第44話 それは、縛り付けるように。
植物の丈夫なツルに通した13尾のイワシ。これがどんなに重いか、考えた事があるだろうか。俺はある。もちろん、ウエイトの話ではない。そしてその、凄く“重い”13尾のイワシを咥えた猫を追って、貧民街の奥も奥、大奥へとやって来た。
狭い道の更に奥。狭さくしきったその道は、この貧民街の者たちの人生そのものを表現したかのよう。猫は、人のそれなんて関係無いかのように、その狭い狭い道を軽やかに駆け走る。
彼を追って角を曲がり、俺はその場に立ち尽くす。疲弊したわけではない、俺には“風の精霊の加護”がある。走る事に体力を割いてはいなかった。理由は分からない。ただ、視線の先にはこのしがない街に置いてもことさら目立つ、手負いの兵士のような家屋が目に入った
猫は、そこに入っていったのだ。猫の住処なのだろうか。13尾ものイワシを咥えて必死に彼……いや、性別は分からない。ここは彼を“彼”という事にしておこう。その彼はそれを咥えて必死に俺から逃げ回った。俺にとっては、ウエイトとしては重くない。でも、彼にとってはウエイトとしては相当に重いものであるはずだ。
生きるため。俺もそれは同じだが、彼にはもっと重い何かがあるのかもしれない。例えば、身重の妻とまだ小さい子猫たちが待っている、とか。
ならば、店でオマケに貰った1尾、それに俺の分の2尾、合計3尾くらいのイワシならくれてやってもいい。俺は数日オカズを抜いただけで死ぬような、やわな魔王じゃない。
「失礼しまぁす」
あぁ、俺の部屋より散かってる。それに、なんだが異常にホコリっぽい。だけど、人が住んでる痕跡は確認出来た。一応は、足の踏み場が確保されており、雑然としたテーブルの上には食べ終えた皿がそのまま置かれていた。乾燥もしておらず、カビも確認は出来ない。
無用なトラブルを回避するため、この場は引き返した方がいい。恐らくは奥へと入った猫。その口に咥えられた魚は諦めるしかあるまい。口惜しい。
「お邪魔しま――」
「誰!?」
「キィヤアアアアア!?」
この“キィヤアア”は、女子の叫び声又は猫の威嚇などではない、俺の驚きが喉を通り口から出た時の音である。つまり、俺の叫び声だ。
というか、だ、誰なの!? 誰なの!?
「んんんん!! 俺は、俺はぁあああ」
「か、和人さま!?」
「お、オッス、オラ和人、よろしくな! オラより弱いやつと戦いてぇ!」
自分で自分に突っ込むのもおかしいが、なんなんだオラって。
何を言ってるのか分からない己を俯瞰し、俺は落ち着きを取り戻した。クリアになった頭に反響する“和人さま”。俺はその声の主に心当たりがあった。そして振り向き視線を交わすと、それは確信へと変わる。
そこにいたのは、ハミルカル邸で働く犬耳獣人のメイドさんであった。その腕には、あの猫が抱かれている。メイド服では分からなかった褐色でツヤのある胸があらわになり、その大きさをこれでもかと主張していた。
うーん、素晴らしいですねぇ。俺は魔王じゃなくて猫になりたい、そう心に強く願う。我輩は猫である、名前はマダナイ。
マダナイって変な名前だなぁと思いつつ願ったそれは、天に聞き届けられる事はなく儚くも虚空に霧散した。当たり前である。
邪な願いだから、というワケじゃない。そもそも魔法というのは科学と同様に、ただの手段でしかない。だから、かまどに火をくべる事もその炎で人を殺すことも、自由なのだ。だから、魔法や科学を止める存在なんて存在しない。
というか、話には聞いたことがあるのだがなぁ、変身魔法。詳しいことは全く分からないのだが、瞬間移動系の魔法と同様、かなり高度な物らしい。幻影系の魔法で誤認させる事は割りと簡単だけど、飽くまで幻覚を見せるってだけであり、俺が猫になってあの2つの柔らかい神聖なる丘に登ることは叶わないのである。
まったくもて口惜しい、イワシの時より口惜しい! 略してイワシイ!
