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第2話 祈りの行方

 リネットは差し伸べられた手をじっと見ていた。


 やがて灰にまみれた小さな手が、おずおずとヴァージニアの指先に触れた。


 冷えきった手だった。

 ヴァージニアが掌で包むと、細い指が弱く握り返してきた。


「でも……ここにいないと、お母さんたちが来たとき、分かんないかも……」


 リネットの目が焼け落ちた大聖堂へ向いた。

 必ず来る、とは言えなかった。


「近くに、焼け残った建物があります。ゆうべ逃げてきた方々が、そこにいます」

「……お母さんたちも、いる?」

「分かりません。ですから、皆さんに聞いてみましょう」


 リネットは唇を結び、小さく頷いた。


 裸足の指先はまだ灰の上で縮こまっている。瓦礫の散る道を、このまま歩かせるわけにはいかなかった。


 ヴァージニアは少女を抱き上げた。

 リネットの腕が首に回り、頬が肩口へ寄せられる。


 裏の路地を抜け、前夜を過ごした石造りの建物へ戻ると、奥で包帯を巻いていたマルタが顔を上げた。

 その目がヴァージニアの腕の中へ移る。


「大聖堂の外壁の陰にいました。リネットといいます。水と清潔な布をお願いします」

「すぐに」


 ヴァージニアは毛布の上に少女を下ろした。

 マルタが運んできた水で布を湿らせ、足の裏を拭う。

 灰の下から小さな擦り傷が現れた。

 リネットは身を縮めたが、声は上げなかった。


「この子のご家族をご存じの方は、いらっしゃいませんか」


 近くにいた母親が顔を上げ、老人も少女を見た。

 けれど、誰も名乗り出なかった。

 リネットは一人ずつ顔を見てから、膝へ目を落とした。


 マルタが乾いた毛布でその肩をくるみ、水の入った椀を持たせる。

 少女は両手で椀を抱え、少しずつ口をつけた。


「マルタ。この子をお願いします」

「はい。お任せください」


 ヴァージニアは立ち上がり、負傷者たちの方へ向かった。


◇


 残っている食糧を確かめ終えたマルタが、帳面を抱えてやって来た。


 部屋の隅には、煤で黒ずんだ麦袋と、住民が持ち寄った包みが寄せてある。


「蔵の備蓄は、ほとんど焼けておりました。下働きが確かめてきましたが、使えるものはわずかです」


 帳面に並んだ数字を、マルタの指がたどった。


「今の人数ですと、麦は数日も持ちません。薬と清潔な布は、もっと早く尽きるでしょう」

「子供と病人、怪我の重い方、お年寄りからお願いします。動けない方の分も取り分けておいてください」

「承知しました」


 壁際ではアルノーが毛布の上に横たわっていた。

 外された鎧は脇に寄せてあるが、剣はない。占領軍に取り上げられたとマルタが言った。


 ヴァージニアは傍らに膝をつき、マルタと左腿の包帯を確かめた。


 窓の外を帝国兵の足音が過ぎていく。

 アルノーの目がそちらへ動き、毛布を握る指に力がこもった。


「……お手数をおかけします、聖女様」


 手当てを終えると、マルタが声を落とした。


「街の倉庫にも帝国兵が立っているそうです。まとまった食糧や薬を出せるのは、今は占領軍しかありません」


 この街を焼いた軍の長に、食べるものを求めに行く。

 そう考えるだけで、喉の奥が固くなった。


 部屋の隅では、リネットが椀を抱えたまま扉の方を見ている。


「司令官に会いに行きます」


 マルタの手が帳面の上で止まった。


「私もまいります。数をお伝えする者が要るでしょう」


 マルタは下働きたちを呼び、留守の配給と負傷者の見守りを頼んだ。

 話を聞いていた年配の男も、自分にできることはないかと立ち上がる。


