#12『デート理想論Lv.99/1』
[デートサイドA:十一月某所]
文化祭の振替休日に突貫工事でデートの予定を入れてきたあざみから、一通のメッセージが届いた。『もう目的地にいますよ。焦らず事故らず来てくださいね』
メッセージの通知で目覚めた。午前八時でセットしたアラームはまだ作動していない。時刻は、七時を指していた。メッセージの履歴を遡ってみる。
「確か……、集合は八時半でいいはずだったけど」
履歴には、しっかり八時半集合と記されている。僕は「集合時間間違えてるんじゃないの。その場で寝てろ」と送った。即時既読が付く。寝ぼけ眼を擦って、僕は二度寝を刊行することにした。
――あざみさんから、メッセージが届いています。
バイブレーションと共に携帯の画面が光る。「集合時間より一時間早く来る。そうすることで万全の準備ができるんです! オキナ君は二度寝でもどうぞ☆」
最後の☆マークが憎たらしいので僕は、通知を切って布団に潜り込んだ。
結局、布団の潜り込んだのは潜り込んだんだけど、一時間も人を外で待たせる気にはならなかった。十分間冷たい外気と格闘した末、僕は手早く身支度を整え、集合場所に向かった。
集合場所と言っても、僕の家からの最寄り駅だったんだけど。
「オキナ君っ! おはようございますっ!」
「おはよう、あざみ。二度寝を敢行したかったけど、あまり人を待たせることに耐性が付いてないから結局、予定時刻前倒しで来たよ」
「……もしかして急かしちゃいました?」
「急かしちゃったね」
「あぅ…………、ごめんなさい。つい張り切っちゃって」
僕らは予定よりも二、三本早い電車に乗った。急行電車を使っても、移動時間は一時間以上だ。幸い、始発電車だったので二人並んで席を確保。
――途端、僕よりも先にあざみがうたた寝を始めていた。
「あの、あざみさん? ちゃんと昨日寝れました?」
「む……それが、ですね。一睡もできません、でした」
とす、と肩に寄りかかってくるあざみは既に熟睡三秒前だった。
「いや……あれです……、遠足を前日に控えていると待ち遠しくて夜も眠れないじゃない、ですかぁ……」
「子供か」
「ふぅーん、だ。私は子供ですよぉ……だ」
それっきり、彼女の声は途絶え、代わりに寝息のメトロノームが密着した身体を通して伝わる。着こんできた集めのダッフルコート越しでも伝わる。
彼女の眠っている顔を見ていたら、こっちまでも眠くなってきた。
僕はようやく、二度寝の敢行に成功した。
ちなみに、二人とも熟睡したおかげで目的地の駅で寝過ごしてしまったのは言うまでもない。
結局寝過ごしてしまったおかげで、予定通りの日程で目的地に到着した。地元から一時間程度で東京の中心部へ。日本最大級の電波塔とそれに隣接した複合施設が駅の前にそびえ立っている。
施設内の店が充実していてショッピングを楽しめるだけでなく、水族館やプラネタリウム格好のデートスポットとしてよく知られているらしい。
デートなんて生涯一度たりとも経験しないだろうと思っていたので、そういうスポットに対する知識は当然疎い。何なら興味の欠片すらなかった。
だから、場所選びはほとんどあざみに任せた。
「今日は、一日――オキナ君の支配権を私が奪うことにしますよっ! 覚悟しておいてください!」
「元気になったようで良かった。数駅寝過ごしちゃったけど」
「そ、そそそれは仕方ないですよぉっ! 眠かったから仕方がないですよぉ!!」
「はいはいよーしよーしすごいすごい」
「棒読みで馬鹿にしないでくださいね!?」
なにはともあれ、無事に目的地に着いたので結果オーライ。
あざみは、コートのポケットから何やら手のひらサイズの手帳を取り出し、それを眺め始めた。
「ちゃんと、デートの下調べはしましたよ、ええ。この手帳に全部情報は載っているのです。だから、今日はこの手帳をオキナ君に託しましょう」
「で、僕はどうすればいいの?」
「私をエスコートしてください」
――胸を張ったあざみは、『えっへん名案でしょ!』とでも言いたげなドヤ顔をした。
どうしてそんなに自身に満ち溢れているのかは、よく分からないが、それでも一つだけ彼女が大事なことを忘れている、ということだけは分かった。
「エスコート面倒臭い帰る」
「うえぇっ!? いきなり駅に逆戻りしないでくださいよ! だけど、エスコートしてほしいです!」
「はい」僕はまた一歩、駅へと後ずさりする。
「待って逃げないでっ! ああもう分かりましたよ! エスコートしなくていいですから私のもとに戻ってきてくださいオキナ君」
「賢明な判断だね」一歩また、一歩。僕はあざみの元へと戻っていく。
