〈7〉信也、話しかけられるショックを受ける
「俺、実家に戻るわ。会社にも退職すると言うよ」
信也は兄、秀一に電話で伝えた。
信也は実家に帰る腹を決めたのだ。そして、勤め先の瑞ケ丘ハウスエステートの社長に空き家になった実家に戻るから退職すると伝えると、
「二月三月は繁忙期だから、三月まではやってくれないか」と言われた。
辞めて実家に戻ると決めた以上、一か月でも早く辞めたかったが社長に押し切られる形で三月末に退職することになった。
それまでは家賃を払いながら瑞ケ丘ハウスエステートで働くということが、なんの意味もないように思えた。しかし、それでも受け入れたのは、麻衣子のビートファイトがあったからだ。
実家に戻ると決めたものの煮え切らない。
実家に戻るということは麻衣子のビートファイトも終わるということだ。今の人生で唯一の楽しみであり、ビートファイトは信也の精神的支柱。辛いときも悲しいときも自分を鼓舞し支えてきた。中でも麻衣子のビートファイトは今まで受けた中で一番だった。それをやめる。
麻衣子のビートファイトと別れる。
苦渋の決断。
それでも麻衣子は人妻であり、ここに留まっても決して実らない恋。
潮時だと信也は思った。
信也があと三か月、瑞ケ丘ハウスエステートで働くと同時にあと三か月で麻衣子のビートファイトとさよならになる。
その思い胸に麻衣子のビートファイトを参加するため開始時間までスタジオで身体をほぐしていたときのことだった。
突然、いつも後ろにいる麻衣子の夫、萩に声をかけられた。
「最近、声出さないですね」
「え、ああ、ちょっとクレーム言われてしまいまして」
「クレーム?」
「リズムが狂うって」
「そうなんですか?」
萩は苦笑して、自分の陣取っている場所に戻った。
信也は麻衣子の旦那に声をかけられるなんて思ってもいなかっただけに、少し焦って答えてしまった。
〈なんか、いらぬこと言ったかな……〉
しかし、信也に声をかけてきたのは萩だけではなかった。
麻衣子のビートファイトが終わり、信也はいつものようにスタジオ前の通路にあるベンチに座って両手に巻いてあるバンテージを解いていたときのことだった。
「声出さないんですか?」
「え?」
青葉スポーツセンタースタッフのポロシャツを着ている男性スタッフに声をかけられた。
「あ、自分、この青葉スポーツセンターの管理運営を任されている岩城です」
「ああ、どうも」
「小倉さんのビートファイト。参加者、少ないですよね」
「でも、小倉さんのビートファイトは今やどこのスポーツジムでは受けられない選曲です。二十年やっている僕でも初めての曲が多い」
「確かに古い曲ですよね。私がここに配属される前、ダブルエックスの北尾支店にいたんですけど、ビートファイトで小倉さんがかけている曲、聞いたことがない」
岩城は苦笑した。
ダブルエックスは青葉スポーツセンターの管理運営を任されている大手スポーツ会社だ。そのため、この県営スポーツセンターでもビートファイトが受けられる。
「この選曲ならビートファイトファンなら間違いなく喜びます。そんな参加者が十人なんて絶対ありえない。超満員になって、受けられない人が出てもおかしくない」
「そうですね。長年のファンにはたまらないでしょうね。でも、まぁ、仕方ないのかな。このスタジオレッスンに来る人のほとんどが中高年からお年寄りですから。一番人が入るのは、土日のシニア向け健康体操なんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。でも、僕はそれを変えたいと思っているんです」
「変えるって、どうやって」
「インストラクターも若い人にして、もっと若者向けの魅力あるプログラムにするんです。全部、刷新するつもりです」
「刷新って……小倉さんを辞めさせるんですか⁉」
信也は思わず声を上げた。
「いえ、そんなつもりはありませんよ。小倉さんも今、楽しいって言ってたらしいし」
「小倉さんに聞いたの?」
「いえ、旦那さんの萩さんに聞いたんです。一体いくつまでやるのかって」
「いくつまでやるって?」
「さぁ、萩さんは本人に聞いたことないって言ってました」
「そう……」
「でも、萩さんに若いインストラクターを入れて刷新したいということ、話したら、いいんじゃない、とは言ってくれましたけど」
「……」
「小倉さんも五十代ですからね。まぁ、そう遠くない未来、引退するときが来ると思うんですよね。その時になってから準備しても遅いでしょう」
〈引退〉
信也は岩城の言葉にショックを受けた。
「まぁ、あくまでも自分の構想です。でも、あなたみたいに声を出してくれる人がいるのはいいなぁ、とは思ってましたよ。やっぱりビートファイトは声出して盛り上がってる方が楽しく見える。楽しくなければお客さんは来ないですし。また声出してくださいよ」
信也は、岩城に参加者からクレームを言われたことを話さなかった。
いや、岩城の口から出た“引退”という言葉にショックを受けて、クレームのことなど頭から飛んでいた。
〈そうか……小倉さんにも、いつか終わりがくるということか〉
信也はまたショックを受け、傷ついた心のまま家路についた。




