第百二十話「兵站の勝鬨(秀吉、息を吹き返す)」
中国路。
湿った風が陣を抜けるたび、兵たちの顔には疲れが滲んでいた。
城は落ちる。
敵は崩れる。
だが――進めば進むほど、兵は痩せる。
戦は勝てても、兵糧が尽きれば終わり。
秀吉の陣には、じわじわと重い空気が漂っていた。
「米が減ってきたぞ」
「火薬が足りぬ」
「矢も尽きる」
小さな声が、確実に広がり始めていた。
秀吉は笑っていた。
いつものように。
だが、その笑みの奥は冷えていた。
(……あと少し遅れれば、止まる)
(止まれば毛利は息を吹き返す)
それだけは許されぬ。
秀吉は地図を見つめながら、祈るように呟いた。
「殿………」
その時だった。
前線の見張りが駆け込んでくる。
「殿ッ!」
秀吉が顔を上げる。
「どうした」
「海より……船影が見えます!」
秀吉の目が鋭くなる。
「海……?」
次の瞬間、陣がざわめいた。
兵たちが走り、丘へ駆け上がる。
そして見えた。
海に浮かぶ巨大な影。
城のような船。
その後ろに続く輸送船。
波を割って進むその姿は、まるで海そのものを支配するかのようだった。
「来た……!」
誰かが叫んだ。
「殿の船だ!」
「織田の大船が来たぞ!」
秀吉は、思わず息を吐いた。
(間に合った)
それだけで、胸の奥が熱くなる。
荷が降ろされる。
米俵。
塩。
干物。
酒。
火薬。
鉛玉。
種子島の弾。
焙烙玉。
陶器片入りの崩落玉。
そして矢束。
次々と積み上がる物資を見た瞬間、兵たちの目が変わった。
疲れた顔が、息を吹き返す。
「米が……こんなに」
「火薬だ!」
「弾が届いたぞ!」
誰かが笑い、誰かが泣いた。
兵糧は命。
武器は希望。
補給が届いたというだけで、軍は蘇る。
秀吉は笑った。
心の底から。
「はは……!」
官兵衛が静かに言う。
「毛利水軍が退いたのでしょう」
秀吉は頷いた。
「殿が海を開いた」
「いや……殿だけやない」
秀吉はその船を思い浮かべる。
鉄で覆われた大船。
岐阜で動いていた者たち。
秀吉は舌打ちするように笑った。
秀吉はすぐさま筆を取った。
紙を広げ、勢いよく書き始める。
信長への書状。
「御屋形様へ――」
筆が止まらない。
感謝。
報告。
そして決意。
“この御恩、必ず戦果にてお返し致します”
書き終えると、秀吉は封をし、使者へ渡した。
「至急、岐阜へ」
「一刻も早う届けい」
使者が走る。
秀吉は立ち上がった。
そして陣の中央へ出る。
兵たちが集まる。
秀吉は大声を張り上げた。
「皆のもの!」
疲れた兵たちの目が、一斉に秀吉へ向く。
秀吉は腕を広げ、海から届いた物資を指差した。
「見たか!」
「殿が、わしらを見捨てるわけがない!」
「織田の兵站は、海を越えて届く!」
兵たちの顔が輝く。
秀吉はさらに声を上げた。
「さぁ!」
「殿のご恩に報いるためにも――」
「進軍開始じゃ!!」
その瞬間。
鬨の声が陣を揺らした。
「おおおおお!!」
士気が爆ぜた。
まるで別の軍になったようだった。
兵は腹を満たし、武器を握り、目を燃やす。
秀吉は笑った。
(毛利よ)
(ここからが本当の地獄じゃ)
兵站が繋がった。
それはつまり、戦が止まらぬということ。
そして秀吉は確信していた。
この海路がある限り。
中国路は、織田のものになる。




