大統領が何日で死ぬか、賭けようぜ
就任の翌朝、執務室の扉を開けると、秘書官が私を待っていた。私の一日は、私が始める前から、いつも誰かに用意されている。それが暫定大統領の朝だった。
ラファエル・デルリオ。革命党が推挙した、私の私設秘書官だ。私より十ほど若い。仕立てのいい紺のスーツを、痩せた肩に一分の隙もなく着こなしている。栗色の髪は几帳面に分けられ、爪の先まで手入れが行き届いていた。誰が一目見ても「真面目で有能な好青年」と書いてある顔だ。ただ、目だけが少し疲れていた。人を欺く仕事を、誠実な性分のまま続けている人間の、優しすぎて少し痛々しい目だった。
この国で「革命党」と言えば、四十年前のあの革命の、正統な相続人を名乗る連中を指す。王政を倒し、油田を国のものにした、あの革命だ。だが革命が、前大統領ひとりの終身支配に凝り固まっていく過程で、熱狂的な革命信奉者たちは中央から弾き出された。彼らは内陸へ退き。密林と草原の州に拠点を移し、いまでは銃とドローンと民兵を抱える、地方軍閥になっている。首都に残るのは党本部の看板だけだ。中央と地方が、互いに「こちらこそ本物の革命だ」と睨み合う。それが、この国の背骨に走る、いちばん古い亀裂である。
その軍閥を率いるのが、書記長アルバロ・デルリオ。そしてラファエルは、そのデルリオの息子だった。
「党は、ずいぶん高い手土産を寄越したのね」と私は言った。「書記長の跡取りを、敵かもしれない女の監視に寄越すなんて」
「監視とは、心外です」。ラファエルは穏やかに微笑んだ。「協力の証、とおっしゃってください」
「同じことよ。あなたは、私の一挙一動を党に書き送る。でも、あなたを傍に置くかぎり、党は私を簡単には殺せない。息子ごと殺すことになるかもしれないから。私たちはお互い握手したまま、もう片方の手で相手の首に匕首を向けているの。そうでしょう?」
彼は否定しなかった。代わりに、私の万年筆のキャップを外し、そっと手元に置いた。さあ署名を、と言わんばかりに。誠実な人間は、誠実に職務を果たすということだ。
サインを続ける私を見ながら、その厄介な秘書官は、革張りの手帳を開きながら言った。
「閣下。本日のご予定に入ります前に、まず現状を三つ、ご報告させてください」
「秘書官の言う『三つ』は、たいてい本当は十くらいあるのよね。まあいいわ、続けなさい」
「では一つ目。電力です。本日も首都は夜間が計画停電。大統領府も、残念ながら例外ではございません。発電機の燃料にしましても、優先順位の都合で節約する必要がございます。重要なご決裁は、どうか灯りのあるうちに」
世界で指折りの油田の上に建つ宮殿が、自前の灯りを半日ももたせられない。私は初めて聞く話のような顔で頷いた。本当は官房長官だった頃から、毎朝この同じ報告を、別の主人に読み上げていた。違うのは、今朝はその「別の主人」に私がなったということだけだ。
「二つ目。各所から、ご就任のお祝いと要望が届いております。国防軍からは燃料の優先配分の確認を、と。人民革命党からは革命の記憶への忠誠の再表明を。ペトロマルの技官からは、滞った港の決算へのご署名を。そしてアストリア合衆国特使からは、至急の面会を求められております」
「皆さん色々と注文が多そうね。全員の要望を叶えてあげたらどうなるのかしら?」
「さすが閣下は慈愛に溢れていらっしゃる」。彼は手帳を閉じ、ほんの少し声を落とした。「ですが閣下、差し出す手には限りがあります。相手はくれぐれも慎重に選ばれた方がよいかと」
育ちの良い人間は、人を脅すのもエレガントだ。革命党以外の手を握るなということだ。
「そして三つ目ですが…」
「三つ目は私が伝えよう」
声をかけられるまで、私はそこに人がいると気づかなかった。軍服の女が、壁の影と見分けがつかないほど静かに立っていた。ハルナ・オオシロ将軍。私よりかなり若いはずだ。だが、若さと呼べるものは、その顔のどこにも残っていない。黒い髪を肩にきっちり揃え、襟もとには糸一本のほつれもない。背は高く、肩幅も広い。鍛えた腕が軍服の布を内側から押し上げている。屈強、としか言いようのない体だった。立っているだけで、広い執務室がひと回り狭く感じられた。それでいて顔は、作り物のように整っていた。鼻筋も唇の形も、彫って磨いたように正しい。ただ、その美しさには温度がなかった。目じりにしわ一つない。一度も笑ったことのないような人間の顔だ。整っているはずなのに、見ていると背筋が冷えた。
喉もとに一つだけ、しわ一つ無い軍服にはおよそ不似合いなものが一瞬光って見えた。安物の、古いネックレスだ。鎖の銀は、何度も指でなぞられたせいで、一か所だけ擦り切れて鈍く光っている。
「ハルナ・オオシロ。閣下の護衛を拝命した」。物資の員数を読み上げるのと同じ、平らな声だった。
「護衛、ね。もう一人の監視と言った方が正確じゃないかしら」
彼女は否定しなかった。否定しないことのほうが、下手な肯定より誠実だと、本気で信じている目だった。これで私は革命党と中央軍の支配下に置かれたということだ。
二人が下がると、執務室に私一人が残された。
前任者の椅子は、まだ私の体に合わなかった。座面が広すぎて、背もたれが遠い。前任者の礼装も同じだ。肩が落ち、袖が余る。仕立て直す時間はない。私は大きすぎる服を着たまま、大きすぎる椅子に、浅く腰かけていた。
椅子は、まだ温かかいように感じた。
