1.アリシアとロイド
全12話で、最後まで執筆済みです。
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昔からアリシアはこうだった。
今日も、書類の山を抱えてよたよたと歩いている。
書類は見た目以上に重く、上の方の紙がずれてよろめきそうになった。
「あっ」
慌てて姿勢を立て直そうとするも間に合わない。
ずれていく紙の束を、アリシアはなす術なく眺めていた。しかし、後ろからぬっと伸びてきた腕が、落ちそうになった紙の束を支えた。
「また押し付けられているんですか」
「ええと……うん。運んで欲しいって先生に言われて……」
そう言ってへらりと笑うと、紙の束の向こうに眼鏡をかけた大人しそうな顔が現れた。
ダークブルーの瞳と目が合い、頬に熱が集まるのを自覚した。
「やっぱり断れないんですね」
ロイドの顔は無表情に近いままだ。
以前も同じようなことがあり、その時はアリシアは紙を床にばら撒いてしまった。通り掛かったロイドはアリシアの話を聞き、断れないんですかと言った。お茶を濁すように笑ったアリシアに、彼は言ったのだ。
「前から思ってましたが、どうしてそうなんですか。やりたくないのなら断るべきです。あなたは利用されているんですよ。分かっていますか?」
それでも困ったように笑うことしかできないアリシアに対して、貸してください、と言って書類の山を全て取り上げた。
今回も同じように、へにゃりと妙な笑顔を保ったまま固まっている彼女の手から全ての書類が消えた。
「優しいね、ロイド。一緒に行ってくれるの?」
苦虫を噛み潰すような顔をした彼は黙ってアリシアに背を向けた。迷いなく歩いては行くが、アリシアにペースを合わせて少しだけゆっくり歩いてくれていることを彼女は知っていた。
アリシアは彼が持ってくれた書類を見上げ、そのうち一部を自分が運ぶ分として下ろしてきた。
「このくらいは持たせてね」
ニコニコしながら隣を歩く彼女を、ロイドは複雑そうな表情で眺めた。
歩くたびに彼のサラサラの銀髪が儚げに揺れる。陽の光の中でそれはキラキラと輝いていた。
好意を返してもらおうとは思っていない。アリシアはロイドの隣を歩けることが幸せだった。ただそれだけで十分だった。
* * * * *
森の中にひっそりと存在するこの村に、学校ができたのはそれほど昔の話ではない。当時、即位したばかりの王は、王国中の村や町に学校を作ることを命じた。
そうして、この村に小さいながらも学校というものができた。
「どうしてもっといい成績が取れないの! この馬鹿娘!!」
頬を叩かれ、アリシアの手から試験結果が書かれた紙が滑り落ちた。
転んだ拍子に膝を擦りむいて、思わず顔をしかめる。
「なんなの、その顔は。あんたの努力が足らないのがいけないんでしょう! 今日はあんたの分のご飯はないわよ」
見上げる母に向かってごめんなさい、と言い、へらりと笑った。
「分かった。じゃあ、勉強してきます」
ふん、と鼻を鳴らしてその言葉を無視した母は、アリシアに背を向けた。アリシアはその背を見送ってから立ち上がり、もうすでに暗くなっている家の外へ出ていった。
向かうのは村の学校だ。小さな村の学校なので施錠はしておらず、勉強場所として好きに使っていいと言われていた。
アリシアは5歳のころ、「あんたは、この村の薬師になりなさい。そのためにたくさん勉強をして、あの薬師のところへ弟子入りするのよ」と、母から過大な期待をかけられてその学校へ入学した。幼い頃からそう言い聞かせられており、アリシアの脳には『薬師にならなければいけない』という意識が刷り込まれていた。
アリシアが向かったのは学校だが、教室ではない。校舎裏の倉庫だ。
