夜明け前
変わらぬ日々、毎日繰り広げられる面倒ごと。
どれもこれも、嫌ではないが単調な出来事。
ただ、それでも当たり前のように、人は死に、獣は屠られ、魔物は人の生活に脅威を与える。
始まりは、大陸らしき島の東側に広がる辺境の街。
だが、少しずつ未知の大陸は、生活を営む人や、動物に変化を与えていく。
ルシアは、その敏感な感覚から歪になりつつある変化を感じ始めていた…。
内海から流れ込む風が屋根の上に設えた風見鶏をコトコトと動かす。
塩をまとう微妙に魚介のすえた匂いも混じっている。
人のざわめきは流石にどこからもしない。
日も上らぬ時間だ、多くの民は未だ寝具に包まって夢の中であろう。
気の早い漁師なら起き出すかもしれないが、広い内海にはまだ灯の一つもない。
切り出された石を組み合わせて造られた大きな屋敷群の、多くの風入れ用の窓の蓋はほとんどが閉まっているし、開いている窓から漏れる消し忘れの火種の灯がわずかにあるが、立ち並ぶ屋敷の数からすれば、小さな揺らめきにしか見えない。
いい風だ…
ルシアはごつい素焼きのカップを両手でかたむけて中の液体で唇を濡らした。
中身は酒ではない。
バーマネージャーのセスが作ってくれたルシア用の薬湯である。
屋根の上に作られたバルコニーのような場所がルシアの定位置だが、いかんせん冷える。
酒に弱いルシアのために、セスが特別に用意してくれた薬湯は、冷めないように魔導コンロの上に置かれた素焼きのポットに満たされている。
実はルシアはこの薬湯が苦手だったが、この時間に定位置で夜を明かすには欠かせないものなのだ。
薬湯の温かさが、わずかだが温もりを与えてくれる。
たとえ、苦手な物でも口に含むだけでもあたたかさを感じる。
ルシアたちの仕事は用心棒である。
この娼館の主人に直接に雇われている。
腰や背中に剣や短槍を挟み、事あればすぐ飛び出し解決に導く。
多くは酔客や、これから酔客にならんとする者が仕出かすことだ。
厄介事は、時を選んでくれず、いつであっても突然やってくる。
娼館の花たちが絡む厄介事は大概が暴力を混じらせるので、ルシアともう一人の用心棒は、バーマネージャーのセスと共にあまり娼館を離れないようにしていた。 ただ、今日は珍しく両方の用心棒とセスが揃っていて、かつ客も少ない。
お陰で定位置でさぼれるルシアであった。
相棒の用心棒も、薬湯を持ってきたセス曰く、酔ったほどではないが、相変わらず酒の量が多いとこぼされた。
平和なのは良いことだ。
そうルシアは思うことにした。
本当なら今日は、ルシアは休養日で出番ではなかったが、妙に気分がざわついて、定位置でお茶ならぬ薬湯で時をにごしていたのだ。
店のホール内のバーの片隅で待機していると、常連の客以外の客が来たときに、娼館の花たちに勘違いされることもある。
それが嫌だということもあるが、ルシアはなるべく中をうろつかないようにしていた。
ルシアは、誰が見ても美しい。
上背は、船乗りの男どもとあまり変わらないが、ととのった人形の様な顔立ち、微妙に青みかかった黒髪は長く、後ろでゆるくまとめており、体つきも皮の胸当てを押し上げる位に盛り上がり、真っ直ぐに伸びた両足は長く細く見える。
得物を差し込む胸当てや腰巻の所為もあろうが、しっかりとくびれが見て取れ、女達からもうらやましがられる。
娼館の花達のように、化粧や、アクセサリーで飾ってはいないし、花たちのような際どい格好のドレスも着てはいない、でも、新規の客が一目でひかれるのは無理のないことだと思う。
その所為で、娼館の花からも勘違いされ、些細な揉め事を引き出すことがないわけではない。
雇い主のアドニスからは、冗談ではあろうが 、
「お前が、客をとっても文句はいわんぞ。」
と言われたことが一度だけあったが、腹に拳で答えてやったことがある。
この屋根の上のバルコニーは、前からあった張り出しの上に作られたもので、ここにルシアが来てすぐに雇い主が設えたものだ。
