第百一話「北の盾」
北ノ庄。
空は鉛色に沈み、風が冷たく頬を打つ。
雪はまだ降っていない。
だが、この寒さは間違いなく前触れだった。
柴田勝家は城内の広間に立ち、地図を見下ろしていた。
越中。加賀。能登。
そして越後。
上杉謙信が動けば、北陸は火に包まれる。
だが勝家の胸には恐れよりも、熱があった。
信長から「北を任せる」と言われた。
それだけで血が騒ぐ。
勝家は拳を握りしめた。
(殿が俺を選んだ)
(ならば守り切る。いや、守るだけでは終わらせぬ)
勝家は家臣たちに命じていた。
兵糧を集めよ。
矢を蓄えよ。
鉄砲玉を整えよ。
薪を積め。
冬籠りの支度を怠るな。
「北の守りは、冬が勝負だ」
勝家の声に、家臣たちが一斉に応じた。
「ははっ!」
勝家は腕を組み、薄く笑った。
準備は整いつつある。
北は、俺が守る。
その時だった。
足音が走り込み、使者が膝をついた。
「勝家様!岐阜より、殿からの書状にございます!」
勝家の目が鋭くなる。
「殿から……!」
勝家はすぐに書状を受け取った。
封を切り、目を走らせる。
次の瞬間、勝家の眉がぐっと寄った。
「……何だこれは」
同封されていたのは、一枚の図案。
大八車の車輪。
その下に大きな板のようなものが付けられている。
馬が引く形まで描かれている。
勝家は紙を裏返した。
もう一度見た。
「……意味が分からぬ」
家臣の一人が恐る恐る言う。
「勝家様……殿は何を仰せなのか」
勝家は唸った。
「雪に沈まぬようにする、だと?」
「車輪の下に板を付ける?
馬に引かせる……?」
勝家の頭では、形にならない。
戦は分かる。
攻めも守りも分かる。
だがこれは――戦の前の“道具”の話だ。
勝家は叫ぶように命じた。
「おい!者を呼べ!
この図が分かる者を連れて来い!」
しばらくして家臣が集まった。
前田利家。佐久間盛政。
そして府中三人衆の一人、佐々成政。
勝家は紙を叩く。
「これを見よ。殿からだ」
利家が覗き込み、口を開く。
「……車輪の下に板?」
盛政が怪訝そうに眉をひそめる。
「これで何を……」
佐々成政だけが、じっと図案を見つめていた。
勝家が問う。
「成政。分かるか」
成政はゆっくりと頷いた。
「もし……殿が仰せの通りに作れるなら」
「雪に沈む車輪を、板で支えるということかと」
勝家が目を細める。
「そんなことが出来るのか」
成政は続けた。
「接地面が増えれば、沈みにくくなります。
馬の進める深さまでですが、荷駄は通るやもしれませぬ」
利家が驚いたように息を吐く。
「……なるほど」
盛政が言った。
「だが、これが出来れば……」
成政が言葉を継いだ。
「冬でも物資が運べる。
守りだけでなく、逆に攻めることも可能になるやも」
その瞬間。
勝家の胸に火が灯った。
守るだけではない。
雪が降る季節にすら動けるなら、上杉の思惑を崩せる。
勝家は思わず笑った。
「……そうか」
「そういうことか!」
勝家は拳を握り、立ち上がる。
「殿は北を任せただけではない……」
「北で勝てと言っているのだ」
勝家の顔に、武将の高揚が浮かぶ。
利家が言った。
「殿は……恐ろしい御方ですな」
勝家は笑ったまま頷いた。
「そして、その殿が俺を選んだ」
その言葉に、家臣たちが静かに背筋を伸ばす。
勝家は攻めの男だ。
守りを任されても、心の奥では常に攻めを考える。
だが――
勝家は地図を見下ろし、低く言った。
「……しかし今は守りに徹する」
「雪が降る。道が閉ざされる。
焦って動けば、敵の思う壺だ」
勝家は図案を握り締めた。
「まずはこれを作らせる。
工兵を呼べ。大工を集めろ」
「殿の命を形にするのが、俺の役目だ」
家臣たちが一斉に応じる。
「ははっ!」
家臣たちが去り、広間に静けさが戻った。
勝家は一人、書状を見つめた。
殿から任される。
それは命令であり、同時に褒美だった。
勝家はふと、微笑む。
(殿は俺を信じている)
(ならば俺も応える)
越後の龍が来ようと、
雪が道を閉ざそうと、
北は落とさぬ。
勝家は低く呟いた。
「北は……俺が守る」
その声は誓いだった。
そして勝家は、紙を丁寧に折り、懐に入れた。
雪が降る前に。
戦が始まる前に。
柴田勝家は、北の盾として動き始めていた。




