#018
ヘルマン・クロスが“異形化”という現象を目撃したあの夜から、すでに四日が経っていた。
左肩の治療もそこそこに、彼は小隊長として報告や現場指揮に追われる日々。
だが、心の奥ではあの“仮面の集団”の影が消えず、眠りは浅い。
そして今、再び騎士団本部の重厚な扉の前に立っている。
分厚い木扉の向こうには、形式ばかりの正義と、見て見ぬふりをする権力が待っている。
深く息を吸い、ヘルマンはノックをした。
「クーガン中隊長殿、失礼いたします」
入室すると、室内の空気が一気に重く感じられた。
中央のデスクには、相変わらず椅子にふんぞり返る男——中隊長グレイ・クーガン。
彼はくるりと椅子を回し、両肘を机に組んで、冷ややかな笑みを浮かべる。
「これはこれは、ヘルマン・クロス先生。今回も新作の執筆、お疲れ様でした」
皮肉混じりの声音。
ヘルマンは表情を崩さず、淡々と応じた。
「なんのことでしょう?」
と、わざと首を傾げてみせる。
その軽い芝居をグレイが見抜いているのはわかっていた。
「何を惚ける。先日上げた報告書——また創作の話かね?」
「前回も申し上げた通り、すべて事実です」
「人間が魔獣のように異形化し、それを“謎の集団”が観測していた、だと? 誰が信じると思う?」
グレイの口調には、明確な嘲りが混じっていた。
ヘルマンは反論もせず、静かに息を吐く。
「信じていただかなくても結構です。起こった事実は、報告に記しました」
その淡々とした声音が、逆に反抗と受け取られたのか、グレイの眉がわずかに吊り上がる。
「少し休暇が必要か? 私はね、君のように実直な部下を誇りに思っている。だが——もういい年だろう。現実を見ろ」
形式的な同情の言葉。その裏にあるのは、明確な“切り捨て”の意思だった。
ヘルマンは拳を机の下で握り締める。骨がきしむ音が、自分の中にだけ響く。
「それに、君には例の《違法薬物》の件も任せている。そちらの進捗はどうだ?」
話題を切り替えるようにグレイは問いかけた。
ヘルマンは一拍置き、冷静に答える。
「資料を基に調査を進めています。……ただ、今回の一件と繋がっている可能性が高い」
「ほう、どういう根拠だね?」
「資料に記載されていた“甘い匂い”。現場でも同じように匂いが充満していました。偶然とは思えません」
部屋の空気が、わずかに揺らぐ。
グレイは椅子の背もたれに身を預け、ふう、と息を吐いた。
「……君はいつも、妙なものを嗅ぎつけてくるな」
その言葉には、わずかな嘲りが混じっていた。
褒め言葉のようでいて、実際には「余計なことをするな」という牽制だ。
グレイの目には、そうした面倒を持ち込む者への苛立ちがはっきりと浮かんでいた。
ヘルマンは表情を崩さず、短く息を吐く。
慣れたやりとりだ。上層の者にとって“現場の真実”ほど厄介なものはない。
「私は与えられた任務と、市民の安全を守るのが仕事ですので」
静かだが、芯のある声だった。
グレイは肩をすくめ、机の上の書類を指先でとんとんと叩く。
「その誇りは褒めたたえるよ。……さて、君の報告書だが、もし本当に事実ならば、私はこれを上に上げねばならん。だがな——」
椅子をきしませ、グレイは小さくため息をついた。
その吐息には、面倒ごとを極力避けたいという本音がにじんでいる。
「この“創作小説”のような内容を、上層部に丁寧に説明する気にはなれんのだ。お前と、現場に居合わせた部下。二人を部隊会議に招致する。いいな?」
「了解しました。ありのままを報告すればよいのですか」
「そうなるな。会議では——話を盛らんように」