木の引き戸を開けると、埃とカビのにおいがする。アリシアは迷わず暗い倉庫内へ入っていった。
木窓の隙間から月明かりの弱い光が差し込んでいる。
「……ふぅっ……グスっ……」
後ろ手に引き戸を閉めると、涙が溢れ出した。
戸に背を預け、ずるずるとしゃがみ込む。膝を抱えて座り、顔を覆ってひたすら涙を流した。
頬が熱を持ってジンジンと痛んでいる。
アリシアがわざわざこんな場所で泣くのは、家の自室で泣いているところを母に見られ、「何泣いてるのよ。お母さんが悪いって言うの?」とひどい折檻を受けたことがあるからだ。
以降、勉強してくると言ってここで泣くようになった。
涙を流すと、つらい気持ちが涙に溶けて少し楽になるような気がしていた。
昔はここまで酷くはなかった。
学校の中でも比較的上位にいれば、母はアリシアの頭を撫でて、夕飯にはアリシアの好物を用意してくれることもあった。
そのハードルが上がってきて、昔とは同じ順位では満足できなくなったのは、いつからだろうか。
「痛い……なぁ……」
膝の間にさらに顔を埋め、小さく縮こまる。
アリシアが成績上位でないと許せない母の理由は知っている。口さがない近所のおばさんたちが、アリシアに聞きたくもない話を喜んで吹きこんでくれたからだ。
『アリシアのお母さんはね、昔この村の薬師に恋していたのさ』
『この村の薬師が結婚してから、あんたの母さんは狂ってしまった』
『アリシアのお父さんは誰なのかしらね。村の誰も知らないのよ』
『アリシアのお母さんは、今もこの村の薬師に恋焦がれ続けているのさ』
意地悪そうに笑う村のおばさんたちが、口々に話す内容をつなげていけば、おのずと意味は見えてくる。
大した症状もないのにアリシアを診てほしいと言って薬師のところへ連れていっては、母はまるで少女のような顔をした。自分が彼に会うための道具でしかないことを、アリシアは幼心に悟っていた。だから、おばさんたちの言っていたことはあながち間違いではないのだ。
そのうえ、母も昔薬師を目指していたという。必要とされる知識の膨大さに打ちのめされてその道を諦めたという母は、アリシアに勉強を強いた。
倉庫の外から誰かの足音がする。
その足音は倉庫の戸の前で止まり、アリシアは身を固くした。
引き戸が開けられる。
「やっぱり、ここにいましたか」
「……ロイド?」
後ろを振り向くと、月明かりに照らされた銀髪が輝いていた。
慌てて涙を拭うが、取り繕えはしない。顔を隠そうとした手に、布地が触れる。
暗闇の中で、見えなくても分かる。白いハンカチ。
「使ってください。隠さなくても今更ですよ。どうせここなんだろうな、と思って来てますし」
「……それも、そっか。ぐすっ……いつも、ありがとう、ロイド」
ハンカチを受け取ってへらりと笑顔を見せると、わずかに顔を歪めたロイドはアリシアの隣に座り込んだ。
そして控えめに、アリシアの背をそっと撫でてくれた。時折、肩から落ちたアリシアの長い茶色の髪を、丁寧な手つきで背中に戻してくれる。
アリシアの髪ごと背を撫でる手がどうにもくすぐったくて、今度は本当の笑い声が漏れた。
「なんか、懐かしいね。最初にロイドが、泣いてた私を慰めてくれた時のこと、思い出すなぁ」
「そんな昔のこと、忘れました」
「そっか。でも、私はずっと、覚えてるよ」
あの時も、この場所だった。
5年前、アリシアが8歳ごろのことだっただろうか。いつものように倉庫でこっそり泣いていたら、ちょうど何か荷物を取りに来たらしいロイドに見られてしまった。
彼は驚いたようにアリシアを見つめ、おろおろと入り口を何度か出入りした。
最後には当時大して親しくもなかったアリシアに、「…………使って、ください」と言って白いハンカチを差し出してくれた。そして躊躇いながら隣に座り込んで、そっと背を撫でてくれた。
