上にあった。
背は揺るがず、視線は前を射抜く。
誰が見ても軍神の姿だった。
だが、陣を畳み、夜営の幕が張られる頃になると、その姿はわずかに変わる。
謙信は火鉢の前に座り、息を整えるように目を閉じた。
「殿……」
直江兼続が膝をつく。
謙信は手を上げ、言葉を封じた。
「よい」
その声は強い。
だが直後、喉の奥が鳴り、抑えきれぬように咳が漏れた。
「……ゴホ、ゴホッ」
兼続の目が揺れる。
だが謙信は顔色一つ変えず、口元を袖で押さえた。
「明日、すぐに発つ」
兼続は思わず言いかける。
「殿、道中は……」
謙信は淡々と言った。
「加賀に着けば、すべて整う」
「今止まれば、兵が止まる」
その言葉は命令ではなく、己に言い聞かせる刃だった。
謙信は地図を広げ、加賀を指でなぞる。
「加賀に入れば陣を張る。戦の支度を完成させる」
「勝家は動かぬ」
「ならばこちらも動かぬ」
兼続は息を呑んだ。
動かぬ戦。
だが、動かぬほどに兵は疲れ、心は削られる。
謙信は続けた。
「決戦はせぬ」
「ただ居座り、北を縛る」
「信長は天下を急ぐ。急ぐ者は縛られるのを嫌う」
「嫌えば、必ず動く」
その動きを待つ。
兼続は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
謙信は小さく頷いた。
「準備を急げ」
龍は咳を抱えながらも、前へ進む。
晩秋の闇の中、上杉軍は静かに加賀へ迫っていた。
一方、岐阜城。
北からの急報が届いていた。
「上杉、再び動きました。加賀へ向かっております」
信長は文を置き、目を細めた。
「……来たか」
怒りではない。焦りでもない。
予想通りだという顔だった。
帰蝶は隣で静かに言った。
「殿。上杉は、今度は腰を据えるつもりでしょう」
信長は鼻で笑った。
「腰を据えるなら、据えさせねばよい」
家臣が問う。
「迎撃の軍勢をお出しになりますか」
信長は即答した。
「出さぬ」
その一言に、広間が沈黙する。
信長は続けた。
「勝つために出るな」
「通さぬために守れ」
そして短く命じた。
「柴田に伝えよ。討つな。砦を固めよ。兵を動かすな。道を守れ」
さらに信長は別の家臣へ目を向けた。
「近江筋と美濃筋、荷の道は二つに分けておるな」
「止めるな。絶やすな」
「道が詰まれば、工兵を出してでも通せ」
兵站を二つに分ける策は、すでに動いている。
信長はそれを準備ではなく戦として扱っていた。
家臣が言う。
「殿、これほど北に回せば、他が……」
信長は淡々と言った。
「他は生きている」
「北が折れれば、京が揺れる」
信長は腕を組み、低く笑った。
「龍が来るなら、迎えねばならぬ」
だが迎えるのは戦場ではない。
砦。道。兵站。
信長の戦は、すでに始まっていた。
帰蝶は静かに席を立つ。
「殿。私も動きます」
信長は頷いた。
「任せる」
帰蝶は表には出ない。
だが裏では村を整え、兵糧を集積し、道を確保し、乱れを消す。
それが帰蝶の戦だった。
その夜、玉は帰蝶の部屋に呼ばれていた。
帰蝶は淡々と告げる。
「上杉が動いた」
玉は胸の奥が冷えた。
(来た……)
玉は静かに座り、茶を口にした。
だが喉を通る熱が、なぜか冷たく感じた。
(謙信は、なぜ動く)
前回、加賀での睨み合いは終わった。
織田の兵站を見せつけられ、謙信は引いた。
今回もまた、同じ結果になるはずだ。
謙信は領民を飢えさせる選択はしない。
長期戦を好む男ではない。
ましてや無益な消耗をするほど愚かでもない。
それでも出てくる。
(理由がある)
玉の脳裏に浮かぶのは、京での信忠の宣言だった。
あれで朝廷は一応の安定を取り戻した。
表向きは、織田と朝廷の間に争う理由は薄れたはずだ。
それでも謙信が介入する。
(五摂家が裏で動いているのか)
そう考えるのが自然だった。
だが同時に玉は思う。
(だとしても……謙信が応じる必要があるのか)
謙信は義の人だ。
だが義とは、誰かの都合に踊らされることではない。
謙信ほどの男が、公家の手のひらで動くとは思えない。
玉は帰蝶の横顔を見つめた。
帰蝶は茶を飲みながら何も言わない。
ただ静かに目を伏せている。
玉は胸の内で呟く。
(別の要因がある)
(公家でもない)
(信長でもない)
(謙信自身が動かざるを得ない理由……)
それが何かは分からない。
だが分からないことが恐ろしかった。
この戦は、ただの北陸の小競り合いではない。
何かが、次の時代を決める歯車になっている。
玉は指先を握りしめた。
(私は……まだ知らない)
(知らないまま、婚姻の日が来る)
帰蝶が静かに言った。
「玉」
玉は顔を上げる。
帰蝶は淡々と告げた。
「考えすぎるな。だが、備えは怠るな」
玉は小さく頷いた。
岐阜の夜は静かだった。
だが静けさは、嵐の前のものだった。
龍は加賀へ。
織田は砦へ。
そして玉は、見えぬ理由を探し続ける。
(信忠との婚姻まで――あと二ヶ月)