 ヴァージニアはその人々にリネットを頼み、マルタと建物を出た。


◇


 帝国軍の司令部は、大通りに面した館に置かれていた。


 焼け跡では住民が瓦礫を掘り返し、そのそばを帝国兵の隊列が通り過ぎていく。

 顔を上げて歩くだけで、背に力が要った。


 門の衛兵に面会を申し入れると、館の前で待つよう告げられた。

 衛兵が取り次ぎに入ったあと、石段の脇にいた若い兵士が、水色の髪と白い祭服に目を留めた。


「おい、見ろよ。祈っても国ひとつ守れなかった聖女様のお出ましだ」


 兵士は仲間と笑い合い、馴れ馴れしく距離を詰めてきた。

 ヴァージニアは身を引いた。

 マルタが間に入ろうとしたとき、兵士の手がヴァージニアの肩をつかんだ。


「やめてください」


 ヴァージニアが振りほどこうとしても、兵士は構わず、ヴェールの端を引いた。

 ヴェールがずれ、水色の髪がこぼれ落ちる。


「聖女様ってのは、もっとおとなしいものかと思ってたぜ」


 次の瞬間、鈍い音がした。

 兵士が石段の下に倒れ込んだ。


 殴りつけたのは館から出てきた壮年の男だった。


「非武装の民に手を出すな。帝国軍規違反だ――連れていけ」


 副官らしい男が倒れた兵士の腕をつかみ、館の奥へ引き立てていった。


 壮年の男はヴァージニアへ向き直った。


「この王都の占領を預かる、ヴァルター・クライゼンだ。部下が非礼を働いた。指揮官として詫びる」


 ヴァルターは一度だけ頭を下げた。


「聖女殿。用件を聞こう」


 ヴァージニアはずれたヴェールを直し、息を整えた。

 昨日、商店から出てきた略奪兵も憲兵に取り押さえられていた。

 その脇を、帝国軍の列は進み続けていた。


「避難している人々のことで、お話があってまいりました」

「中で聞く」


 ヴァルターが踵を返す。

 ヴァージニアはマルタとともに石段を上った。


◇


 通されたのは、書類と台帳が積まれた一室だった。


 卓の向こうにヴァルターが座り、戻ってきた副官が扉の脇に立った。

 卓の端には台帳を抱えた男と、医療鞄を下げた男が控えている。


「軍需官と軍医だ。物資と病の話なら同席させる」


 ヴァージニアは卓の前へ進んだ。


「食糧と薬を分けていただきたいのです。それから、救護と物資の運び込みのために、街を行き来する許しと安全を」


 マルタが帳面を開き、卓へ置いた。


「私どものところに身を寄せている者の数と、残っている食糧、薬です」


 ヴァルターが帳面に目をやる。

 軍需官も身を寄せ、並んだ数字を確かめた。


「軍にも補給の限りがある。物資を無条件で渡すことはできない」


 ヴァルターは顔を上げた。


「聖女殿は、どこまでこちらの指示に従うつもりだ」


 ヴァージニアは胸の前で組んだ手に力を込めた。


「ワナキオ王国を滅ぼした帝国に、忠誠を誓うつもりはありません」


 扉の脇で副官が身じろぎした。

 ヴァルターは口元に薄い笑みを浮かべた。


「帝国への忠誠は拒むが、帝国の倉は開けろというわけか。なかなか都合のよい話だな、聖女殿」

「この街の人々が飢えているのは、帝国が攻め込んだからです」

「敗れた側には、そういう言い分もあるだろう」


 ヴァルターは椅子の背にもたれた。


「それで? 侵略者と呼ぶ相手に、何を差し出すつもりだ」

「助けを求めているのは私ではなく、今この街で飢え、傷ついている人々です。侵略を赦したわけではありません」


 ヴァージニアは言葉を継いだ。


「焼け跡には、まだ弔われていない方々が残っています。水や寝床の汚れも、そのままです。食事も取れずにいる人々の間で病が広がれば、帝国の兵だけが無事でいられるでしょうか」


