表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
細川ガラシャになる前の明智玉でした。父の謀反を止めないと私が燃えるので必死です  作者: れんれん


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

123/140

第百二十三話「娘の願い(光秀の疲労、信長の決断)」

京。


冬の風が御所の回廊を抜け、白い息を引きずるように去っていく。

静かで、冷たく、底が見えぬ空気だった。

明智光秀はその静けさが、何より恐ろしかった。


戦場ならば矢が飛ぶ。

槍が突き、血が流れる。

敵がどこにいるか分かる。

だが京は違う。

笑顔の裏に刃がある。

礼の中に毒がある。

一言で、家が滅びる。


「殿は主上への忠を、忘れておられぬでしょうな」

「官位叙任のことは、今後も朝廷に委ねられるのか」

「荘園の件は、いかが取り計らわれるのか」


柔らかな声で、丁寧に、何度も同じ問いが繰り返される。

答えを間違えれば、燃える。

光秀は微笑を崩さぬまま、腹の底で歯を噛み締めた。

(ここで言葉を誤れば……)

(殿は京を焼く)

(そしてその火は、私の名で燃える)


京の交渉は、殿の剣の代わりに己の神経を差し出す仕事だった。

光秀は一歩退き、頭を下げる。

「恐れながら――」

言葉を選ぶ。

一字一句を削る。

この仕事に失敗は許されぬ。

それを知るからこそ、心が擦り切れていく。


夜。

宿へ戻った光秀は文机の前に座った。

筆を持つ手が重い。

丹波の山で矢を避けた時より、

焙烙玉の爆ぜる音を聞いた時より、

今の方が疲れていた。


光秀は灯明の揺れを見つめながら、静かに息を吐いた。

(私は……何を守っている)

殿の威を守る。

朝廷の面子を守る。

天下の秩序を守る。

守るものが多すぎる。

そのすべてを背負う役目が、いつの間にか自分に集まっている。


光秀は目を閉じた。

胸の奥が重い。

だが休めぬ。

休めば京が崩れる。

京が崩れれば、天下が崩れる。

光秀は無理に筆を動かし、報告の文を書き始めた。

ただの文。

ただの報告。

だがその紙の上には、光秀の寿命が落ちていくようだった。


岐阜城。

信長のもとには、書状が積まれていた。

京の情勢。

毛利戦線。

播磨。

上杉。

勝っている。

確かに勝っている。

だが勝てば勝つほど、息が詰まる。


敵は潰れる。

領地が増える。

味方が増える。

そして味方が増えれば、裏切りの芽も増える。

信長は書状を読み、表情を変えず頷いた。


「……よくやっておる」

それだけで十分だった。

家臣の前で喜べば、気が緩む。

気が緩めば、隙が生まれる。

信長は勝利の中にこそ危険が潜むことを知っていた。

その報告の中で、最も重いのは京。

光秀が京を抑えている。

その事実だけで、天下は保たれている。


だが信長は思う。

(光秀は……持つか)

賢い。

忠義もある。

働きもある。

だが人だ。

人は折れる。

信長はその可能性を、口に出さぬまま飲み込んだ。


その夜。

帰蝶の部屋。

玉は呼ばれていた。

帰蝶は静かに言った。

「京の件、信忠は光秀と会い、交渉を担っております」

玉は胸を撫で下ろした。

だが安堵の奥に、焦りが混じった。

(父上は……)

京の交渉は、戦よりも人を壊す。

玉は光秀の顔を思い出した。

丹波の報告を聞いた時の父の目。

疲れが沈み、光が薄かった。

それでも父は笑った。

「大丈夫だ」

その笑顔ほど危ういものはない。


玉は唇を噛んだ。

(父上が壊れれば……)

それは最も避けねばならぬ未来へ繋がる。

玉は帰蝶を見た。

「帰蝶様」

「殿に……お願いがございます」

帰蝶は玉の目を見つめた。

「光秀のことか」

玉は頷いた。

帰蝶は一瞬だけ沈黙し、そして立ち上がった。

「……よい。行こう」


信長の前。

玉は畳に手をつき、深く頭を下げた。

信長は座したまま、玉を見下ろす。

「申せ」

玉は顔を上げた。

「殿にお願いがございます」

信長の目が僅かに細くなる。


玉は息を吸い、言葉を選んだ。

「父上……明智光秀は、京にて役目を果たしております」

「ですが、負担があまりにも大きうございます」

信長は何も言わない。

玉は続けた。

「朝廷と公家は剣を持ちませぬ」

「ですが言葉で人を追い詰めます」

「父上は今、矢面に立ち続けております」

玉の声が少しだけ震える。


それでも止めなかった。

「私は明智の娘でございます」

一瞬、部屋の空気が張る。

玉はそのまま言葉を繋いだ。

「……ですが」

「私は信忠様の婚約者となり」

「いずれ織田の娘になります」

信長の目が、玉を貫くように細くなる。

玉は畳に額がつくほど頭を下げた。

「娘が親を案じるのは、当然でございます」

「父を心配するのは、明智の娘として」

「ですが、それは織田の娘としても同じでございます」


玉は顔を上げ、真っ直ぐ信長を見た。

「殿」

「どうか父上に、少しの配慮を賜れませんでしょうか」

「父上は忠義の者です」

「命を惜しまず働きます」

「だからこそ……殿が止めてやらねば、壊れます」

言葉が終わった。


部屋は静まり返った。

帰蝶が、何も言わず信長を見ている。

信長は玉を見つめた。

その瞳は冷たい。

だが冷たいまま、どこか揺れていた。

信長は低く言った。

「玉」

玉の背筋が伸びる。

信長は続ける。

「お前は情を使うのが上手い」

玉は身を固くした。

叱られると思った。


だが信長は、僅かに口元を歪めた。

「よい」

信長はゆっくり立ち上がった。

「京の役目を、信忠と分ける」

「光秀一人に背負わせぬ」

玉の胸が熱くなった。

信長はさらに命じる。

「光秀には休む時を与える」

「京の交渉に、もう一人付けよ」

帰蝶が小さく頷いた。

玉は深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」


信長は玉を見下ろし、冷たく言った。

「だが覚えておけ」

「天下は情だけでは動かぬ」

玉は顔を上げた。

信長は続ける。

「情を使うなら、責を背負え」

玉は静かに頷いた。

「はい」

信長は背を向けた。

「下がれ」

玉は再び頭を下げ、部屋を出た。

帰蝶が玉の肩にそっと手を置く。

「よく言った」

玉は答えず、ただ唇を噛んだ。

言えた。

言えたが、これで終わりではない。

父を守る戦は、まだ続く。


京。

光秀は岐阜からの文を受け取った。

そこには簡潔な命が書かれていた。

「信忠と役目を分けよ」

「一人で背負うな」

光秀は目を見開いた。


そして、ふっと息を吐く。

胸の奥が、少しだけ軽くなった。

(殿が……)

(私を見ていたのか)

光秀は文を机に置き、静かに天井を見上げた。

京の夜は冷たい。

だが今夜だけは、その冷たさが少しだけ和らいで感じられた。

光秀は知らない。

この命の裏に、玉の願いがあったことを。


玉も知らない。

この一歩が、どれほど未来を変えるかを。

ただ一つ。

確かなことがあった。

光秀の心は、今夜だけは折れずに済んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