第43話 貧民街のその先に。
市場の方々はいつも元気。見てるだけでも、そのエネルギッシュな振る舞いにこちらも引っ張り上げられてしまう。だから、俺はこの市場が好きだ。
酒場より逃げ出し……散歩に出てきた俺は、何という事なしにここへやって来た。まぁ、元気が無いというワケではない。あいつらにはちょっとムカつく事はあるけど、俺はあいつらが好きだと確かにいう事ができるだろう。好きって言っても、ラブではない。
俺は魚ラブ。魚を愛してる。だから、この市場の魚を扱う店の前で足を止めさせられてしまった。俺の視線の先にあるのは、イワシの様な魚だった。それでいて、新鮮さは損なわれていない様子である。
って事は……海が割りと近くにあるって事ではないか! やったね!
いや、別にね、奴らの水着を期待してるわけではない。まぁ、多少気にはなるけど、そうじゃなくて、俺が期待してるのは海水から塩を製造する際に発生する副産物“にがり”だ。ただ、この世界では天日と風を利用した塩田しか存在しないので、我々が独自に釜炊きで塩を作るしかない。
そして、そのにがりを何に使うか……? そう、豆腐である。英語で言うなら、Tofuだ。
というか、豆腐作りが魔王修行のためになるのかどうか分からんが、ハミちゃんは何でも経験だって言ってたし、草むしりやおつかい依頼よりは断然マシだろう。美味しいし、売れたらお金も手に入る。お金が手に入ったら、それで情報も装備も手に入れられる。
ま、面倒だから、今はとりあえずイワシっぽい魚を眺めている。
「おいにいちゃん、買わないならどいてくれないか」
「うーん。ちょっとまって」
「ったく、コレだから貴族様は……」
「え、貴族? 一般人だけど。笑うわぁ、俺が貴族なんてありえないわぁ」
「そうなのかい? いやなぁ、にーちゃん似てるんだよなぁ、昔この辺りに住んでたっていう貴族サマに。彫りの浅い幼い顔が特徴的だったらしいんだが。まぁ、昔も昔、大昔の話なんだけどな」
「ふーん。貴族かぁ、悪い気はしないな。おっちゃん、このイワシ12尾頂戴!」
「おう、イワシな。まいど! 1尾おまけしといてやるよ」
「サンキュー、おっちゃん」
イワシって名前通じるんだな。鰯じゃなくて、こっちの世界で発音が単に似ているだけのイワスィかもしれんが。
うん、死んだ魚の様な目、とは言い難いくらいに新鮮そう。さっき死んだばっかり!
ハミちゃんに貰った余ったパン粉もあるし、今日はこれでフライでも作ってやるかなぁ。なんだかんだ言っても、あいつらちゃんと依頼こなしていたもんな。最近は依頼そのものがなくて活躍してないんだけど。
「ナァァァヴォォオオ」
ネコか。この世界にもいるんだな、ネコ。可愛いけど実はモンスター、なんて事はないよな……!? まぁありえなくはないけど、こんな可愛いならモンスターでもいいかなぁ、なんて思っちゃったりする。あぁ、でも、戦えないよ。こんな可愛いモンスターの戦いの相手をするなんて、正直気が引けてしまう。“倒さないと世界が崩壊する”ということであっても、俺には出来ないかもしれない。
この途轍もなく愛らしい小動物は、俺の足元でその小さな身体を擦りつけてくる。これがどういう意味を持つのか俺は知らないが、コイツが愛らしい事に変わりはないのだ。
あぁ、でも、“こいつ弱そうだな”とか思われてたらムカつくなぁ……。
「よーしよしよし、いい子だなぁ、お前。お~よちよちよち~」
癒されますねぇ。
そして俺が魚のアゴを通した木の蔓を地面へと置いた時、事件は起きたのだ。