 ヴァルターは黙って聞いていた。


「飢えた人々が追い詰められれば、街も荒れます。帝国軍の荷を運ぶ道も、危うくなるはずです」


 ヴァルターは軍需官から台帳を受け取った。頁を繰り、数字の並ぶ欄を指でたどる。


「どう見る」


 問われた軍医が答えた。


「市街の衛生が崩れれば、軍にも病が広がりかねません。軍の治療所だけで、街中の傷病者を引き受ける余裕はありません」


 台帳が閉じられ、乾いた音が響いた。


「いいだろう。穀物と薬、包帯を出してやる。ただし量は限られる」


 ヴァージニアが顔を上げると、ヴァルターは指先で台帳を叩いた。


「勘違いはするな。私は慈善に興味はない。疫病が我が軍に広がっては困る。お前たちが病人を減らし、飢えた民を大人しくさせてくれるなら、こちらの手間が省ける」


 ヴァージニアは唇を引き結んだ。


「……人々を、統治の道具としてお考えなのですね」


 ヴァルターは薄く笑った。


「そう呼びたければ呼ぶがいい。で、物資は必要なのだろう?」


 ヴァルターはマルタの帳面を指した。


「受け取った量と、配った先の場所と人数を記録して提出しろ。救護と運搬の通行も認めるが、搬入と通行はこちらの定める手順を守れ。求めるのはそれだけだ」

「配給の記録でしたら、以前からつけております」


 マルタが頁をめくって見せた。

 ヴァルターは一度目を落としてから、軍医を顎で示す。


「医療のことは、この者を通せ」

「条件は、お受けします」


 ヴァージニアは一礼した。

 マルタが帳面を閉じて抱え直す。


 館を出てから、ヴァージニアは握りしめていた手を開いた。

 掌には爪の跡が赤く残っていた。


◇


 帝国軍の荷車が建物の前に止まったのは、その日の夕方だった。


 麦袋と薬箱が下ろされるそばで、マルタが受け取った分を帳面へ書きつける。

 翌朝には表で炊き出しの鍋が湯気を上げていた。


 配給の知らせを聞き、大聖堂から別の通りへ散っていた人々も集まってきた。

 建物の中は負傷者と子供たちで埋まっているため、列は表の通りに沿って伸びていった。


 鍋をかき回す者がいた。

 水を汲みに行く者も、配膳や掃除を引き受ける者も現れた。

 マルタはその間を行き来し、分量と順番を差配する。


 足を引きずった老人が、椀を受け取りながらヴァージニアに頭を下げた。


「聖女様、わしは何の手伝いもできんのに……」

「どうかお気になさらず。食事はどなたにもお配りします」


 リネットも温かい粥の椀を受け取った。

 けれど、新しく誰かが列に加わるたびに顔を上げる。

 相手の顔を確かめてから、また椀へ目を戻していた。


 建物の奥の一画は施療所として整えられた。

 薬草の扱いや傷の手当てに心得のある年配の女性も加わり、マルタとともに患者の様子を確かめて回る。ヴァージニアは二人と相談しながら包帯を替え、寝床を整え、一人ずつ声をかけた。