皮肉の混じる忠告に、ヘルマンは小さく肩をすくめるだけだった。
すでに言葉の応酬は意味を成さない。ここから先は、行動で示すしかない。
* * *
騎士団本部の上層階——そこは、重責と沈黙の空気が支配する場所だった。
階段を一段上がるごとに、空気の密度が増していく気がする。
長年現場で汗と血にまみれてきたヘルマンにとって、この“静けさ”はむしろ不気味だった。
上層階には、部隊長クラス以上の執務室と会議室が並んでいる。
騎士団という巨大な組織の“頭脳”がここにある。
その分、失言ひとつが命取りになる。
ヘルマンは無意識に背筋を伸ばし、滅多に着ない制服の襟を正した。
隣を歩くグレイは、さすがの中隊長でも緊張が隠せないのか、何度も腹をさすっている。
ヘルマンはその姿を横目で見ながら、内心で小さく苦笑した。
(俺より落ち着きがないじゃないか、中隊長)
一方で、ミカはといえば——新人らしい場違いな明るさで、ほとんど緊張の色を見せていない。
むしろ珍しい場所に足を踏み入れた冒険者のような目をしている。
ヘルマンはそんな彼女を見て、少しだけ心が和らいだ。
「中隊長グレイ・クーガン、小隊長ヘルマン・クロス、ミカ・アルドゥーネ。失礼いたします」
グレイは重厚な木扉の前で立ち止まり、ひとつ深く息を吸い込んだ。
その仕草は、まるでこれから敵陣に突入する兵士のようだった。
扉に施された金細工が、廊下の灯りを受けて鈍く光る。金属の冷たさが指先に伝わるたび、胸の奥の緊張が静かに増していく。
グレイが取っ手を両手で握りしめ、慎重に押し開けた。
途端、冷ややかな空気が流れ出す。油の匂いと紙の匂い、そして権力特有の圧——。
足を一歩踏み入れた瞬間、背筋に針のような視線が刺さった。
長卓の奥には、騎士団の幹部たちが並んでいた。
静寂の中で、わずかに紙をめくる音だけが響く。
誰も口を開かない。誰も表情を動かさない。
その沈黙が、何より雄弁にこの場の“格”を物語っていた。
「おう、よく来たな」
最奥、上座から低く響く声。
恰幅の良い男がゆっくりと立ち上がり、こちらを見据える。
短く刈り込まれた黒髪。規律を重んじる者特有の清潔な制服の皺ひとつない姿。
しかし、その下に隠しきれない筋肉の隆起が、ただの官僚ではないことを示していた。
鋭い眼光、まるで剣の刃だ。
(……あれが、環将)
ヘルマンの喉が無意識に鳴った。
王都直属騎士団——正式名称を《聖環騎士団》という——。それらを束ねる現場最高責任者。
数年前、昇進の式典で一度だけ遠目に見た男だ。
あのときと変わらない威圧感。いや、今はそれ以上に感じる。
「環将。この度はお時間を頂戴しまして、感謝申し上げます」
グレイが背筋を伸ばし、額から脂汗を一筋流しながら声を絞り出した。
その声音に普段の軽さはない。
どうやら彼自身、想定外の相手が待っていたようだ。
環将の両脇には、数名の男女が静かに座っていた。
空席がぽつぽつと目立つのは、他の部隊長がまだ任務中ということだ。
座っている者たちは、どれも一筋縄ではいかぬ顔ぶれ——老練な副隊長、眼鏡の魔導分析官、そして無表情の女騎士。
誰もが無言のまま、ヘルマンたち三人を“審査するように”見つめていた。
(さあ、何を聞かれる……いや、何を断罪されるのやら)
心臓の鼓動が、静まり返った室内でやけに大きく響いて聞こえる。
ほんの少し前まで現場で剣を振るっていた手が、今では報告のために汗を滲ませている。
ヘルマンは無意識に右手の甲を拭いながら、環将の次の言葉を待った。