涙が止まって笑いかけると、それを見てほっとしたように表情を少し緩めたロイドの、ダークブルーの瞳。その瞬間、夜空を閉じ込めたような紺碧の宝石が、心の中の宝箱に大事に収められた。
その時から、アリシアはロイドのことを気にするようになった。いつも素っ気なく見えた同い年の彼が、心の中に優しさを秘めていることを知ってしまったから。
「ロイドって、優しいよね」
「あなたくらいですよ、そんなことを言うのは。みんな僕のことを口煩いメガネだとしか思ってませんよ」
「みんな見る目がないだけだよ」
教室の窓際の植木はいつも青々としている。ごみ箱は満杯になってあふれることはない。落とし物は気づいたら本人の机の上に戻っている。
放課後もロイドをこっそり追いかけていたら、どれもロイドのおかげだったことに遅まきながら気づいて、アリシアは恥じ入ったのだった。
ロイドの白いハンカチで最後の涙を拭ったアリシアは、「また洗ったら返すね」と言って、丁寧に畳んだそれをポケットにしまい込んだ。
「落ち着きましたか」
「うん」
「なら、教室に行きましょう」
「え、なんで?」
「いいから」
そう言う彼に首を傾げながら、付き従って教室に移った。
月光が差し込む教室は、普段とまるで違って見える。ロイドがランプに火をつけてくれ、各自机に着いた。
「うちで余ったものです。あげます」
「え」
差し出された紙包みの中には、ジャムを挟んだパンが入っていた。
ありがとう、と小さく呟き、俯いてジャムパンをかじる。
「僕は勉強をしに来ただけなので」
ロイドはそう言って、背を向けてノートを開いた。
パンに挟まれたジャムは、端から端まで丁寧に均一に塗られていて、食べるうちに少ししょっぱくなった。
* * * * *
次の日の授業中、アリシアは少し離れた場所に座るロイドのお星さまのような銀髪を眺めて、何度も頬を染めた。彼は熱心に授業を聞き、ノートを取っている。
ロイドはアリシアにとって、夜空に一際輝く一番星のような存在だった。彼の声を聞くだけで、彼と一緒の空間にいるだけで、幸せな気持ちになる。
昨日借りた白いハンカチは、ほんのりロイドのにおいがして洗うのがもったいなかった。
アリシアには、好意が行きすぎて彼に少し引かれている自覚もあった。
自重しようとは思っている。
授業が終わり、皆それぞれ昼食を食べに教室から出ていく。
ロイドもランチボックスを持って外へ出ていった。
「ロイド!」
「アリシア……またあなたですか」
「だって、ロイドを見かけたから。一緒にご飯食べてもいい?」
「勝手にしてください……」
そう言ってため息をついたロイドは、少し歩調を緩めて一緒に歩いてくれた。
ロイドが昼休みを取る場所はだいたい決まっている。中庭のベンチに並んで座り、彼はランチボックスを開いた。家庭料理が彩りよく詰められた彼のランチボックスを見て、アリシアは自分の持っていた包みをそっと脇に置いた。包みの中は、朝母に隠れてこっそりと詰め込んだパンとチーズのスライスだけが入っている。すっかり中身を忘れていた。母は、一度機嫌を損ねるとしばらく直らないのだ。
アリシアはポケットの中に入れていた白いハンカチを取り出すと、ロイドに差し出した。
「ハンカチ。ありがとう」
「別に、毎回洗わなくてもいいんですよ」
「自分で使ったものは洗って返すよ」
ハンカチを受け取った彼をニコニコと見つめていると、彼はちらりとアリシアの持っていた包みを見た。
アリシアは目線を泳がせて立ち上がる。
「じゃあ、用も済んだし、私はこれで……」
「アリシア」
「……」
浮かせた腰を下ろす。
じっと包みを見つめる彼の無言の圧に押され、アリシアは仕方なく包みを開いた。
チーズが乗ったパンの上に、さらに野菜が乗せられる。