 祭服の裾には灰と泥が残り、まくり上げた袖から出た腕に薬草の汁が付いた。


 朝と昼と夕には、建物の片隅で手を組んだ。

 祈りを結ぶと、また誰かの枕元へ戻っていった。


◇


 施療所が回り始めて数日後、担架を担いだ帝国兵が二人、建物の前に現れた。


 先頭の兵士が軍医からの書きつけを差し出す。

 王都攻めで出た負傷者のため軍の治療所は手一杯で、一人をこちらで預かってほしいという。


 担架には、見覚えのない若い兵士が横たわっていた。

 脇腹に巻かれた布は血で黒ずみ、額に汗が浮いている。

 乾いた唇の間から浅い息が漏れていた。


 施療所の話し声が途切れた。


「こちらへ運んでください」


 ヴァージニアが奥に残っていた寝床を示すと、下働きたちが兵士を担架から移した。

 負傷兵を預けた帝国兵たちは、空の担架を持って建物を出ていった。


 ヴァージニアは傍らに膝をつき、年配の女性と傷の様子を確かめた。

 布の下から血がにじみ続けている。


「新しい布を。ここを押さえておかないと」


 女性の言葉に、マルタが新しい布を差し出した。

 ヴァージニアは受け取り、傷口へ重ねた。


 そのとき、兵士がうっすらと目を開けた。


 焦点の定まらない目が、ヴァージニアの顔に向く。


「……母さん……」


 かすれた声が漏れた。


 兵士は再び目を閉じた。

 ヴァージニアは傷口を押さえる手に力を込めた。

 女性がその横で必要なものを揃え始めたとき、壁際から声が響いた。


「聖女様!」


 アルノーが左脚をかばい、壁に手をついて立ち上がっていた。


「なぜ祖国を焼き、我らの仲間を殺した敵を助けるのですか」


 寝床からも、入口からも人々の目が集まった。


「城壁で、私の部下たちは……! 我らにも足りない水と薬を、なぜその男に使うのです!」


 ヴァージニアは傷口を押さえたまま、アルノーを見上げた。


「私も、帝国の侵略を赦したわけではありません。焼かれた街も、失われた方々のことも、忘れてはいません」


 掌の下で若い兵士の体が震えた。


「それでも、目の前で命を失いかけている人を見捨てることはできません」


 アルノーの唇が動いた。

 何か言いかけて、口を閉ざす。

 彼は顔を背け、壁に手をつきながら扉へ向かった。


「アルノー様――」


 呼びかけた声に、寝床のうめき声が重なった。

 左脚を引きずる足音が遠ざかる。

 あの日、自分が巻き直した傷は、まだ癒えていなかった。


 ヴァージニアは扉から目を戻し、女性の指図どおりに布を押さえ直した。


 アルノーが近くの元王国兵たちの避難先へ移ったと聞いたのは、その日の夕方だった。


◇


 患者は日ごとに増え、水を運ぶ手が追いつかなくなっていった。


 傷を洗う水も、飲む水も、粥を煮る水も、遠くの井戸から運んでこなければならない。

 近くの共同井戸は崩れた家の瓦礫に塞がれ、ほかの井戸にも水の濁ったものがあった。

 汲んできた水を煮立てるにも、薪と人手が要る。


 施療所では、腹を下す者や熱にうなされる者が目立つようになった。

 連絡に来た軍医は寝床を見回して眉を寄せる。


「熱を出す者が、こちらでも軍でも増えています。水か、食べ物か、寝床か。原因は一つではないでしょうが、このままでは広がります」


 食糧や薪の到着も遅れがちだった。

 城門へ続く石橋の一部が崩れ、荷車は遠回りの道を通るしかなかった。

 届いた荷を下ろし終えるころには、水を運ぶ者たちがまた出ていく。


 ヴァージニアは朝から自分の食事を後回しにし、患者の手当てを続けていた。

 ある日の昼過ぎ、包帯を結ぼうとしたが、布の端が二度、三度と指先から逃げた。


「ヴァージニア様」


 マルタが傍らに立っていた。


「その手では、包帯を結ぶのも難しいでしょう」


 マルタは布を受け取って近くの女性へ渡し、温かい麦粥の入った椀を持ってきた。


「ですが、まだ――」

