第15話
執務室の窓から差す光の角度が、三日前とは違っていた。朝が早い。影が長く、辺境伯の机の半分がまだ暗い。琥珀の文鎮だけが光を拾って、机の上で小さく光っている。
辺境伯が椅子の奥に座っていた。毛皮を掛けた背もたれに体を預けて、トルコ石の目がこちらを見ている。口元は笑っているが、その奥が据わっていた。
「エルンスト、お前は外で待て。これから先は娘と客の話だ」
エルンスト大尉が一礼して扉の外に出た。ベロニカが辺境伯の前に進み、ハンスは半歩下がった位置で止まった。
「で、どうだ」
辺境伯がベロニカを見た。声に遊びがない。
「破談ですわ」
「コイツのどこが気に入らなかった」
辺境伯がハンスを顎で指した。
「私、自分に興味がない方と結婚する気はございません」
ベロニカの大きな淡い青の目が、真っ直ぐ辺境伯を見ていた。ハンスのことには触れない。自分の矜持で断っている。
「それに——私にも思い人がおりますので」
「はぁ!?」
窓が震えた気がした。辺境伯が椅子から浮きかけている。
「あら、ご存じありませんでした?」
ベロニカが微笑んでいた。父と同じ笑い方で、柔らかい声の中に刃が立っている。
「せっかく軍人と縁談を組んでくださるのでしたら、その方にしてくれればよかったのに」
辺境伯の口が開いたまま閉じなかった。「その方」が誰か、まだわかっていない。だがベロニカはもう振り返っていた。扉に向かっている。小さな背中が朝の光を横切った。
ベロニカが扉を開けた。外にエルンスト大尉が立っている。
腰のあたりに手を回した。背中に佩いていた帯剣を外す。ミニ・ククリ。装飾的な鞘に収まった曲刀で、正面からは見えない位置に隠していたものだった。
エルンスト大尉の前に、両手で差し出した。
女が騎士に帯剣を預ける。身を預けるのと同じ意味——ベロニカ自身が昨日そう言った。言った本人が、父の目の前でそれを実行している。
大尉の口が微かに開いて、閉じた。両手が動いて、曲刀を受け取った。
「エル、私じゃお嫌かしら?」
「……謹んでお受けいたします」
低くて丁寧な声だった。それ以上の感情がどこにあるのかは、ハンスの位置からはわからなかった。
ベロニカが歩き出した。振り返らなかった。エルンスト大尉がミニ・ククリを両手で持ったまま、その背中を追った。
辺境伯が椅子に沈んだまま、閉まった扉を見ていた。しばらくして目を閉じ、開けた。
「……娘がすまなかったな。足労をかけた。数日休んでいくといい」
低くて静かな声で、さっきとは別人のようだった。目がハンスから外れて書類に向かいかけた。
「僭越ながら辺境伯閣下に、お願いがあります」
辺境伯の手が止まった。トルコ石の目が、書類の上からこちらに戻った。
「言ってみろ」
「自分を養子にしてください」
言いながら腰の帯革を外していた。大型のサーベルを鞘ごと両手で持ち、辺境伯の机の前に差し出した。ベロニカがエルンストに帯剣を預けたのと同じ形で、だが意味が違う。ベロニカは身を預けた。ハンスは命を預けている。
「はぁ!? 縁談は流れたばかりだぞ」
だが辺境伯の手は剣を払わなかった。差し出されたサーベルの重さを受け取り、確かめるように握って、机の上に置いた。
「お前、娘に興味はないくせに」
「自分は——ずっと探していた人が、お嬢様だったのだと。ベロニカ様のおかげで、わかりました」
「だからそれがどうして養子の話になる」
「自分の身分では、その方の隣に立てません」
「だから俺を利用しようというのか」
声が底まで落ちた。笑いが消え、据わった目がこちらを見ている。
「ふざけるのも大概にしろ。——だいたいどこのどいつだ、ウチの娘を蹴ってまで添い遂げたいというやつは」
「ヴィオレット・マリー・アルヴァレード・フォルテシエラ令嬢であります」
辺境伯の据わっていた目が一度開いて、それから笑いが腹の底から上がってきた。低い笑い声が執務室に響いた。
「フォルテシエラの……」
辺境伯が椅子の背にもたれて、天井を見た。それから笑い出した。怒りでも楽しさでもない、呆れてものが言えなくなった人間の笑い方だった。しばらく笑って、息をついた。
ハンスの剣は机の上にある。琥珀の文鎮の横に大型のサーベルが横たわっている。辺境伯は返さなかった。
扉が開いた。
「叔父上、聞いていただきます」
ネリーナさんが入ってきた。私服で髪を下ろしている。扉を叩く音はなかった。
「今大事な話だ、あとにしろ」
「いいえ。今でなければ意味がありません」
辺境伯の目を正面から見て、退かなかった。侍女長の顔ではなく、メルンヴァルトの姪の顔が立っている。
辺境伯が一拍黙ってから顎を上げた。
ネリーナさんが机に歩み寄り、辺境伯の耳元に口を近づけた。声は聞こえなかった。
辺境伯の眉が上がった。
目が据わった。
ニヤニヤが戻った。
ネリーナさんが身を引いた。表情は変わっていない。
「わかった、下がれ。少し考える」
辺境伯の声に怒りはなかった。計算している声で、トルコ石の目が机の上の剣を見ている。返さなかった。
「お前も下がれ」
立ち上がると腰が軽かった。五年間そこにあった重さがない。
扉に向かった。
「ペドロを呼べ」
背中越しに聞こえた辺境伯の声が、扉が閉まる直前に廊下に漏れた。
ハンスには意味がわからなかった。振り返らず、丸腰のまま廊下を歩いた。