「あぁ、イワシイ、まったくもってイワシイ。君、ハミちゃんちのメイドさん……だよね?」
「いわしい……? あっ、はい、そうです、和人さま。で、で、ですが、何故こちらに?」
「いや、猫をさぁ、追いかけてきたの、今抱いてるそいつ」
「もしやあのお魚……」
「そっ。そいつを撫でようとしたら奪われちゃってさぁ。今日の晩御飯にしようと思ったんだけど」
あわわ、とでも聞こえてきそうな慌てっぷりを見せる、メイドさん。確かにイワシの事は惜しいんだけども、まぁ“彼”も身重の妻と子猫を養わないといけないわけですし、10尾くらい返して頂ければ俺としては手打ちという事で。
「そいつ、身重の猫妻や子供を養うために、盗んだわけじゃなく……取ったんだ。俺はいいよ、10尾だけ返してくれれば、それでいいさ」
「お気持ち痛み入ります、和人さま。ですが、もう……。それに、この子ひとりです。たまに市場で盗んできた魚をひとりで食べてるんです……」
「返して! イワシじゃなくて、俺のカッコつけたココロを返してちょうだい!」
カッコつけた自分にアストル・コリジョンでお仕置きしたい気分だった。こんな狭いところでコリったら壁が吹き飛びそうだけども……。
「というかさ、メイドさんはなんでここに?」
「ここ、私の生まれた家なんです。それで、弟とふたりで暮らしてて……。その、弟が病気で……」
そこまで言って、彼女は涙で声を詰まらせた。
彼女によると、その弟さんは難しい病を随分と長く患っており、通常メイドは住み込みなのだが……暇を貰ってはちょくちょくこうして家に帰って来て世話をしているらしい。彼女が抜けられない日ってのは当然あるのだが、懇意にしている近所のおばさんが世話をしに来てくれるとのこと。
下町の近所付き合いのような、温かい関係がココにも存在した。それは、ちょっと安心する材料にはなったのだけど、どうせならハミルカル邸に部屋を一つ用意してもらえばいいのに、と俺は思った。
ハミちゃんなら喜んで部屋を一つ用意してくれるだろうに。“そう言ってくれないの?”と、疑問を彼女にぶつけた。
「旦那様は、部屋を用意するから弟を連れてきなさい、治療費は私が出そう、と何度も何度もおっしゃって下さいました。ですが、そこまでお世話になる事は出来ません。私はメイド、お客人ではないのですから。働かせていただいてるだけでも、感謝しなければならないのに」
彼女はしゃくり上げつつも、リンとした表情でそう言った。
“部屋を用意している。弟さんを連れてきなさい”とは、あのおっちゃん、やっぱイイやつなんだな。
「俺って魔王だよね?」
「はい」
「ってことは、ハミルカル氏のよりも地位は上ってことになるんだよね?」
「仰るとおりです」
「ならさ、俺が君に命令する事も出来るよね」
「勿論、ご命令とあらば、なんでも」
「ん? 今なんでもって言ったよね? じゃぁ、弟さんをハミルカル氏に預けなさい。コレは命令」
「それは……できません」
彼女の意思はダイヤモンドの様に固いらしい。俺の数度にわたる命令であっても、頑として承知する事は無かった。
「そんな……。あぁ、もう。また来るからね、どうした方が弟さんが幸せになれるか考えといてよ。コレも命令だからな」
俯く彼女を置いて、俺は酒場への帰路についた。
「あっ、イワシ取り返すの忘れた……」
痛い出費だが、また買おう。きっと今から戻っても、イワシは猫の腹の中。取り出してまで取り返すこともあるまい。それに、あのデッドヒートしたチェイスだ、どうせボロボロだっただろう。
そして、露天商のおっちゃんの“おう、にいちゃんか。えっ、もう12尾? まいど!!”という笑顔が忘れられない。あ、でも、今度はオマケを2尾も貰った。ありがたいんだけど、13尾を失った俺としては、とても複雑な心境だった。
当然だが、一緒に住むことになったノウァちゃんも含めた5人組に“無駄遣いすんな”と言った手前、イワシを取られた事はナイショにしておいた。なので、オマケをもらえた事を素直に喜べない俺の笑顔は彼女らよりも少し硬かったと思う。
「おおお、パン粉使ってフライにするの?」
「えっやった! 早く食べたいなぁ」
「おう、そうだよ……。コロッケ作った時に余ったやつ貰ったからね」
成神と雨飾は目をキラキラさせて、そのイワシのフライに強大なる期待を抱いた。
「和人さま、タワシフライってなんですの?」
「イワシだよ、タワシじゃないよ、イワシだよ。イワシフライってのはね、この前食べたコロッケってあるでしょ?」
「はい、とても美味しかったですわ」
「それ、外側がサクサクしてて美味しかったでしょ?」
「ですわ、とても」
「それがまわりにくっ付いた料理なの。きっとノウァちゃんも気に入るよ」
彼女は冷静を保ちながらも目をキラキラさせていた。
自画自賛になってしまうが、コロッケ、すごく美味しかったもんな。イワシフライも気にはなるだろうよ。
この酒場にも魚の揚げ物が存在する。フリッターみたいな料理でかなり美味しいし、実際人気のあるメニューのひとつでもある。だから、イワシフライもきっとここでは受け入れてもらえるだろうな。
プロが作ったイワシフライは俺も食べてみたいし、また村長にでも作り方教えておこう。そうすりゃぁ、勝手に広まってそのうちメニューにも載るだろうよ。
あのお喋りマシーン・村長が自動的に拡散。それは、トイッターの“#拡散希望”よりも断然効果的なのだ。
そういえば、この世界に来てからその類のものすっかり忘れてたよ。SNSは無ければ無いで、何とかなるものなのだ。リトイートやインジャネに縛られなくて済み、むしろ幸せなのかもしれない。俺としては縄で縛られてみたいが。
それはそうと、ハミちゃんも心配してるあのメイドさんの弟を救って、あのメイドさんを呪縛から解き放たねば。