「包帯はあの方が。配膳は表の皆さんが引き受けてくださっています」


 椀を差し出した手は引かなかった。


「ヴァージニア様が、すべてお一人で背負う必要はないのです」


 ヴァージニアが受け取ると、マルタは患者たちの方へ戻っていった。


 壁際に腰を下ろし、粥を口へ運ぶ。

 開いた扉の向こうを、水桶を提げた人々が行き来していた。

 井戸から戻ってくる足取りは重く、桶を下ろしても、休む間は短い。


 傷を洗い、熱を冷まし、次の寝床へ向かう。

 けれど水が足りなければ、その手当ても続かない。


 直さなければならないのは、傷だけではなかった。


 椀を空にしてから、ヴァージニアはマルタを呼んだ。


「避難してきた方の中に、井戸や橋のことに詳しい方はいないでしょうか」


◇


 翌日、石工の親方がいると下働きが知らせてきた。


 ベルナール・ロシュは隣の通りの焼け残った軒下に身を寄せていた。

 白髪交じりの短い髭に、日に焼けた顔。

 がっしりした肩をすぼめるように座り、膝に置いた槌の柄を指でなぞっている。


 ヴァージニアとマルタが前に立つと、ベルナールは顔を上げた。


「聖女様が、石工に何の用だ」

「共同井戸と、城門へ続く石橋のことでご相談があります。飲み水と、物を運ぶ道が要るのです。直すことはできるでしょうか」


 ベルナールは膝の槌へ目を落とした。


「仕事場は焼けた。道具も大半を失った。だが、見ないことには何とも言えん」


 彼は槌を手に立ち上がった。


 共同井戸の口は崩れた石壁に半ば塞がれていた。

 ベルナールは縁の石組みと、隙間から見える井戸の中を確かめる。


「まず瓦礫をどけて、崩れた縁を組み直す。中の泥や瓦もさらわなければならん」


 石橋では欄干が落ち、敷石の一部が水路へ崩れていた。

 ベルナールは岸から残った石組みを見上げ、橋のたもとへ戻ってきた。


「崩れた所へ、そのまま人を乗せるのは危ない。支えの残っている箇所を確かめて木を渡せば、荷を担いで通る道は作れる。荷車は無理だ」


 ほかの井戸も見て回ったあと、ベルナールは地面に指で線を引いた。


「一度に全部は直せん。最初に使えるようにするなら、さっき見た共同井戸か、水路沿いの井戸だ」

「共同井戸の方が、施療所にも炊き出しの場にも近いです。以前も、大勢の方が並んでいました」


 ヴァージニアが言うと、マルタも頷いた。

 ベルナールは指で引いた線の一つを囲む。


「なら、そこからだ。それと橋の渡り道。生き残った職人はいるが、石も木も工具も足りん。運ぶ手立ても要る」

「それらが揃えば、作業に入れますか」

「ああ。ただし、泥をさらったあとも水の具合は見続ける。当分、飲む分は煮てからだ」


 ヴァージニアは地面の線から顔を上げた。


「お願いします、親方。必要なものを教えてください。司令官に掛け合います」


 ベルナールの指が止まった。


「……帝国に、か」


 彼はしばらく地面を見ていたが、やがて槌の柄を握り直した。


「木と石が届くなら、俺も人を集めておく」


◇


 ベルナールの見積もりは、マルタが聞き取って紙に書きつけた。

 要る石と木と工具、運ぶための手立て。

 危うい箇所と、作業にかかる日数。


 施療所を協力者たちに任せ、ヴァージニアとマルタは再び司令部を訪れた。


 ヴァルターは受け取った紙に目を通した。

 軍需官が台帳を開き、資材の欄を示す。

 ヴァルターは紙から目を上げ、ヴァージニアを見た。


「今度は木材と工具か」


 紙に並んだ項目を指先でたどり、口元を歪める。


「次は何を求めるつもりだ。王都の城壁でも建て直すか、聖女殿」

「共同井戸と、石橋の応急修復だけです。石工の親方が現地を調べました。井戸を直せば、水を遠くから運ぶ負担が減り、衛生状態の改善にもつながります。橋は荷車を通せませんが、人の手で物資を運べるようになります。帝国軍の輸送にも役立つはずです」