「いじわるしないでくださいよ、もう」拗ねた彼女は目を伏して、頬を膨らませていた。だけど、表情とは裏腹に僕に向かって手を伸ばしている。開いた手のひらは、虚空を掴んでは、離し、掴んでは、離しを延々と繰り返しているようだった。
「ええと、その手は何やってるの。手の体操? もしくはパントマイム?」
「手を繋いでって言いたいんです! 少しは察してくださいよ、ばか」
――もちろん、何となく意味は察していた。少しだけ意地悪してみただけだ。
「まず、どこへ行こう?」
「そうですね……、水族館はどうでしょう?」
「名案だ」
――特に僕は意見を示さない。だって、そもそも僕は今日のデートに興味がない。
だから、彼女の言いなりになっていよう。幸い、細かい下調べとかもしてあるし。
「では、行きましょう、オキナ君」
僕は、差し出された手を握った。
水族館の中は、海の中のように光が柔くなっていく。
まるで僕ら二人が、深海へ沈んでいくような感覚に陥る。
心地よい、感覚。
僕らの目の前には、円を描いた窓が泡のように不規則に設けられている。
泡の中を覗けば、大海原を模した水槽のセット。
遠くを見渡せば、色とりどりの魚が群れている。
すぐ目の前にニ、三匹くらげが連なり、揺蕩っているのが見えた。
水槽の枠の端には『ミズクラゲ』という種名が。
「クラゲって海の月って書いて『海月』って言いますよね」
「そういえば、確かに……。月というにはいささか明るいかもしれないけど」
「確かに。月っていうよりは星みたいですよね」
「だけど、海の星って書いてヒトデじゃん。キャラ被りしちゃう。――ほら、水槽の中にも張り付いている」
クラゲの奥。岩礁のセットに張り付いた一匹のヒトデが目に留まった。
ヒトデは岩に張り付いたまま、僅かな動きも見せない。
「ヒトデとかクラゲって、何を考えているんですかね」
「何も考えていないんじゃない?」
そもそも、彼らは考えることを知らないんじゃないかな?
僕らは海の生き物の気持ちになることはできない。もしも、そんな気持ちになれたって言い張れたとしても、それはきっと偽りの感情であり、人間のエゴでしかない。
「もう少し、私もクラゲのようになーんにも考えずに海に浮かんでいたいものです」
「なーんにも考えず、ね。人間として生まれてしまった以上、それが、できない」
考えることを知らなかったら、僕は過去のトラウマを生み出さずに済んだのだろう。
群れを成して泳いでく小さな魚たち。銀色の鱗が雨粒のように僕の目に映えた。
彼らは、何を思って群れの中にいるのだろう。
仲間外れにされるのは嫌だ、だから多勢に妥協する。
建前で均衡を取って、全体の治安を守っているのかもしれない。
――なんて、こじつけもまた、エゴイズムの塊なんだろう。
彼らは、何も考えていないのに、まるで僕らの社会を切り取ったような絵を見せてくる。
小さな魚が群れを成すのに対して、大きめの魚は一匹で悠々と水中を舞う。何も考えていないような彼らの目には穏やかさが宿っている気がした。穏やかさ? ――どうせ彼らもまた、なーんにも考えていないのだろう。
人間が背負う心理的なストレスを一切合切背負わないから、羨ましく思う。
「海の中って、楽園なんだろうね」
「人間社会が、地獄なのかもしれませんよ」
一理ある。僕は頷いた。
さらに水族館の中を進んでいくと、先程泡の中で見ていた巨大な水槽が壁一面に映し出される。水槽の目の前にあったソファに二人腰かけて、天上に目を向ける。
「水槽が、空の上の世界みたいです。魚たちは、天使。私達を天に連れ去ってくれる気がします」
天上に浮かんだ小さなクラゲが、仄暗い水槽の中に浮かぶ『月』だった。
夕暮れ空が地平線に沈みきった直前の空のように、漆黒とまではいかない濃い藍色の天蓋。岩に張り付いたヒトデは、意図せず星座を形作っているように見えた。
水中には、星空の楽園が広がっていた。
終わりの見える天蓋の内側にこもって、何も考えずにひたすら泳いでいればいい。
だとしたら、きっと僕はそんな世界を選択するだろう。
「だけど、天使にしては目がちょっと、怖いです……」
「目が怖い……? つまり、どういうこと?」
「瞳に感情が籠ってなさそう、って言いたいんです」
「何も考えてないから、瞳に感情を映すことすら彼らにはできないんだろうね」
正気を失ったような目。飾り物の目。獲物を捕獲し、捕食者を察知するための目。
生きるための器官。レーダーの役割だけを成す『道具』。
だから、感情が宿ることはない。
「何も考えずに生きていられる。――そんな魚たちが羨ましい。ですが、彼らの目はあんまり好きじゃありません。感情の籠っていない目が、私はあんまり好きじゃないんです」
