第百五話「北陸の睨み(柴田勝家、越後の龍と対峙す)」
北陸の空は、鉛を流したように重かった。
雪はまだ本格的には降っていない。
だが風は冷え、土は凍り始めている。
その空の下、越中の境に近い砦に、柴田勝家は立っていた。
目の前に広がるのは山。
その向こうが越後。
上杉謙信が動けば、必ずここを通る。
勝家は兜を押さえながら、息を吐いた。
(殿が俺に任せた北)
(ならば、ここで止める)
勝家は守りの将ではない。
本来は攻めの武将だ。
だが今は守りが攻めになる。
守りきれば、越後の龍の牙を折れる。
折れれば、包囲網の輪は緩む。
勝家は背後の兵に言った。
「油断するな。
敵は来ぬようで来る」
「来る時は、雪と共に来る」
兵が応じる。
「ははっ!」
砦の裏手。
新たに運び込まれた小型投擲器が並べられていた。
分解して運び、ここで組み立てる。
工兵が縄を締め、木枠を叩き、腕木を調整する。
家臣の佐久間盛政が怪訝な顔をしていた。
「勝家様、本当にこれを使うのですか」
勝家は笑った。
「使うかどうかは、その時決める」
「だが持っているだけで違う」
盛政が首を傾げる。
「持っているだけで……?」
勝家は砦の上を指さした。
「上杉が攻めるなら、籠城戦になる。
籠城戦で“火”が飛んでくると思えば、敵は慎重になる」
盛政は黙った。
勝家の言う通りだ。
戦は刃だけでなく、心で決まる。
勝家は続けた。
「殿は北を守れと言った」
「だが俺は、守りながら削る」
その目は鋭かった。
その夜。
斥候が戻ってきた。
息を切らし、膝をつく。
「勝家様!越後勢、動きにございます!」
砦の空気が一気に張り詰める。
勝家はゆっくり立ち上がった。
「……謙信が来たか」
斥候が続ける。
「越中方面へ兵を進めております!
数は……一万を越えるかと!」
勝家は鼻で笑った。
「ようやく動いたか」
勝家は命じる。
「狼煙を上げろ。
全軍配置につけ」
「鉄砲隊は塀の内側に。
弓は高所。槍は門前」
「そして投擲器を隠せ」
盛政が驚く。
「隠すのですか」
勝家は頷いた。
「見せれば警戒される。
初めて飛ぶ火は、敵の心を折る」
盛政は拳を握り、応じた。
「ははっ!」
翌朝。
霧が濃い。
霧の向こうから、太鼓の音が聞こえた。
どん……どん……。
その音は、地面から響く。
上杉軍の足音が、北陸の大地を揺らしている。
砦の上から見張りが叫んだ。
「旗――上杉の旗が見えます!!」
勝家は砦の上に立った。
遠く、霧の中に旗が揺れる。
毘の旗。
越後の龍の軍旗。
勝家は目を細めた。
「……義の旗か」
上杉謙信は、正面から来る。
策を弄さず、堂々と。
だがその堂々さこそが、脅威だ。
謙信の軍は、乱れない。
崩れない。
引かない。
勝家は唇を歪めた。
(厄介な相手だ)
上杉軍の先陣が止まり、陣が張られる。
謙信はすぐには攻めない。
勝家はその様子を見て、理解した。
(居座る気だな)
(決戦をせず、圧をかける)
越後の龍は、戦の形を知っている。
勝家の背後で、前田利家が言った。
「勝家様……上杉は攻めてきませぬ」
勝家は答える。
「攻めぬ方が恐ろしい」
「攻めぬということは、長くここに居るということだ」
利家が眉をひそめる。
「兵糧は……」
勝家は笑った。
「越後の兵糧も無限ではない。
だが謙信は民を飢えさせぬ。そこが弱点だ」
勝家は兵に命じた。
「こちらも動くな。
焦って出るな」
「守りに徹し、敵の兵糧を削れ」
「敵が痺れた時、火を投げる」
砦の中で、投擲器の縄が締め直される。
焙烙玉が油紙に包まれ、木箱に収められる。
湿気対策は徹底された。
勝家は砦の上から、霧の向こうの旗を睨み続けた。
越後の龍。
織田の北の盾。
どちらも動かない。
動かないことが、戦だった。
夜。
雪がちらつき始めた。
勝家は空を見上げる。
「……来たか」
雪は戦を止める。
だが信長は、その常識を壊し始めている。
勝家は背後を振り返り、投擲器を見た。
(玉の知恵か)
(殿の決断か)
(信忠の進言か)
全てが一本の線になり、ここへ届いている。
勝家は静かに呟いた。
「越後の龍よ……」
「この雪は、お前の味方ではない」
砦の上で、勝家は笑った。
それは恐れを押し潰す笑みではない。
戦の始まりを楽しむ、攻めの男の笑みだった。
北陸の睨み合いは始まった。
刃を交える前に、
心と兵糧が削られていく戦が。