それは私の体温ではない。前の人間が出ていってから、まだ間がないというだけのことだ。この椅子は、座る者を待たない。次の体温が来るまで、前の体温をしばらく覚えている。そして次が来れば、それも忘れる。私が温めたぶんの熱も、いつか別の誰かが、知らないふりで受け取るのだろう。
私には、決める力があった。署名する権利も、命じる声も持っている。ないのは、決めたことを誰かに実行させる力だけだった。署名は求められる。儀式として。けれど署名のあとで中身が決まることもある。順番は、もうどうでもよくなっていた。それが、暫定大統領という肩書きの、正味の中身だ。決める女ではない。椅子の方が座る人間よりも重要なのだ。
午後、ラファエルの言っていた「至急の面会」が、向こうから歩いてやってきた。
世界中が見る中で前大統領を誘拐したアストリア合衆国。その合衆国の特使、ヴァネッサ・ヴォスだ。年は私と同じだろうか。けれど、年上か年下かを当てさせない種類の女だった。淡い金の髪を緩くまとめ、皺ひとつないクリーム色のスーツを着ている。仕草の一つ一つに、油田も停電も知らない国で磨かれた気品があった。彼女は部屋に入るなり、私の許可も待たず、勝手知ったる手つきで紅茶を淹れ始めた。前任者の部屋で、何度もそうしてきたのだろうか。
「お砂糖は二つ、でよろしかったかしら」と彼女は微笑んだ。私の好みを、私より先に知っている顔だった。
「私たち、初対面のはずだけど」
「ええ。でもあなたの記録は、ずっと前から残っておりますからね」。彼女はカップを私の前に置いた。「ご就任、おめでとうございます、大統領閣下。昨夜のご演説も拝見しました。『合衆国は牙を剥いた』とは、たいへん勇ましくご立派でした。ええ、とても」
昨夜、私が演壇で罵った相手が、いま私の前で、私のために紅茶を淹れている。怒りは一片もない顔だった。罵られたことを、天気の話くらいにしか思っていない。
「あれは原稿よ。私が書いたものじゃない」
「存じております。どなたが書いたかも、だいたい。……大統領、私はひとつだけお願いに参りました。安定です。この国に、安定を。難しい言葉は要りません。港を、いつもどおり動かしてくださるだけでいい。それだけで、制裁のいくつかは、明日にでも消えます」
「その代わりに?」
「代わり、などと。これは協力です」。彼女はまた微笑んだ。「ただ、ひとつだけ。こうしてお話ししたことは、全て記録に残ります。その記録を読んで、閣下の望まぬことを考える輩が出てくるかもしれません。私はそれが心配でなりません」
彼女はカップの縁を、指でそっとなぞった。
「正直に申せば、あなたで本当によかったと思いましたわ。どの派閥にも借りのない方ですもの。だから皆が頷いたのです。そして、誰のものでもない方は、誰のものにでもなれる。私どもを含めて、ね」
「……それで、私は何日もつ予定なのかしら」
「あらあら、閣下もご存じじゃないですか」。彼女は心から楽しそうに笑った。「憲法では、三十日以内に正統な手続きを。その三十日の間に、プエルト・アスル港を動かすことができれば、本国はあなたの無事を保証するでしょう。それが私どもの、真の願いです」
プエルト・アスル。「青い港」という名の、この国でただ一つの輸出港だ。内陸のカンポ・アスル油田で汲み上げた油は、地中の長い管を通り、最後はこの港の桟橋に集まる。そこでタンカーに積まれ、海の向こうへ運ばれていく。油はこの国のほとんど唯一の現金だった。その現金の蛇口が、海沿いの港ひとつに付いている。港が動けば油が売れる。油が売れれば燃料が買え、薬が買え、停電の夜が少しだけ短くなる。港が止まれば、この国は油の上に座ったまま干上がる。
そしてその港は、ほぼ止まっていた。壊れたからではない。締められたからだ。合衆国が主導する資本ブロックがミラドール共和国と断交し、制裁を敷いてから、油を買う相手も、それを運ぶ船も、船にかける保険も、ひとつ残らず消えた。油はタンクに溜まる一方で、桟橋の先へは出ていかない。
ヴォスは、港さえ動かせば無事は保証すると言う。自分で蛇口を締めたのに、なぜ港を動かせと言うのか。簡単なことだ。合衆国にだけ安く油を売れ、ということだ。
三十日を無事に、と彼女は願いのように言った。暫定大統領の任期は三十日。けれど私の消費期限は、その手前のどこかにある。明日かもしれない。来週かもしれない。いつ切れるのかを、知らないのは私だけだった。自分の意志で椅子を降りれるのか、それとも誰かに無理やり引きずり出されるのか。
その夜、私は灯りの落ちた廊下を一人で歩いた。眠れなかった。いつ死ぬかもしれないのに眠れるわけがない。
角の手前で、足を止めた。曲がった先で、二人の書記官が小声で話していた。私の足音には気づいていない。
「で、おまえ何日だと思う?」
「十日。堅いだろ。あの様子じゃ、せいぜいもって二週間だな」
「俺は『初日の演説で大失敗』に張ってたんだがな。外れたな」
「なあ」と一人が、笑いを含んだ声で言った。「大統領が何日で死ぬか、賭けようぜ」
二人は声を殺して笑った。
私は、角を曲がらなかった。曲がれば二人は凍りつき、深く頭を下げ、足早に去る。そして明日の賭け率が、ほんの少しだけ私に不利に傾く。聞かなかったことにするのが、いちばん安全だ。
三十日に賭ける者は、一人もいないだろう。私ですら任期の最後の日を生きて迎えるとは思っていない。
私は来た道を、灯りのないほうへ引き返した。背中に、二人の笑い声がまだ薄く貼りついていた。




