Ep.7 To be continued....⑥
見渡す限りの人、人、人。人。
俺の受験会場に指定された教室は大規模な講演会でも出来そうなほどの大きさを持つ教室で、着いたときには既に人で溢れかえっていた。ようやくのことで自分の席を見つけ着席し、ふぅっと大きく一息つく。
隣に座っていた女子の方をチラリと見やると、国立大学が第一志望なのだろうか。もう間もなく明央の入試が始まるというのに、机の上に広げられた参考書は東橋大という難関国立大学のもので、俺は思わず顔をしかめる。
「(……そうだよな。滑り止めがてらに受けてくる奴だって、そりゃいるよな)」
自分がこれまでに受けてきた私立大学だって、俺にとっては滑り止め扱いのところだったが、そこを第一志望にしている人は決して少なくなかったはずだ。そうは分かっていても、自分より圧倒的に高い学力を持っている受験生が会場内にどれだけ紛れ込んでいるのかと考えると、悪態をつきたくなる。そいつらのせいで自分の合格への道が閉ざされる可能性だって十分に──
「(……いや、違うよな)」
センター試験が終わって間もない頃、瑠美と桜と交わした会話を思い出す。
『いいですか悠馬先輩、桜先輩。明央大学を受けに来る受験生の中には、もっと上の私立大学とか、国立大学を第一志望にする人もたくさんいるんです』
『でも、瑠美ちゃん。そういう人って、第一志望のところに受かったら明央には入学しないよね? 私立は合格者……っていうか入学許可候補者はあらかじめたくさん出しておいて、逃げられてもいいようにするって聞いたんだけど……』
『だから大丈夫なんじゃないの?』と聞いた桜に、瑠美は表情に影を落としてこう答えていた。
『いいえ……ちょっと前と違って国からの規制が厳しくなったので、今はそもそも合格者をたくさん出せなくなってるんです』
『えっ⁉ じゃあ、合格者を国立とか難関志望の人がたくさん占めちゃったら……』
『はい。その年の入学者はとっても少なくなってしまうんです。それを避ける意味もあって、私立大学では指定校推薦やAO入試が近年盛んになっています』
なるほど、と頷く俺と桜。とはいえ、それを知ったところでもう指定校推薦などの締切はとっくに過ぎており、どうすることもできない。
そこで、俺は確かめる意味を込めてこう質問したのだった。
『じゃあ、俺たちが明央に受かる可能性ってのはものすごく低いものなのか? いくらセンター試験でうまくいったからって、国立を受ける奴らには到底及ばないぞ』
ハルトなんて、900点満点で826点もとれたと言っていた。文系科目で落とした点数は三十点にも満たなかったらしい。
桜も不安そうな表情を浮かべる。それに対して瑠美が見せた反応は、励ましの言葉でも無責任な応援でもなく、不敵な笑みを口元に浮かべることだった。
『大丈夫です。国立志望者にも最難関私立志望者にも、先輩たちが負けないポイントがあります。それは──』
「(過去問演習の量、だよな)」
俺は鞄から「明央大過去問演習」と書かれた一冊のノートを取り出した。パラパラとめくると、そこにびっしりと書かれた自分のメモが目に入ってきた。
『第一志望を他の大学にしている人は、先輩たちほど過去問に取り組んできていません。如何に過去問から傾向をつかめるか。効率的な解き方を準備できるか。出そうな問題を予想できるかについては、先輩たちが圧倒的に優位にいるんです!』
そう言って瑠美は力説したものだ。実際、センター試験を終えてから今日に至るまで、俺はほとんど毎日のように明央大学商学部の過去問を解かされたし、俺自身も積極的に過去問に取り組もうとしていた。
「それでは、間もなく試験を始めますので席についてください」
試験監督が会場に向かってアナウンスを始める。何やら注意事項が読み上げられている間も、俺の心臓は早鐘のようにトクトクと脈拍を刻んでいた。
「(傾向が変わりませんように、傾向が変わりませんように……)」
もちろん、瑠美からは傾向が変わっていた場合も想定した指導を受けている。ただ、自分のアドバンテージを十全に活かすには、昨年までの傾向が踏襲されているかどうかは非常に大きな問題だ。
