薄明にたゆたう
毎日同じ時間、同じ場所で見かけていたあの子。
「お兄さん。となり座ってもいい?」
彼女にフラれた日、ひょんなことから話しかけられ、同じ空を見上げることになるなんて……
昼と夜、大人と子ども、その狭間で揺れ動くふたりのお話。
ガコンッ。
いつもの自販機で買う缶コーヒーを、今日はホットにする。
温暖化のせいか、ずっと夏の延長みたいな気温が続いていたのに、昨日から嘘のように涼しくなった。
あわてて引っ張り出したジャケットには、半年前にやめたタバコの匂いがほのかに残っている。
もしかしてフラれた原因は、これか? あいつ、タバコ嫌いだったから。
そでの匂いを嗅ぎながら、「はぁ……」と小さくため息をつき、古びたベンチに腰をおろす。
子どもたちが家に帰り、今日一日の役目を終えた小さな公園。
ここで缶コーヒーを飲むのが、おれの毎日の日課だった。
「はぁ……」
もう一度息をはき、コーヒーを開ける。身も心も冷え切った体に、あたたかいコーヒーを流し込む。
なにげなく顔を上げると、砂場を挟んだ向かい側のベンチで、制服を着たカップルがいちゃついていた。
心のなかで舌打ちをし、缶コーヒーに口をつける。そんなおれの前に、ローファーを履いた足が立ち止まった。
「お兄さん。となり座ってもいい?」
ちらっと視線を上げて確認すると、制服姿の女子高生が立っている。
黒いロングヘアにナチュラルメイク、短いチェックのスカートでリュックを背負った、おれのよく知っている女だ。
「……どうぞ」
「ありがと」
女子高生が微妙な距離を置き、おれのとなりに座った。そして持っていたミルクティーのペットボトルを、キュッと音を立てて開ける。
こいつはいつも、目の前のベンチに座ってこれを飲んでいる。今日はあのバカップルに占領されて、仕方なくこっちに来たのだろう。
もちろんしゃべったことはないけれど、毎日いるから見慣れてしまい、勝手に知り合いのような気になっていた。
「お兄さん、いつもここでそれ飲んでるね」
声をかけられ、おれはじろっととなりをにらむ。
「悪いか?」
「ひまなの?」
ミルクティーをこくんっとひと口飲んで、女子高生が首をかしげる。
「そっちだっていつもいるだろ?」
「あ、やっぱり気づいてた?」
えへへっと頭をかいている女子高生。おれは盛大にため息をつく。
「ねぇ、お兄さんの名前、なんていうの? あたしは梨花」
「……それ、言う必要ある?」
「うん。だって、おしゃべりするのにお互いの名前くらい知らないと」
おれはお前と、おしゃべりするつもりはないんだが……
最近の女子高生は、みんなこんなに馴れ馴れしいのか? 知らない人に近づいたらだめよ、とママに言われていないのか?
「江坂」
おれはしぶしぶ答えた。
「名字じゃなくて、名前!」
「柊斗」
「柊斗くんね」
柊斗くんって……おれはお前より、十は年上のはずだぞ?
「はぁ……」
「ちょっと、ため息つかないでよ。てか、さっきからずっとため息ついてるよね。柊斗くん、なんかあったの?」
女子高生……いや、梨花が人の顔をのぞきこんでくる。おれは顔をそむけて言った。
「うるせぇな。お前には関係ないだろ」
「関係あるよ。となりでずっとため息つかれてたら、気になるじゃん」
梨花が口をとがらせる。目の前のベンチでは、あいかわらずカップルがいちゃついている。
「あたしでよければ相談にのるよ? 一時間でも二時間でも、一晩でも」
おれはもう一度、梨花をにらんだ。
「できるわけないこと言うな。いつもその紅茶飲み終わると、さっさと帰るくせに」
梨花が一瞬、眉をひそめ、すぐにぷくっと頬をふくらませる。
「だってうちの親うるさいんだもん。門限六時なんだよ。あたしもう高校生なのに、ありえないでしょ?」
公園に夕陽が差し込んできた。ブランコや滑り台が金色に光りはじめる。
「大人はいいよね、自由で。門限なんてないもんね」
梨花が前を向いて息をはく。おれはその横顔から、目をそらしてつぶやいた。
「よくもねぇよ」
「えー、でも柊斗くんはいつもひまそうじゃん。ここでのんびりコーヒー飲んでさ」
「ひまそうとか言うな。おれはこのあと仕事なんだよ」
「えっ、そうなの?」
梨花が驚いたような声を出す。これだからのんきなガキは……
「おれはな、これから夜勤なんだよ。お前が寝ている間に、仕事してんの。その前にここでコーヒー飲んで、気持ち切り替えてんだよ」
「へぇ……じゃあ、あたしが学校に行ってる昼間、柊斗くんは寝てるんだ」
おれは少し考えて答える。
「まぁ……今日はちょっと人と会ってたけど」
「人って……彼女とデートとか?」
梨花がにやっと笑い、また顔をのぞきこんでくる。こいつ、いちいちムカつくやつだな。
「ああ、そうだよ! 彼女に会って、フラれたんだよ!」
「えー、かわいそ」
そう言って今度は目を丸くする。くるくる表情がよく変わる。てか、本気でかわいそうって思ってないだろ?