「かえせぇえええ!! てめぇこらあぁあああ! ぶん殴るぞこらああああ!」
魚と猫が出会ったとき、何が起こるか。これは想像に難くはないだろう。
空はいつもと変わらなかった……と、思う。清らかとは言い難いそれだけど、薄く引き延ばされたホワイトがまるでベールの様に美しかった……と、思う。そして必死に、ただひたすらに、あの可愛いモンスターを追いかけていたのを憶えている。これは、確かだ。
今いるのは、貧民街の袋小路。魚を咥えた彼をなんと表現したら言いのだろうか? 窮鼠でなく“窮猫といったところか。
だとすれば、噛まれるのは俺という事になる。それは避けなければ。女の子に噛まれるなら有り難いが、動物に噛まれるのはあまり好ましくない。感染症の可能性もあるうえに、尖ったその野生はやすやすと皮膚を切り裂いてしまうからだ。血が出るのは、マのつく性質の俺にとってはエレガントとは言いがたいのだ。
というよりは、単純にすんごく痛い。猫に噛まれたりひっかかれたり、すんごく痛い。
「くっそ、悪魔め! 魚を返せ!!」
蔓だ、魚を通した蔓ごとだ。それを彼は咥えている。収穫したコメを掻っ攫っていく圧政者かお前は!
「今日の晩飯だぞそれええええ……。最近依頼をこなしてないからお金の無駄遣いはしたくないのにぃ……。いやあのね、お金に余裕があるならお前にそれをやってもいいんだよ、俺も鬼じゃない。でも今のお前は鬼だぞ、悪魔だぞ! お願いかえして」
あぁ、なんか“フゥゥゥ”って威嚇してきてる。威嚇したいのは俺の方だ。飯だ、命を支える飯を盗られたのだ、威嚇くらいはしたくもなる。
「ブブブウウゥゥウゥシャアアアア!」
今威嚇してるのは、人間の俺です。威嚇してるのは、人間の俺です。
“お前は人間だぞ”と自らに言い聞かせるように、大切な事なので2回繰り返した。
「ヴァァアアアアアア」
「ナァアアァアアアアヴヴ」
通りかかった住人がこの二つの声だけを聞いたら、どちらが人間かってのを判別するのは難しいと思う。だって、俺は相当に気合を入れて猫の真似をしたのだ。
侵入した敵アジトで物音を立ててしまったら、俺が率先して“にゃあ”と鳴き、敵兵に“なんだ猫か”と言わせる役目をお願いしたいくらいには、日々真面目に練習を繰り返しているんだよね。だから、判別が難しかったら日々の苦労は報われる、ってもんだ。
冷静に考えてみたら、敵アジトに侵入する機会なんてねぇな。
まぁいい、魚、取り返す。
俺は改めて視線を猫へと強く向け、この顔も使い威嚇をする。
「ブリーズ」
風を纏う。ファンタジー的に言えば、風の精霊の加護を受ける。肉体強化魔法の不得意な俺は、こちらで加速した方がより効果的に魔力を使えのだ。
「アイキャンゲットイワシバック! 人間様を舐めるなよぉお! このかわいい悪魔めぇ!」
短距離選手より早く猫との間合いを詰めるも、俺の股の下を軽々と逃げ去るクソね……悪魔の猫。
「ナァヴァヴァヴァ」
「ボラァアアア!」
狭い路地を、奥へ、奥へと駆け抜ける。見える空も、その身体を小さくさせていた。周りを見回すと、背の高いボロボロの集合住宅が、暗く広がっていた。
貧民街でもさらに治安の悪そうな、暗い空気で満たされている陰鬱な街だ。
「あ、猫」
遥か遠くを行く猫を見つけ、俺は駆け出す。夕飯がかかっているのだ、それはもう、必死の形相である。
角を曲がった猫を、遅刻しそうな主人公とヒロインの如く駆け抜ける。
「これは……」
この貧民街でもさらに下の下の下、一際貧しそうな家がその角の先にあった。