ダッフルコートの裾をきゅっと握ってくるあざみ。その身体は僅かながら震えていた。きっと、彼女はそういう感情の籠っていない目に何らかのトラウマでも抱いているのだろう。
詮索する気はなかったので、僕は裾を掴んできた彼女の身体を自分の身に寄せつつ、水槽から離れることにした。
ちょうど、水槽の反対側ではペンギンの展示がされていて、アーチ状の水槽の中からペンギンの泳いでいる姿を眺められる、とのことだった。
僕は、彼女と身を寄せ合いながら、アーチ水槽に足を踏み入れる。
藍色だった空は、少しずつ明るみを取り戻してきた。水上からいくつかの照明が水槽を照らしていたからだ。細い光の柱が無数に煌めいて僕らの視線に突き刺さってくる。まばゆい光は水面で乱反射する。
ミラーボールで照らされたような煌びやかな空がそこにあった。
俯きがちで僕についてきたあざみの髪を撫でた。彼女の何かを恐れたような潤った視線を垣間見る。怖くない、大丈夫だよ――そんな意味も込めて、僕は彼女に向けて微笑んだ。
「あざみ、顔を上げて」
僕の声にぎこちなく、頷いた彼女は、恐る恐るアーチ状の空を見上げた。光の粒が彼女の瞳に照らされた。あざみの瞳が、一瞬にして星空の色彩を手に入れた。
「海の中を散歩している、よりは空の上を散歩しているみたい、ですね」
「確かにね。そして、ここはただのアーチ水槽じゃないよ」
……? とさっきまで俯いていたせいでここが何の水槽なのが、まったく分かっていないようなあざみは、ゆっくりと首を傾げた。
だけど、彼女の疑問の答えは、案外すぐに水の中に飛び込んだ。
――どぼんっ!
「あっ……、ふああ……、ペンギンですね……!」
どぼんっ、どぼんっ。先頭の一匹を皮切りに総勢十数匹のペンギンが一斉に水の中に飛び込む。飛び込んだと思ったら、今度は水の中を、翼羽ばたかせ滑り始めた。
列になってアーチ水槽の周りを『飛んでいる』。
「魚は、目が嫌いですが、ペンギンは目が好きです……、というか鳥の目が好きです」
「どっちも特に違いがないと思うんだけど」
「大ありですよっ。ペンギンたちの目をちゃーんと観察してくださいねっ!」
ほら。彼女の指差した方向からペンギンの隊列が滑ってくる。きっと、滑空していたらひゅんっ、と風切り音を奏でるのだろう。
頭上を瞬く間に通り過ぎていく彼らの姿を僕は目を凝らして観察した。
だけど、どうしても魚とペンギンの目の違いが僕にはよく分からない。
「その様子だと、なーんにも分かっていないようですね、オキナ君」
「ごもっともです」
やれやれ、と呆れ笑いをされた。ちょっと悔しかったので、彼女の両頬を軽く抓った。「むっ、なにするんふぇふふぁ。ふぁふぇふぇふふぁふぁふぃ」何言ってるかは分からないが、バシバシと頭を叩かれたからおかんむりなんだろう。
身長差が十五センチはあるので彼女は、僕の頭を叩くためにわざわざ背伸びをしなければいけない。
怒っているつもりが、逆に愛くるしさを醸し出しているというわけだ。
僕はそれがおかしくて一人、吹き出していた。
すると、顔が熟れた林檎のように紅くなっていき、腕を振り払った挙句彼女は涙目で「オキナ君のばかぁ……!」と胸を何度もぽこすか叩いてきた。僕が攻められる理由はないよね? うん、理不尽。
「……ちゃーんと見てくださいねっ、ほらっ」
「って、えっ!? 今通り過ぎたのっ!? 全然分からないよ!」
「目が全然違うじゃないですか。ほらっ、魚は瞳に感情が籠ってなさそうって言ったじゃないですか。だけど、鳥って空を自由に飛んでいるっ! って訴えかけてくるんですよっ」
「なるほど。わからない」
僕は再度、目を凝らしてペンギンの群れを眺めてみた。
だけど、やはり魚の目とさほど変わらないように思えた。
「分からないですかぁ……むぅ」
納得いかないって顔されても困る。本当にまったく分からないんだから。
天蓋では、相変わらず自由気ままにペンギンが水の中を滑っている。僕は、魚の目との違いを探すのを諦めた。見上げ続けていたら首が痛くなった。
視線を落としていくと僕を見上げているあざみと不意に目が合った。
時が止まったような錯覚に陥る。
僕と彼女と僕らを包み込む空色の世界は、時間に干渉されていないんじゃないか。
――そんな、根拠もない幻想を僕に見せているようだった。
「これじゃあ、本当の恋人みたいだ」
「本当の、恋人じゃ……、駄目なんですか?」
僕は、そのクエスチョンに対するアンサーを一か月後にようやく紡ぎだすことができたのだが、それはまた別のお話。




