〈最終話〉好きになってくれとは言えない
四月、第一週、信也は初めて実家から青葉スポーツセンターで行われる小倉麻衣子のビートファイトをやるために片道四十キロ、二時間かけて行った。
いつもと変わらないスタジオ。
四十人入るスタジオに参加者は十人ほど。
何も変わらない。
スタジオ入り口に入ると萩が信也を見て、信也に近づいてきた。
「あれ、来たの?」
「ええ、来ました」信也は照れるように言った。
「もしかして実家から?」
「片道四十キロ、二時間かけて来ました」信也は苦笑いした。
「そんなに無理しなくても……」
「いえ、そんなことはないです。小倉さんのビートファイトはまさにレジェンド級です。今どき、こんな選曲、どこのスポーツジムでも味わえません。僕の唯一の楽しみなんです」
「そう……でも、こんなこというのはあれだけど、僕はあまり来てほしくなかった……」
そう萩は小声で言って信也から離れた。
〈え? どういうこと〉
いつものようにインストラクタ―の小倉麻衣子の挨拶をするとビートファイトが始まった。
麻衣子の選曲は相変わらず素晴らしかった。
信也はその麻衣子の素晴らしい選曲に答えるかのように「えぃ!」と気合の入った声を出した。
前列の永島裕子の笑顔が鏡に映った。
すると麻衣子も「まだまだ!」と煽って来た。
麻衣子も笑みを湛え、ぷくっと頬が盛り上がっている。
先週と何一つ変わらない。
いつも楽しい麻衣子のビートファイト。
しかし、信也にはただ一つ気がかりがあった。
それは始まる前に麻衣子の旦那である萩に言われた一言。
『あまり来てもらいたくなかった……』
信也はその言葉を気にしていた。
「まだまだ続くよ!」
華奢で小柄な麻衣子が煽った。
信也はそれに「えぃ!」と気合の声で答えた。
麻衣子のビートファイトが終わると信也はロビーで萩が来るのを待った。
萩はすぐ来た。
信也は萩に声をかけた。
「あの、来てほしくないって、どうしてですか?」
萩は少し戸惑った。それから重い口を開けた。
「妻がいつも君のことを話すんだ。僕はそれが嫌なんだ……」
信也は予期せぬ答えに驚いた。
「夫婦の会話でですか?」
萩は頷いた。
「でも、それってただの会話のネタになってるだけですよね。そんなの別に気にすることないじゃないですか。どこが気になるんですか」
「……普段、あまり笑わない妻が君のことを話す時はいつも楽しそうに話すんだ。僕はそれが嫌なんだ」
萩は顔を逸らし、いつも麻衣子が来るのを待つソファに座った。
信也は、足取り重く、更衣室へ向かった。
シャワールームでシャワーを浴びた。
浴びながら思った。
楽しそうに話す……。
確かに小倉さんは俺を見て笑ってる。
でも、前列にいる女性だって俺を見て笑ってる。
小倉さんと満足に話をしたこともないし、それはレッスンに参加している常連さんも同じこと。
何ら変わりはないじゃないか。
信也はシャワールームを出て、更衣室で着替えて、ロビーに行った頃には萩の姿はなかった。当然、麻衣子もいない。萩と一緒に帰ったのだ。
〈別に夫婦の話題になってるだけ。ただそれだけのこと……それだけのことだ〉
信也は首を振った。
それでも信也は帰りの車の中で萩と麻衣子のことを考えた。
四十キロの帰り道。二時間はかかる。考える時間は十分があった。
小倉さんがもし俺と付き合ったとしても俺は小倉さんを満足させることは出来ない。旦那さんが小倉さんに与えているような生活をあじあわせることは出来ない。
信也は麻衣子のSNSを良く見ていた。
麻衣子がどんな生活をしているか、わかっていた。
分かっていたから、現実を知っていたから何も出来ない。前に出れない。声をかけることも出来ないでいた。
「もし、俺のことをたとえ好意的に思っていても、好きになってくれとは言えない。ただ見て、笑ってくれればいい。微笑んでくれれば、それだけで十分だ」
それが信也の四十キロの帰り道で辿り着いた答えだった。
家に着いたのは二十四時を回っていた。
実家から青葉スポーツセンターは、遠い。
〈青葉スポーツセンターまでの片道四十キロは俺の彼女への気持ちを確かめるための距離。そして、自宅に帰るまでの四十キロは彼女への想いを確認し、その想いに満たされ、浸る距離だ〉
信也はそう思い、今夜も信也は青葉スポーツセンターまで車を走らせる。
孤独で震える心を彼女の笑顔で癒してもらうために。
〈おしまい〉




