療養の町ラウハ
療養の町ラウハは、湯気の町だった。
町のあちこちから、白い湯気がふわふわと立ちのぼっている。
温泉が湧いているようだ。
石畳の坂道の脇を、あたたかいお湯が小川になってさらさらと流れている。
ほんのりと硫黄のにおいと、町じゅうに植えられたラベンダーみたいな紫の花の香りが混ざりあっている。
でも、そのときの私には、何ひとつ目に入っていなかった。
町の病院の、木の廊下の長椅子。私は、膝の上で両手をぎゅっと握りしめていた。
消毒薬と、乾燥させた薬草のにおい。窓の外で、水車がごとんごとんと回る音。
廊下の奥の、閉じたままの扉。
「あかり様。いもむし様は大丈夫ですよ、きっと」
隣に座ったティエタが、そっと私の背中をさすってくれた。
インクのしみた指先が、あたたかかった。
「でも……いもむしが……」
声が、震えた。
涙が、ぼたぼたと膝に落ちた。
反対側では、後から追いついたスオヤラが、大きな手をどうしていいかわからないように宙に浮かせたまま、おろおろしていた。
ぎい、と扉が開いた。
出てきたのは、小さなおじいさんだった。
私の胸くらいまでの背丈しかない。白いひげがものすごく立派で、鼻の下から左右に、くるんと巻きながら耳のあたりまで伸びている。
丸い鼻の上には、小さな眼鏡をちょこんとのせていた。
「先生! いもむしはどうですか?」
「峠は越しました。驚異的な回復力です」
「よかったあ……」
力が抜けて、私は長椅子にずるずると沈みこんだ。
「しかし、光の尻文字聖女様の炎魔法を受けて無事とは。さすが精霊様ですな」
先生は、私を見る。
「その魔力の量でしたら、普通のモンスターは跡形もなく燃え尽きるでしょう」
「尻文字魔法、こわ!」
私は、キャタピラーを思い出す。
悪いことをした。
「放っておけば、森に入ったハンターがやられていたかもしれません」
先生は、ひげの先をくるくると指で巻きながら、私を見て、優しく笑った。
「しばらく安静にして、おいしい葉っぱと、きれいな水を召し上がっていれば、回復するでしょう」
「はい」
「この町は、療養するにはとてもいい町ですよ。光の尻文字聖女様も、どうぞ、ゆっくりとしていってください。それでは、私はこれで」
「ありがとうございました」
先生が、ひょこひょこと廊下の奥へ歩いていく。
すると、開いたままの扉の向こうから、ちょこちょこと、いもむしが這い出てきた。
焦げていたところは、もうほとんど、元の若葉色に戻っていた。
いもむしは、私の靴によじのぼり、すねを越え、膝を越え、腕をつたって、肩にのった。
そして、いつもの場所に。
首すじに、ひんやりとした、しっとりとした感触。
柑橘とミントを混ぜたような草のにおい。
「ごめんね……いもむし」
――いいよ、もう。
声が、聞こえた気がした。
風鈴の、いちばん最後の余韻みたいな透明な声だった。
「え、いもむし、なんか言った?」
いもむしは、黙っている。つぶらな目で、じっと私を見ている。
「……気のせいか」
私は、指先でそっといもむしの背中をなでた。
つるつるで、あたたかかった。
その日の夕方、私たちは町の市場で、いちばんおいしそうな葉っぱを探して回った。
朝露をたっぷり含んだ、やわらかい桑の葉。
ぱりっと割ると、甘く青いにおいがはじける、若いキャベツみたいな葉っぱ。
いもむしは、どれも、しゃくしゃくしゃく、と小気味いい音を立てて、あっという間に食べた。
私たちも、湯気の立つ屋台で、薬草と鶏肉のスープを飲んだ。
黄金色のスープに、細かく刻んだ緑の葉っぱが浮いている。