「栄養バランスが悪いと風邪をひきます。クラスで風邪が流行ると困りますからね」
「いつもすみません……」
アリシアは小さく縮こまってパンをかじった。
「ロイド、今回の試験も学年1位だったんでしょ?」
「まぁ……そうですが」
「ほんと、すごいよね」
なんの気も無しにそう言ったが、ロイドは複雑そうな顔をした。
「成績のこと、気にしないのですか?」
「え、なんで?」
「ならいいです……あなたってそういう人ですよね」
アリシアにはさっぱり分からなかったが、ロイドの中では腑に落ちたらしい。
「僕は好きなことを勉強しているだけですよ。好きではない科目も、目指す学校に進むためと考えれば苦ではないです」
「そっかぁ、すごいなぁ。ロイドは王都の学校に行きたいんだよね」
「ええ。国立王都学園です。あそこなら、地理なども学べます。この村だけでは、詳しいところは学べません。でも、学園なら地政学を専門にしている先生がいるんです。できれば師事したいと考えています。あの先生の書いた本を先日読んだんです。あれだけ知識が深ければ——」
そこで言葉を切ると、ロイドはアリシアをチラリと横目で見た。
アリシアはキラキラと目を輝かせてロイドのことをじっと見つめている。それを胡乱げな視線で制すると、再びため息をついた。
「こんな話、聞いていて楽しいですか?」
「楽しいよ。好きなことを話してるロイド、良い表情してるもん。だから気にしないで?」
「……」
口をつぐんでしまったロイドに、引き際を察したアリシアは手元にまた視線を落とした。
自分が母と同様に、誰か一人への執着を持つのだと、アリシアはよく理解していた。だが、好意を返してもらおうとは微塵も思っていない。自分は、母とは違うのだ。
アリシアは軽く咳払いをした。
「私も勉強頑張らないとね。私が目指してる薬師専門学校も、王都にあるんだ。やっぱり、入学結構難しいみたい。まだまだ学力が足らないからなぁ」
へらりと笑いかけると、眉を顰めた彼と視線が合った。
一瞬怯む。
「あっ、……大丈夫! 王都に行きたいとは思ってるけど、もし行けたとしても、ロイドには今ほど迷惑はかけないと思うから!」
「そうではないです。……勉強、そんなに厳しいんですか」
「え? ……まぁ。でも、大丈夫。やれるかぎりで頑張るから」
「人に教えるのが、一番身につく勉強法だといいます」
「うん。……ん?」
はぁ、とひとつため息をついたロイドは、眼鏡をクイと押し上げた。
「あなたに勉強を教えると言っています。僕も自分の知識がちゃんと身についているかどうか、確かめたいですから」
「え、でも悪いよ……ロイドみたいに頭良くないもの、私……」
「良いんです。僕の勉強のためなんですから」
「そう……? なら、お願いしようかな……」
ちら、と上目遣いにロイドを見ると、すっかりランチボックスを食べ終えた彼は立ち上がる。
「では、放課後に教室に残ってください」
素っ気なく言った彼は、スタスタと先に校舎へと戻って行ってしまった。呆然とそれを見送ったアリシアは、放課後もロイドと一緒にいられるのだと思って、満面の笑みでその背を見つめた。
しかし、そんなアリシアを待ち受けていたのは、ロイドと二人きりの甘い時間などではなかった。
以降、放課後はロイドのスパルタ指導を受けることになったアリシアは、半べそをかきながら必死に勉強した。おかげで、成績はあっという間に伸びて行ったのだった。
放課後こそ厳しい指導を受けて塩をかけられたナメクジのようになってはいたが、昼休みになるとロイドに付き纏って昼食を共にするアリシアのことを、周囲は生温かい視線で見ていた。
そんなことはアリシアも何となく察してはいたが、アリシアは現状に満足していた。大好きな彼を近くで見ていられることが、アリシアにとっては何よりも大切だった。