ルシアならば、このバルコニーから屋根を伝い、下に飛び降りることなど造作もないことだ。
なにより、坂の中途にある屋敷群からの眺めは、たまらなく捨てがたい。
屋敷群から下がると、商店街があり、その下側には市場が広がり、港につづく。
その全てが、内海の岩山で切り出された岩を重ねて造られている。
広い大通りも、岩畳が敷かれ港まで続いている。
ところどころにある、小さな林や大きな樹木は大事にされ、大通りの中央を左右に分けるように流れる細い川は、山から流れ込む大きな川からの支流で街に潤いをもたらしている。
考え尽くされ、工夫がなされ時間をたっぷりとかけて作られた街である。
よってルシアの居所は決まり、よほどの荒天でもなければここにいるのだ。
少しだけ風が吹く向きがずれたのか、屋根の上の風見鶏が甲高い音立て始めた。
その音がうるさいのではない。
ルシアにとっては、そうルシアだからこそわかったことがあったのだ。
長い間、そうまだ幼い子どもと呼ばれいたころから、または若い娘と呼ばれた時期から、戦さ場に於いて、鬼と呼ばれた日々、そしてこの安住の地と呼ばれる場所に住み暮らし始めた日々までの間、ルシアにとっては決して忘れようにも身体に染み付いたもののように慣れ親しんだもの。
人や獣が欲や、生き残るために否が応でも、流した続いてきた物の匂い。
内海からの風が山にぶつかり戻ってきた時に、わずかに風に混じって運ばれてきたのだ。
血臭である。
だれがその匂いを忘れようか。 他の全ての人が忘れようともルシアが忘れることはない。
それが、獣の物ではなく、明らかにに人の物であることに。
坂道の先にあるのは、大きなため池ともう一つだけである。
ルシアはゆるめにまとめてあった長い髪を根本でしっかりとまとめ上げ、胸元に手をやり、微妙に緩んでいた皮を何枚も重ねて作り上げた皮鎧の合わせ紐を力強く縛り上げ、腰の後ろに挿した愛用の得物の存在を確認し、今まで座っていた椅子の脇から、かなりの重さがある短槍を取り上げた。 その他の得物を手放しすることはない。
寝台で惰眠を貪っていたとしても、それらを手の届かない場所に置く事などルシアにはありえない事だった。
バルコニーから屋根の上を走り、重い短槍を易々と持ったまま、建物の二階からあっさりと飛び降りると、ハッと思い出したことを頭に浮かべた。 丁度いいこともあるものだ。そう思わずにはいられない気になった。
娼館の表口から直接に入ると、入り口正面奥に広がるバーのカウンターに目をやった。
「セス…。」
「…どうした、得物を構えて物々しいな。」
「魔導コンロが少し調子が悪い、せっかくの薬湯が少し温い。」
「…そうか、魔晶石が空になったのかもしれぬ、教会の文官に依頼しておこう。…で?」
「…坂の上から血の匂いが来た。人のものだ、少しヤバいかも知れない。」
「血だと!坂の上って代官屋敷しかないだろ!ディンを起こす、近所の屋敷の連中もいっしょに連れていけ!」
「先に行く。」
「ルシア!」
まるで言付けをたくすようなルシアの物言いに、セスは慌てつつもしっかり火の元に目をやった。
そして、非常連絡に使う連絡筒に大声で「起きろ!」と怒鳴ると側で怯えた顔をする小間使いの少年に下の屋敷に走らせるのだった。
ルシアは走りながら、唇に笑みを浮かべた。
短槍を改めてしっかり握り直すと、誰にでなくつぶやいた。
「…だから、言ったんだもっと山側に気を使えと…。」
誰も聞いてない言葉だが、坂道を駆け上がるルシアは、少しだけ楽しそうな顔をしていた。
(忙しい朝になるな)
そうは思いつつ、これから起きるであろう殺伐とした様相に微妙に気がはやるが、久しぶりの荒事に楽しみすら感じていた。
主人公の正確な年齢は、禁則事項により秘密です。
読み手の皆さんの気分で設定してください。 場合によってキャラクターがお命頂戴に伺う可能性は否定しません。