ひとくち飲むと、鶏の脂の甘さと、しょうがに似たぴりっとした辛みが、泣きすぎてからっぽになったお腹に、じんわりと染みていった。
体の内側から、あたたかくなった。
宿を見つける。ティエタがてきぱきと手続きをしてくれた。
宿の窓辺で、湯気の向こうに沈んでいく夕日を眺めながら、私は口を開いた。
「あのさ、ティエタ」
「はい」
「私、尻文字魔法、練習するよ。仲間を傷つけるわけにはいかないから」
「そうですね。ご立派です」
「うん、本当に立派だと、自分でも思う」
「言い方」
ティエタが、くすっと笑った。
「でも、やっぱり尻文字魔法は恥ずかしいから、手から魔法を出す練習もする」
「ええ……」
ティエタの眉が、八の字になった。
「ダメかな?」
「手から魔法というのは……あまりにも奇抜というか、ぶっちゃけ、ちょっと気持ち悪いというか」
「ええ、そんなに?」
ティエタは、インクのしみた自分の指先を、じっと見つめた。
「正直に言いますと、あかり様がなぜそんなに尻文字を恥ずかしがるのか、私には分からないのです」
「そうなんだ」
「逆に、手で魔法を使うのは……どうでしょう。手は、人間にとって、道具みたいなもの、ですよね」
「まあ、そう言われれば、そうかな?」
「はい。道具たる手では、不浄なものも触るわけで……。インクも、泥も、時にはさらに不浄なものも、なんでも触りますよね」
まあ、それはそうだ。ティエタは続ける。
「この世界をめぐる神聖な力を扱うのに、手がふさわしいかというと、私には、そのように感じられないのです」
私は、自分の手を見た。
今日、いもむしをすくい上げた手。スープのお椀を持った手。
確かに、一日でいろんなものを触っている。
「ティエタの気持ちが、少し分かったよ」
「ですが、私が感じた気持ち悪さのようなものが、あかり様にもあるのですね」
「そう、それ!」
そうなんだ。それなんだ。
「やっぱり、お尻から魔法が出るのはどうかなって思うよ!?」
「お尻から魔法が出るのではありません、尻文字で魔法を唱えるのです」
「だから、それ、何が違うの?」
窓際で腕組みをしていたスオヤラが、うーむ、とひげをなでた。
「あかり様」
「何?」
「あかり様の世界では、守りのときは、手で盾を持つのでしたな」
「えっうそ」
ティエタの目が丸くなる。
「うん、そうだよ。敵のほうを向いて、手で盾を持つよ」
「ティエタ、あかり様の世界ではそれが普通なのだ。我々とは感じ方が違うのだろう」
「そう、それ! それが言いたかった!」
スオヤラは、ゆっくりと天井を見る。
「まあ……すごくよく考えると……。尻と盾で守りをするより、手で盾を持って守りをしたほうが、敵の攻撃がよく見えて、守りやすいかもしれない」
「すごくよく考えなくても、そうだよね!?」
うーむ、と言いながら、スオヤラが目を閉じる。
「というのは、理論的にはあるかもしれないが……やはり、机上の空論のように感じるな」
「異文化コミュニケーションを感じる!」
ティエタが、ふう、と息をついて、眼鏡を押し上げた。
「分かりました。あかり様の考えも、尊重しましょう」
「やった!」
「ですが、手で魔法が使えたとしても、あかり様の世界とは仕組みが違いますので、ちょっと水が出るとか、その程度ですよ?」
「練習してみるよ。私の魔力は、すごく多いんでしょ?」
「はい、それはそうですね。あかり様の魔力は、とんでもなく多いです」
「よーし、がんばるぞーーーー!!!」
窓の外に、私の声が飛んでいった。
湯気の向こうで、一番星がまたたいていた。
肩の上で、いもむしが、ぴこん、と体を持ち上げた。
それから私たちは、魔法の練習をしながら、魔王の城を目指して旅をした。