胸の奥に押し込めた気持ちが、うずうずと湧き上がってきた。
「『柊斗くんとは時間が合わないから無理』なんだってよ。じゃあ時間が合えばよかったのかよ。俺だって好きで夜中に働いてるわけじゃねーんだよ!」
飲み干した缶を、力任せに投げつけた。ガコンッとゴミ箱の角にぶつかった空き缶が、コロコロと地面を転がっていく。
その音を聞いたカップルが、立ち上がってこそこそと公園から出ていくのが見えた。
「くそっ、なんか文句あるか!」
もやもやが治まらなくて、地面を蹴る。
いや、ちがうんだ。時間が合っても駄目だったんだ。
いくら歳を重ねても、大人になりきれないおれだから……彼女にあきれられたんだ。
背中を丸め、ちらっととなりを見ると、梨花がおれのことをじっと見つめていた。
「な、なんだよ」
「ううん。大人もいろいろ大変なんだなぁって思って」
顔をしかめたおれに、梨花がにっと笑いかけて言う。
「まぁ、子どももいろいろ大変だけどさ」
梨花は前を向いてミルクティーを飲んだ。そしてペットボトルを膝にのせ、空を見上げる。
梨花の横顔に夕陽が当たって、黄金色に輝いていた。
「きれいだねぇ……ここから見える空」
おれは前を向き、梨花と同じように、住宅街の上の空を見る。
この時間、太陽からの光が淡く差し、空の色は刻々と変化していく。
あたたかい金色からオレンジ、赤、紫、そして深い青へ。
その色合いも、その日の天気や雲の状態で微妙に変わる。
真っ赤に燃える空の日もあれば、やさしくて淡いオレンジ色の空の日もある。
おれはここから見える空の色が好きで、毎日この時間、ここに来ているんだ。
「マジックアワーっていうんだよ」
なんとなくおれはつぶやいていた。
「マジックアワー?」
梨花がこっちを向き、目をぱちぱちさせている。
「魔法みたいに、美しい空が見える時間のこと」
「へぇ……」
「写真家の間では、どんな素人でも魔法のような芸術作品が撮れるから、そう呼んだりもする」
「柊斗くんって……写真家なの?」
その言葉が、ちくんと胸に刺さった。
「いや」
無理やり押し出した声が、変にかすれる。
「なりたかったけどなれなかった、ただのフリーター」
空の色が変わっていく。オレンジから深い赤へ……昼から夜へ近づいていく。
「いまからでも、遅くないよ」
梨花が言った。
「だって柊斗くん、まだぜんぜん若いじゃん。これからだってなれるよ」
他人事だと思って、勝手なこといいやがって。
「ねぇ、スマホでも撮れるかな。素人の芸術作品」
梨花がポケットからスマホを取り出し、空に向けた。
「あたし、この時間の空が、いちばん好きなんだ」
おれはその言葉を頭のなかで繰り返しながら、となりの梨花を見る。
キラキラと目を輝かせ、スマホ越しに空を見上げている梨花の横顔。
ああ、おれにもこんなころがあったっけ。
大人でもなく、子どもでもないと思っていたころ。昼でも夜でもない、ちょうどいまの時間のように、中途半端で曖昧な。
不満ばっかりで、はやく大人になりたいって、いつも思っていた。
あんなになりたかった大人に、やっとなれたっていうのに……おれはなにをやっているんだろう。
「だったらこっちの方角を撮ったほうがいい」
おれは梨花の手にそっと触れて、スマホの向きを変えた。
「ほら、あそこに鉄塔が見えるだろ。あれをシルエットにして……」
「あ、ほんとだ」
カシャッとスマホから、歯切れの良い音が聞こえる。
「なんかカッコよく撮れた」
