第百二十三話「娘の願い(光秀の疲労、信長の決断)」
京。
冬の風が御所の回廊を抜け、白い息を引きずるように去っていく。
静かで、冷たく、底が見えぬ空気だった。
明智光秀はその静けさが、何より恐ろしかった。
戦場ならば矢が飛ぶ。
槍が突き、血が流れる。
敵がどこにいるか分かる。
だが京は違う。
笑顔の裏に刃がある。
礼の中に毒がある。
一言で、家が滅びる。
「殿は主上への忠を、忘れておられぬでしょうな」
「官位叙任のことは、今後も朝廷に委ねられるのか」
「荘園の件は、いかが取り計らわれるのか」
柔らかな声で、丁寧に、何度も同じ問いが繰り返される。
答えを間違えれば、燃える。
光秀は微笑を崩さぬまま、腹の底で歯を噛み締めた。
(ここで言葉を誤れば……)
(殿は京を焼く)
(そしてその火は、私の名で燃える)
京の交渉は、殿の剣の代わりに己の神経を差し出す仕事だった。
光秀は一歩退き、頭を下げる。
「恐れながら――」
言葉を選ぶ。
一字一句を削る。
この仕事に失敗は許されぬ。
それを知るからこそ、心が擦り切れていく。
夜。
宿へ戻った光秀は文机の前に座った。
筆を持つ手が重い。
丹波の山で矢を避けた時より、
焙烙玉の爆ぜる音を聞いた時より、
今の方が疲れていた。
光秀は灯明の揺れを見つめながら、静かに息を吐いた。
(私は……何を守っている)
殿の威を守る。
朝廷の面子を守る。
天下の秩序を守る。
守るものが多すぎる。
そのすべてを背負う役目が、いつの間にか自分に集まっている。
光秀は目を閉じた。
胸の奥が重い。
だが休めぬ。
休めば京が崩れる。
京が崩れれば、天下が崩れる。
光秀は無理に筆を動かし、報告の文を書き始めた。
ただの文。
ただの報告。
だがその紙の上には、光秀の寿命が落ちていくようだった。
岐阜城。
信長のもとには、書状が積まれていた。
京の情勢。
毛利戦線。
播磨。
上杉。
勝っている。
確かに勝っている。
だが勝てば勝つほど、息が詰まる。
敵は潰れる。
領地が増える。
味方が増える。
そして味方が増えれば、裏切りの芽も増える。
信長は書状を読み、表情を変えず頷いた。
「……よくやっておる」
それだけで十分だった。
家臣の前で喜べば、気が緩む。
気が緩めば、隙が生まれる。
信長は勝利の中にこそ危険が潜むことを知っていた。
その報告の中で、最も重いのは京。
光秀が京を抑えている。
その事実だけで、天下は保たれている。
だが信長は思う。
(光秀は……持つか)
賢い。
忠義もある。
働きもある。
だが人だ。
人は折れる。
信長はその可能性を、口に出さぬまま飲み込んだ。
その夜。
帰蝶の部屋。
玉は呼ばれていた。
帰蝶は静かに言った。
「京の件、信忠は光秀と会い、交渉を担っております」
玉は胸を撫で下ろした。
だが安堵の奥に、焦りが混じった。
(父上は……)
京の交渉は、戦よりも人を壊す。
玉は光秀の顔を思い出した。
丹波の報告を聞いた時の父の目。
疲れが沈み、光が薄かった。
それでも父は笑った。
「大丈夫だ」
その笑顔ほど危ういものはない。
玉は唇を噛んだ。
(父上が壊れれば……)
それは最も避けねばならぬ未来へ繋がる。
玉は帰蝶を見た。
「帰蝶様」
「殿に……お願いがございます」
帰蝶は玉の目を見つめた。
「光秀のことか」
玉は頷いた。
帰蝶は一瞬だけ沈黙し、そして立ち上がった。
「……よい。行こう」
信長の前。
玉は畳に手をつき、深く頭を下げた。
信長は座したまま、玉を見下ろす。
「申せ」
玉は顔を上げた。
「殿にお願いがございます」
信長の目が僅かに細くなる。
玉は息を吸い、言葉を選んだ。
「父上……明智光秀は、京にて役目を果たしております」
「ですが、負担があまりにも大きうございます」
信長は何も言わない。
玉は続けた。
「朝廷と公家は剣を持ちませぬ」
「ですが言葉で人を追い詰めます」
「父上は今、矢面に立ち続けております」
玉の声が少しだけ震える。
それでも止めなかった。
「私は明智の娘でございます」
一瞬、部屋の空気が張る。
玉はそのまま言葉を繋いだ。
「……ですが」
「私は信忠様の婚約者となり」
「いずれ織田の娘になります」
信長の目が、玉を貫くように細くなる。
玉は畳に額がつくほど頭を下げた。
「娘が親を案じるのは、当然でございます」
「父を心配するのは、明智の娘として」
「ですが、それは織田の娘としても同じでございます」
玉は顔を上げ、真っ直ぐ信長を見た。
「殿」
「どうか父上に、少しの配慮を賜れませんでしょうか」
「父上は忠義の者です」
「命を惜しまず働きます」
「だからこそ……殿が止めてやらねば、壊れます」
言葉が終わった。
部屋は静まり返った。
帰蝶が、何も言わず信長を見ている。
信長は玉を見つめた。
その瞳は冷たい。
だが冷たいまま、どこか揺れていた。
信長は低く言った。
「玉」
玉の背筋が伸びる。
信長は続ける。
「お前は情を使うのが上手い」
玉は身を固くした。
叱られると思った。
だが信長は、僅かに口元を歪めた。
「よい」
信長はゆっくり立ち上がった。
「京の役目を、信忠と分ける」
「光秀一人に背負わせぬ」
玉の胸が熱くなった。
信長はさらに命じる。
「光秀には休む時を与える」
「京の交渉に、もう一人付けよ」
帰蝶が小さく頷いた。
玉は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
信長は玉を見下ろし、冷たく言った。
「だが覚えておけ」
「天下は情だけでは動かぬ」
玉は顔を上げた。
信長は続ける。
「情を使うなら、責を背負え」
玉は静かに頷いた。
「はい」
信長は背を向けた。
「下がれ」
玉は再び頭を下げ、部屋を出た。
帰蝶が玉の肩にそっと手を置く。
「よく言った」
玉は答えず、ただ唇を噛んだ。
言えた。
言えたが、これで終わりではない。
父を守る戦は、まだ続く。
京。
光秀は岐阜からの文を受け取った。
そこには簡潔な命が書かれていた。
「信忠と役目を分けよ」
「一人で背負うな」
光秀は目を見開いた。
そして、ふっと息を吐く。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
(殿が……)
(私を見ていたのか)
光秀は文を机に置き、静かに天井を見上げた。
京の夜は冷たい。
だが今夜だけは、その冷たさが少しだけ和らいで感じられた。
光秀は知らない。
この命の裏に、玉の願いがあったことを。
玉も知らない。
この一歩が、どれほど未来を変えるかを。
ただ一つ。
確かなことがあった。
光秀の心は、今夜だけは折れずに済んだ。