勝負は時の運。こればかりは、いくら対策しても手の打ちようがない部分であった。
「それでは、今から英語の問題用紙を配布します」
スーツを着た大学職員の人が、順に問題用紙を受験生の手元に置いていく。あと数分。あと数分で自分の将来が決まる闘いが始まる。これに失敗すれば自分は──。
「(って、あれ?)」
そこまで考えたとき、ふと気づいた。この試験に失敗したからといって、どんな問題があるのだろう。他の大学に行ったら、もしくは浪人したら命でも取られるのか。
明央を選んだのだって、本当に偶然が積み重なった結果だ。たまたま二年次の模試の志望校にしていたこと。「自分の学力でいける一番上の学校に行きたい」と汐音に伝えた。落ちたらなら、俺の学力が及んでなかった。それだけのことではないか。
なんでこんなにも緊張しているのか。その原因を頭の中で探っているとき、ちょうど真横に来ていた試験監督が、俺の机の上に問題用紙をそっと置いた。何の気無しに表紙を見ると、注意事項などがつらつらと書き連ねてある。何度も瑠美と一緒に見て来たものと、寸分たがわない。
って、
「(なんだ。そういうことだったのか)」
気がつくと、おかしくて思わず口元が緩む。隣の受験生が鬱陶しそうに俺の方を一瞥してきたが、それでも俺のニヤニヤはとまらない。
カチッ、カチッと教室の時計の秒針が動く音が響く。教室内に高まる緊張感。俺はと言えば、さきほどとは打って変わって、ほどよい緊張感で満たされていた。
「それでは、試験始めッ!」
合図とともに、皆が一斉に問題用紙を開く。まず全体の問題構成を確認……よし、例年と変わらない。自分が得意とする会話文の問題から解いていく。瑠美から教わった解き方に則って、一問一問。確実に解答を埋めていく。
最初はある程度落ちついていたものの、問題を解き進めるにつれ脳内でアドレナリンが大量に分泌されたのか、次第に興奮が体を駆け巡っていった。
試験開始からどのくらいの時間が経ったのだろう。俺は解答用紙を全部埋めた。埋めきった。
手応えは感じた。やり切った、と思った。それはそうだ。俺はこのためだけに、今年一年間血のにじむような努力を重ねてきたんだから。
それでもなお、胸の激しい動悸は一向に納まる気配を見せない。使い古された鉛筆を持つ右手は、手汗でべっとりとしている。
ふと目線を前に向けると、一心不乱にシャーペンを動かす、名前も知らないライバルたちがたくさんいた。彼らだって俺と同じように、この日のことだけを考えて日々の生活を過ごしてきたに違いない。
「(思い起こせば、あっという間の一年だったな)」
返ってきた模試結果の悲惨さに絶望していた4月の初め。それからの八か月は、本当にあっという間だった。
まさか自分が明央大学を受験することになるとは思ってもいなかった。この大学を本気で受験しているライバルたちと対等の勝負ができるなんて、考えもしなかった。
「(全部、瑠美のおかげだ。瑠美がいたから、俺はここまで来ることができたんだ)」
優しく、時に厳しく、確かな愛情をもって俺の受験勉強に付き合ってくれた大切な人。まだ出会ってから1年も経っていないのに、なんだかもう、ずっと隣にいたような気すらしてくる。
そんな彼女に報いる方法は、一つしかない。この大学に合格し、自分と彼女の一年間の成果を目に見える形で残すこと。将来のため? そんな大層なことは考えちゃいない。今日の受験は、俺の発表会なんだ。そりゃあ緊張もする。しない方がおかしい。
「試験時間はあと10分になります。もう一度、受験番号、氏名が正しく記入されているかを確認してください」
試験監督の無機質な声が、マイクを通して会場に響き渡る。余計な回想に浸ろうとしていた思考を切り替える。発表の時間はまだ終わっていない。やるからには最高の結果を瑠美に届けたい。
カチッ、カチッ──時計の針は止まることなく進み続ける。残り九分、八分……五分……二分、一分。そして。
「解答やめッ! 筆記用具を置いてください」
周囲から悲嘆、安堵、諦観、困惑。さまざまな感情が雰囲気で伝わってくる。
そんな中俺の表情は──鏡を見たわけじゃないから本当のところは分からないが──きっと一点の曇りもない、晴れやかなものになっていたに違いない。