「だろ?」
梨花が嬉しそうに笑う。なんだかこっちまで嬉しくなる。
「でもいちばんヤバかったのは、葉山の夕陽だな」
「葉山って、三浦半島の?」
スマホを手に持った梨花が腰をずらし、距離を縮めてくる。
おれはカメラを首に下げて出かけた、夏の終わりの海岸を思い浮かべる。
あのころのおれはまだ、梨花のように制服を着ていた。
「ああ。海の向こうに富士山のシルエットが浮かんでさ。空がすっげぇ広いの。青からオレンジのグラデーションがめちゃくちゃきれいで……あのとき撮った一枚が忘れられないんだよなぁ、おれ」
「だったら、また撮りにいけばいいじゃん。行きたいんでしょ? 柊斗くん」
黙って梨花の顔を見る。梨花はにこにこしながら、おれの顔を見ている。
「……そうだな。また行けるといいな」
「行けるよ! ねぇ、もっとカッコいい写真の撮り方教えて。SNSにアップしたいの」
梨花がスマホを掲げてそう言った。
「そうだなぁ……カメラがあれば、もっといい写真撮れるんだけど」
「あたし持ってないんだよね、カメラ」
「貸してやろうか?」
ついこぼしてしまった言葉に、梨花の顔がぱあっと明るく輝いた。
「え、いいの? 柊斗くん、やさしい!」
「は? やさしくねぇよ、おれなんか」
「やさしいよ。柊斗くんは」
梨花がさっき撮ったスマホの写真を見下ろし、つぶやく。
「こんなきれいな写真が撮れるんだもん。きっとやさしい人だよ」
そんなことない。どんなヤツでも、きれいに撮れるって言っただろ?
危なっかしいな、この子。変な男に騙されなきゃいいけど。
「まだ帰らなくていいのか? 門限あるんだろ?」
「あ、うそ、もうこんな時間?」
梨花がスマホで時間を確認して立ち上がった。
「ありがと、柊斗くん! なんか元気出た」
「おれは、なんにもしてねぇよ」
梨花がおれの前で、ちょっと照れくさそうな顔をする。
「じつは今朝、親と派手に喧嘩しちゃってさ。今日は家に帰りたくなかったんだよね。このまま知らない人について行っちゃおうかなぁ、なんて思ってた」
陽が落ちて、赤かった空が紫色に変わっていく。
「柊斗くんが悪い人でもいいやって思って……」
梨花が肩をすくめて、ふふっと笑う。
「でもちがった。悪い人じゃなかった」
「お前なぁ……」
おれはため息まじりにつぶやく。
「そういう考えはやめなさい。もっと自分を大事にしろ」
「なにそれ。急に大人ぶって、おかしー」
けらけら笑う梨花のバックが、青とピンクのグラデーションに染まった。
「あたし明日も来るから。カメラ持ってきてよね」
「なんだそれ、えらそーに」
「ま、元気出しなよ。この世に女は、星の数ほどいるんだからさ」
それ、なぐさめてるつもりか?
「もしよかったら、あたしが葉山、つきあってあげてもいいしね」
おれはちょっと顔をしかめて、手で梨花を追い払う。
「いいからさっさと帰れ。ママが心配してるぞ」
「うん。柊斗くんは、お仕事がんばってね」
梨花がおれに手を振る。
「じゃ、ばいばい、柊斗くん」
「ああ、またな、梨花」
背中を向けた梨花のシルエットが、薄い闇のなかに揺れて消えていく。
おれは立ち上がり、地面に転がっている空き缶を拾って、ゴミ箱に放り投げた。
カコンッ。
今度は上手くおさまった。
「そろそろ、おれも行くか」
タバコくさいジャケットのポケットに、手を突っ込んで歩き出す。
空は深い青に染まり、瞬く星がひとつ。
夜はすぐそこまでやってきていた。




