第百二十二話「前倒しの潮(届く報、動く歴史)」
岐阜城。
冬が深まり、城内の空気は冷たかった。
だが信長のもとへ届く報は、熱を帯びていた。
ひと月の間に。
京から。
中国路から。
播磨から。
次々と書状が届いたのである。
まずは京。
信忠からの報。
五摂家との会談は滞りなく終わり、朝廷側の空気はわずかに和らいだ。
公家の恐れは完全には消えぬが、敵意は薄れ始めたという。
信長は書状を読み、ただ頷いた。
「……よい」
それ以上の言葉はない。
だが内心では理解していた。
(信忠が京を抑えれば、光秀の負担が減る)
京が荒れねば、天下は安定する。
続いて届いたのは、中国路。
秀吉からの書状であった。
筆の勢いが強い。
海から兵糧が届いたこと。
兵の士気が蘇ったこと。
殿の大船により毛利水軍が退いたこと。
そして最後に、秀吉らしい言葉があった。
「この御恩、必ず戦果にてお返し致します。
皆の者、進軍開始と相成りました」
信長はそこで、わずかに目を細めた。
(毛利水軍が退いた……)
それは戦の勝利ではない。
海を押さえたという事実だった。
海を押さえれば、兵站が止まらぬ。
兵站が止まらねば、秀吉が止まらぬ。
信長は心の中で確信した。
(戦は、もう勝ったも同然だ)
さらに播磨。
三木攻めの報告。
別所長治の城が、想定より早く削れている。
籠城は長引くどころか、内部が割れ始めた。
毛利の支援が届かぬ。
秀吉の兵は痩せぬ。
焙烙玉が城内を削り続けている。
城は、落ちる。
その兆しが明確に書かれていた。
信長は書状を置き、静かに息を吐いた。
(ここまで早いか)
海を制したことが、これほど戦を優位にするとは。
信長の想像をはるかに超えていた。
だが信長は家臣の前では表情を変えず、ただ頷くだけだった。
「……よくやっておる」
それだけ。
余計な喜びを見せれば、家臣は浮かれる。
浮かれれば、隙が生まれる。
信長は勝っている時ほど冷たかった。
その夜。
帰蝶の部屋。
玉は呼ばれていた。
帰蝶は静かに言った。
「京の件、信忠は上手くやっております」
玉は胸を撫で下ろした。
帰蝶は続ける。
「秀吉からも書状が来た」
「毛利水軍が退いたそうだ」
玉の目が大きく開く。
「……退いたのですか」
帰蝶は頷いた。
「大船が効いた」
「そして三木も、思ったより早く折れ始めている」
玉は息を呑んだ。
(前倒しだ)
歴史が。
教科書で読んだはずの出来事が、ずれている。
早い。
速すぎる。
玉の背中に冷たいものが走った。
(変わっている)
(確かに、変わっている)
この世界は、決まった筋書きではない。
自分の行動で、いくらでも動く。
それは希望でもあり、恐怖でもあった。
変えられるということは、悪い方へも変わるということ。
玉は思う。
(油断すれば、別の形で本能寺が来る)
(私は止めねばならない)
玉は静かに拳を握り締めた。
帰蝶は玉の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……玉」
玉は顔を上げる。
帰蝶は言った。
「お前の案が、天下を動かしている」
玉は一瞬だけ言葉を失う。
だがすぐに頭を下げた。
「私は……ただ」
「父を守りたくて」
「殿を、危うくしたくなくて」
帰蝶は小さく頷いた。
「それでよい」
玉は窓の外を見た。
冬の空。
冷たく澄んだ闇。
だがその闇の中で、歴史が動く音がした。
(歴史は確定ではない)
(変わる)
(ならば――変える)
玉は心の奥で誓った。
本能寺に繋げない。
絶対に。
それは、ただの願いではなく。
この世界を変える者としての、決意だった。




