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「オルソン閣下、こちら少々ご確認いただけますか?」
書類が、バーナード・オルソンが書きつけを行っていたノートの傍に差し出される。
それは早朝、文書課へ「本日中にチェックを頼む」と依頼したものであった。
まだ午前中だ。分厚い書類を端まで目を通してチェックするにはかなり無理をしたに違いない。
「ありがとう」
書類やメモから目を上げると少しだけ視界が滲んで見えた。朝からずっと書類の処理ばかりしていたせいだろう。完全に目の焦点が書類との距離に固定されてしまっていた。
眉間に力を入れて焦点を合わせると、見覚えのある主任文官が、すぐ横に笑顔で立っていた。これをするから目つきが悪いと言われるのは分かっているが、それで女性たちが遠巻きにしてくれるというならばバーナードとしては大歓迎だった。
この国の宰相として勤めていると仕事上でいろいろと優遇されることは多い。
仕事の遅延はこの国の政を停めることに繋がる。それが分かっているからだろう。
「いいえ、お忙しいオルソン閣下の書類は最優先で当然ですから」
微笑んで頷いたヘイリー女史の長い髪が、さらりと溢れてバーナードの肩へと触れた。
「あぁ、失礼しました」
たいして申し訳ないとも思っていない声で文官が謝罪した。細い指が動いて長い髪を耳へ掛けて背中の方へと流す。しかし、身体の位置が離れることはない。むしろ前のめりになった身体を支えるように机の上で手をつくと、先ほど髪を触っていたもう片方の手が、差す出された書類に添えられた紙の文字を指し示していく。
「こちらに纏めておきましたが、幾つかご確認させていただきたい部分がございます」
ただでさえ触れ合うほど近かった顔を更に近づける。近い。同じ書類を覗き込もうというのだから、当たり前ではある。
仕事に男女の差はないとしても、もしこれが宰相であるバーナードの方からこの距離に近づいたのだとしたらセクハラだと騒がれても仕方のない近さだ。
けれど近づいたのが女性からとなると男性が騒ぐことはまずない。むしろ仕事の説明をするため以上のものを思い浮かべた側が眉を顰められる結果となる。
ただ、今こうしていても昔ほど女性に対する嫌悪感は薄い。これは結婚したことによる効果だ。
一昨年、学生時代に婚約した相手と予定通りに結婚した。
それからだ。周囲の熱が沈静化した。ようやく仕事相手として普通に対応されるようになって、バーナードはとても喜んだ。
結婚して、よかった。そう心から思った。
バーナードは、あまりにも近い文官との距離に一瞬眉を顰めたもののそれを指摘することはなく、淡々とヘイリー女史からの文章表現の確認を受け細やかに回答して訂正を加えていく。
「なるほど。誰が読んでも間違いなく正しく理解できる平易な表現というのは、改めて書こうとすると難しいものだな」
修正案で真っ赤になった書類を前に、大きく息をついた。
「はい。これまでは難解な表現こそが公式文書の格式であるとされていましたからね。ですが、これからは誰が読んでも間違いなく理解できるように変えていくようにと、王太子殿下より通達がなされましたから」
隣国王女との婚約が調い立太子したばかりの第一王子殿下の発案による改革は、確かにこれまで書きなれた文章とはまるで違って、誰が読んでも理解できる平易な文章による公式文書というものだった。
これは、まだこの国の言葉を流暢に話すことができない婚約者のためのものであると誰もが理解できたため好意的に受け入れられた。だが実際に公式文書を平易な言葉で表現することは、慣れないこともあってとても難しかった。
お陰で、ヘイリー女史だけではなく文書課の文官たちが皆忙しく王宮内を行き来している姿をよく見かける。
「すまない。昼休みに入ってしまったな。だが丁寧に指摘してもらえて助かった。ありがとう」
「それが私の仕事ですから」
にっこりと笑って頭を下げるヘイリー女史の長い髪が、またさらりと流れてオルソンの視界に入った。
高い白襟と膨らみのない長い袖と踝まである長いスカート。臙脂色をした主任文官の制服には露出など無い。だが禁欲的な身だしなみの中で、長い艶やかな髪の間から覗くうなじの白さがかえって目を引いた。その白い肌から立ちのぼる甘く蠱惑的な香りがオルソンの鼻をくすぐった。
思わず開いてしまった口を手で押さえ、バーナードは気まずげに視線を逸らした。
「あの……、よろしければランチをご一緒してくださいませんか?」
その言葉に時計を確認すれば、すでに昼休みの時刻へと大きく割り込んでしまっていた。
「ん? あぁ、気が利かなくて申し訳ない。そうだな、今からでは一般職員用の食堂ではもう何も残っていないかもしれないな」
国から補助が出るので安くてうまいと評判なだけあって、王宮内の食堂はいつでも賑わっている。
高位貴族でもあるオルソンは一般職員のための補助金を使う訳にはいかないので基本的に使用することはなかったのだが、一度部下に誘われて足を運んだ時に、メニューが足りなくなってしょげ返っている一般職員を見てとても申し訳なく思ったのだ。
その時に、一般職員だけでなく騎士や兵士たちも通うため、メニューが売り切れてしまう日もあるのだと知ったのだった。
「もしよければ、我が家自慢のシェフの料理を一緒に堪能してみないか」
「まぁ! オルソン侯爵家のお抱えシェフのお料理をご一緒させて頂けるのですか」
「自慢のシェフだ。私は、王都一、いや世界で一番の料理だと思っているよ」




