筋肉は裏切らない
よろしくお願いします。
北枝豪、38歳。しがない中堅商社の営業マンだった。
終わらない残業、理不尽なクレーム、上司からの度重なるプレッシャー。
すり減っていく精神と肉体を繋ぎ止めていたのは、深夜の24時間営業ジムで、ただひたすらに冷たい鉄と向き合う時間だけだった。
「だが筋肉は、決して裏切らない……ッ!」
その言葉だけを胸に、彼は今日も限界まで肉体を追い込み……そして、愛する150キロのベンチプレスの下で、静かに息を引き取ったのだった。
原因は過労による心不全。
それはあまりにもマッスルで、あまりにも孤独な最期だった。
しかし、豪の魂は滅びてはいなかった。
彼は転生した。
そして見知らぬ草原に立っていたのだ。
そこは剣と魔法が存在する、典型的なファンタジー世界だった。
この世界は完全なる「魔法至上主義」。
強力な魔法が使える者こそが貴族としてふんぞり返り、肉体労働や筋肉は「魔力を持たない下民の無駄な飾り」として激しく見下される世界だった。
だが、豪にとってそんな世界の常識など知ったことではない。
彼にとって重要なのは、転生したこの新たな肉体が、前世の限界を超えた「最強のバルク(筋肉量)」を誇っていたこと、ただそれだけである。
♦︎
場所は変わり、とある街。
「ッ……!ここまでね……。
私や街は、あの醜い魔物に飲み込まれるのね……」
絶望の声を漏らしたのは、美しい金糸の髪を持つエルフの少女だった。
彼女の目の前には、街の防壁を軽々と乗り越えて迫り来る巨大な魔物、魔王軍の先遣隊である『脂肪スライム』が立ちはだかっていた。
高さ3メートルはあろうかという、黄色く濁ったブヨブヨの脂肪の塊。
エルフの少女は得意の風魔法を何度も放ち、鋭い真空の刃でスライムを切り裂こうとした。
しかし、優雅でスタイリッシュな彼女の魔法は、スライムの分厚すぎる脂肪層に「ぼよんっ」と弾かれ、傷ひとつ負わせることができなかった。
魔力も底を尽き、少女が膝から崩れ落ちたその時だった。
彼女の前に、丸太のように太い腕を持つ一人のおっさんが、嬉々とした表情で立ち塞がった。
「ふむ……素晴らしいバルクだ」
豪は、巨大な脂肪のバケモノを見上げて深く頷いた。
「だが、いささかカット(絞り)が甘いな。
その体脂肪率では、せっかくの筋肉が泣いているぞ!」
「……は?」
緊迫した戦場に響き渡った謎のダメ出しに、エルフの少女は呆然と声を漏らした。
逃げるどころか、巨大な魔物の前でなぜかポーズを取り始めたおっさんを見て、彼女の混乱は頂点に達する。
「な、なんなのよあなた! 早く逃げなさいよ!
その魔物には物理攻撃も魔法も効かないわよ!」
「ハハっ、大丈夫大丈夫、任せて」
少女の警告をよそに、豪はゆっくりと息を吸い込み、両腕を力強く胸の前で交差させた。
「唸れ筋肉! サイドチェストォォォ!!」
豪が完璧なポージングを決めた瞬間、彼の上腕二頭筋が異常なまでの熱と光を放ち始めた。
空間が歪み、むせ返るようなバニラ味のプロテインの香りが周囲を包み込む。
魔法陣などない。
ただ己の肉体の躍動のみをトリガーとした、未知の召喚術だった。
「我が呼びかけに応えよ、ニト子!」
光の柱の中から勢いよく飛び出してきたのは、巨大なダンベルを両手に持った、健康的な褐色の肌を持つ少女だった。
「はいマスター! 今日もバチバチに追い込みますよーっ!」
「……えっ?!」
エルフの少女はあり得ない光景に固まる。
「なっ!……魔法陣もなしに召喚術を!? っていうか、なんであのおじさん、さっきから変なポーズを取り続けてるの!?」
「行くぞニト子! 奴の脂肪を燃焼させてやれ!」
「了解です! 有酸素と無酸素のハイブリッド・ラッシュ、いきますね!」
エルフの少女の悲鳴のようなツッコミを置き去りにして、豪とニト子は脂肪スライムへと躍り出た。
脂肪スライムが巨体を揺らして押し潰そうと迫るが、豪はその攻撃を分厚い大胸筋で真っ向から受け止める。
「ふんっ、効かんな! お前の攻撃には、体幹のブレが見られるぞ!」
豪がスライムの動きを止めた隙に、ニト子がダンベルを構えて跳躍した。
「そぉい! 筋肉痛のプレゼントです!」
ニト子の放つ強烈な物理連撃が、スライムの体深くまで突き刺さる。
それは単なる打撃ではない。
打撃箇所から強制的に筋繊維を破壊し、超回復の熱量で相手の脂肪を内側から燃やし尽くすという、理不尽極まりないマッスルアタックだった。
「ブ、ブヨォォォォッ!?」
先ほどまで風魔法を完全に弾き返していた分厚い脂肪が、みるみるうちに汗となって蒸発していく。
ものの数秒で、巨大だったスライムはげっそりと痩せ細り、最後は「シュウゥゥ……」という音と共に完全に消滅してしまった。
「よし、ナイスバルクだ!ニト子」
「マスターのサイドチェストも、今日もキレッキレでしたよ!」
見事な連携で街を救った二人は、シャカシャカとシェイカーを振ってプロテインを作り、高らかに乾杯の音を響かせた。
(信じられない……あんな醜い肉弾戦でバケモノを倒すなんて……)
エルフの少女は、目の前で繰り広げられたあまりにも汗臭い光景にドン引きしつつも、命を救われたことには変わりないため、ふらつく足で豪のもとへ歩み寄った。
「……助けてくれたことには礼を言うわ。よく分からない召喚術を使うなんて驚いたけど」
「気にするな。すべては筋肉が解決してくれただけのことだ……ところで、君の名前は?」
豪がプロテインの泡を口の端につけながら尋ねると、少女はエルフ特有の長い耳を少し揺らし、誇り高く名乗った。
「私の名前はカタボリカよ。気安く呼ばないでよね」
その瞬間だった。
先ほどまで巨大な魔物を前にしても一切動じなかった屈強なおっさんの顔から、サッと血の気が引いた。
「カ、カタボリック(筋肉分解)……だと!?」
豪は丸太のような両腕を抱え込み、ガタガタと震え出した。その瞳には、明確な恐怖が浮かんでいる。
「なんて恐ろしい名前なんだ……っ! 聞いただけで血中のアミノ酸濃度が下がっていく気がする! す、すぐにプロテインを……BCAAを追加補給しなければッ!!」
豪はパニックに陥りながら、空間収納から謎の白い粉末を大量に取り出し、水なしで直接口に流し込み始めた。
「カタボリカよ!カ、タ、ボ、リ、カ!
……な、なんなのよ急に!? なんで私の名前を聞いて震えてるのよ!?」
「近寄るな! 俺の大胸筋が減ってしまうだろうが!」
「意味がわからないわよ! もう嫌ぁぁっ!」
美しいエルフ・カタボリカの悲鳴が、平和を取り戻した青空に虚しく響き渡る。
こうして、異世界に降り立った最強の筋肉バカと、彼に振り回される不憫なエルフの、汗とプロテインに塗れた冒険の幕が上がったのだった。
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