 ヴァルターは台帳へ目を移した。


「木材と工具は出す。石は軍が使う分を除いた残りからだ。運び込みは前と同じ手順に従え」


 それから短く付け加えた。


「人手が要るなら、住民を集めさせてもいい」

「作業する方は、親方が募ります。自ら望んで加わる方だけにお願いします。働けない方への配給も止めません」


 ヴァルターは一拍置いて、紙を卓に戻した。


「工事が進むなら、それで構わん」


 軍需官が台帳へ書き込みを始めた。

 マルタはその手元を確かめ、運び出す資材について尋ねた。


◇


 資材の届いた日から、ベルナールの指図で作業が始まった。


 生き残った石工と見習い、人夫、それに自分から手を挙げた避難民たちが共同井戸の周りへ集まった。


 瓦礫をどけ、崩れた縁の石を組み直す。

 井戸の底にたまった泥は、職人たちが桶へ詰め、縄で何度も引き上げた。

 橋の方でも、職人たちが残った石組みを確かめながら木材を渡していった。


 復旧作業はその後も続いた。


 ある日の昼下がり、ヴァージニアが井戸へ行くと、引き上げられた桶の周りに人が集まっていた。


 初めは濁っていた水が、汲み出すうちに少しずつ澄んできたという。

 ベルナールが桶をのぞき、水の匂いを確かめている。


「飲む分は、まだ煮てから使え。濁りや臭いがおかしければ、すぐに知らせるんだ」


 女たちが頷き、炊き出しの鍋へ水を運び始めた。

 ヴァージニアも桶に手を添えた。

 傾いた縁から水が少しこぼれ、石畳を濡らす。

 そばにいた子供が手を伸ばし、濡れた石畳に指を触れた。

 母親が子供を抱き留め、その指を拭ってやった。


 あの朝、焼け跡で遠くに聞いた桶の音が、今はすぐそばにあった。


 同じころ、石橋にも板の渡り道ができた。

 荷車はまだ通れない。

 それでも人々は麦袋を担ぎ、薬箱を抱えて水路の上を渡れるようになった。

 橋の向こうでは、焼け落ちた家々が黒い梁をさらしている。


 施療所では、回復してきた者が寝床を整え、配膳を手伝うようになっていた。


 炊き出しの列の端で、リネットがマルタの裾を引いた。


「……あの子、まだもらってない」


 指さす先では、リネットより小さな男の子が空の両手を握りしめて立っていた。

 マルタは粥をよそった椀を持ち、その子へ近づいていく。

 リネットはその背を見届けてから、また通りの人影へ顔を向けた。


 煮て冷ました井戸の水と食糧は、元王国兵たちの避難先へも運ばれた。


「人数を確かめて、こちらと同じように配ってください」


 ヴァージニアは運び手に頼み、桶と籠が通りへ出ていくのを見送った。


◇


 アルノーが井戸の傍らに姿を見せたのは、それから数日後だった。

 王都が落ちてから、すでに数週間が過ぎていた。


 左脚をかばい、通りの端に立っている。

 その視線が、桶を受け渡す人々から、橋を渡ってくる運び手へ移り、最後にヴァージニアのところで止まった。


 ヴァージニアは持っていた空の桶を下ろし、彼へ歩み寄った。


「アルノー様。お怪我の具合はいかがですか」

「歩くことはできるようになりました。……届けていただいた水を飲みました。どこの井戸かと尋ねたら、ここだと」

「石工の親方と、ここにいる方々が直してくださいました」


 アルノーは井戸へ目を向けた。

 引き上げられた釣瓶から、水が桶へ移されていく。

 その水を受け取る列には、年老いた者も、幼い子供を連れた母親もいた。


「帝国を赦すつもりはありません。城壁に残してきた部下たちのことも、忘れはしません」

「はい」

「施療所で帝国兵の手当てをなさったことも、納得したわけではありません」


 ヴァージニアは頷いた。


 アルノーは井戸から目を離さずに続けた。


「ですが、国が失われても、ここにはまだワナキオの民がいる。その人々を守る務めまで終わったとは思えません」


 彼はヴァージニアに向き直った。


「手を貸したいという者がほかにもおります。傷の癒えた者は荷を運べます。私にも、民を案内することならできるはずです。手伝わせていただけませんか」

「ありがとうございます、アルノー様。皆様の力を貸してください」


 アルノーは頭を下げ、橋のたもとにいるベルナールの方へ向かった。

 二人はしばらく話し、ベルナールが物資の置き場所を指した。


 ほどなく、荷を運んできた人々にアルノーが声をかけ始めた。

 重い荷は運び手に任せ、置き場所と戻る道を伝えている。

 麦袋を下ろした男が礼を言うと、アルノーは次に来る者へ向き直った。


◇


 ある朝、ヴァージニアは石造りの建物の片隅に跪いていた。


 そこには木箱を伏せた小さな祭壇があった。

 その上に蝋燭が一本灯っている。

 細い窓から差し込む朝の光には、色がない。


 鐘の音もなかった。

 代わりに表で鍋を据える音がする。

 マルタが薪の置き場所を伝え、扉の前を水桶を提げた足音が行き来していた。


 ヴァージニアは手を組んだ。


「慈しみ深き御方よ。今朝も、ここに生きる者をお守りください」


 短い祈りを結び、蝋燭の火を消す。

 扉を開けると、朝の光の中に炊き出しの湯気が立ちのぼっていた。


◇


 その日の夕暮れ、ヴァージニアは再び蝋燭に火を灯した。

 三度目の祈りの時刻だった。


 表からは作業を終えた人々の声が聞こえる。井戸の釣瓶がきしみ、誰かが子供を夕餉に呼んでいた。

 背後ではマルタが薬箱の中身を帳面と照らし合わせている。


 ヴァージニアは木箱の前に跪いた。


「慈しみ深き御方よ。戦火に倒れしすべての者に安息を、傷つき飢える者に癒やしと糧を、家族を失った幼き子らに、明日を迎える力を。敵であれ味方であれ、いずこの地にあろうとも、苦しみのうちにある――」

「聖女様!」


 扉が開き、男が一人、息を切らして駆け込んできた。


「近くの避難所で、急に倒れた者が……ひどい熱で、息も苦しそうで」


 ヴァージニアは立ち上がった。


「マルタ。薬と清潔な布をお願いします。すぐに向かいます」


 マルタは薬箱から包みを取り、布とともに籠へ収めた。

 ヴァージニアが籠を受け取ると、マルタは施療所の年配の女性へ留守を頼んだ。


 蝋燭の火を消し、ヴァージニアは男のあとについて扉を出た。すぐ後ろにマルタが続いた。


 唇が途切れた祈りの続きをたどる。


「……苦しみのうちにある人々に、安らぎを与えたまえ」


 通りには焼けた梁が残り、角には帝国兵が見張りに立っている。

 夕日が灰の積もった石畳に長い影を引いていた。


 その中を、ヴァージニアは祈りの言葉を繰り返しながら、人々のもとへ歩いていった。

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