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第1話 三度の祈り

 夜明けの鐘が、ワナキオ王国の王都に響き渡った。


 大聖堂の高い窓にはめ込まれた色硝子が、昇り始めた陽を受けて石の床に赤や青の光を落としている。

 白い石柱が連なる礼拝堂の奥、祭壇の前に聖女ヴァージニアは跪いていた。


 白を基調とした祭服の裾が床に広がり、ヴェールの下から流れる水色の髪が朝の光を受けて淡く輝いている。


「天上より我らを見守りたまう御方よ。願わくはワナキオの兵に加護を与え、邪なる刃を退け、この国に再び安らぎをもたらしたまえ」


 ヴァージニアは胸の前で組んだ手に力を込め、祈願の言葉を結んだ。


 二十四歳の彼女にとって、朝と昼と夕の三度、王国の戦勝と平和を願うことは聖女としての務めの中心だった。


 背後には侍祭のマルタ・グレインと白髭を蓄えた老神官が控えている。祈りの間、二人は静かに頭を垂れていた。


 ヴァージニアが瞼を上げると、祭壇の燭火が琥珀色の瞳に映った。

 鐘の余韻が消えていく。その静けさに別の音が混じり始めていた。


 石畳を軋ませる車輪の音。いくつもの足音。人の呼び交わす声。


「ヴァージニア様。北の街道から来た避難民が、今朝も城門へ入っております」


 マルタは茶色の髪をきっちりとまとめ、扉の方を見ていた。

 いつもなら祭儀の支度を確認している時刻だが、最近は境内に集まる人々のことで手が塞がっている。


 帝国が国境を越えて侵攻して以来、王都へ届くのは敗報ばかりだった。


 老神官が杖に重ねた手を動かした。


「お行きなさい。こちらは私が見ておきましょう」

「ありがとうございます」


 ヴァージニアは立ち上がり、マルタとともに大聖堂の扉へ向かった。


◇


 扉を出ると、人々の声がいっせいに耳へ流れ込んできた。


 城門から続く石橋の上を、家財を積んだ荷車が途切れなく渡ってくる。

 荷を背負って歩く者、老人の腕を引く者、子供を抱いた者。

 橋の下を流れる水路は普段と変わらないのに、その上を行く人の顔はみな疲れ切っていた。


 通りに面した共同井戸には長い列ができ、城門の衛兵たちは押し寄せる人々の受け入れに声を嗄らしていた。

 大聖堂の境内にもすでに多くの避難民が座り込んでいる。


「侍祭様、どうかこの子に水を……」


 埃にまみれた母親が幼い男の子を連れて駆け寄ってきた。

 子供は母親の裾を握り、俯いたまま顔を上げようとしない。


「すぐにお持ちします。あちらの回廊で休んでいてください」


 マルタは下働きたちに声をかけた。

 井戸水を運ぶ者、毛布を広げる者、パンを切り分ける者が、それぞれ持ち場へ動き始める。


 ヴァージニアは祭服の袖を肘までまくり、男の子の前に腰を落とした。


「足を見せてもらえますか」


 靴を脱がせると、踵に擦り傷ができていた。清潔な布を水で湿らせ、泥を拭い取る。男の子が身を縮めた。


「少し冷たいですよ。すぐに終わります」


 母親が背中をさすると、子供は唇を結び、黙って手当てを受けた。

 差し出された水を飲んでようやく小さく息をつく。


 ヴァージニアはその後も境内を歩き、負傷者の手当てや食糧の分配を手伝った。

 気づけば、白い袖口には土埃が付いていた。


 空になった籠を下働きへ返したところで、帳面を手にしたマルタがやって来た。


「ヴァージニア様。備蓄の減り方が予想より早くなっています」

「これだけの方が来ているのですものね」


 ヴァージニアは石橋を見やった。

 荷車の列はまだ続いている。


 一日でも早く戦争が終わってほしい。

 これ以上、家を失う人が増えないでほしい。


 そのとき、大通りから一人の王国兵が駆け込んできた。


 外套は泥に汚れ、肩で息をしている。

 王宮の伝令だった。


◇


 伝令兵は、大聖堂の控えの間へ通されても荒い呼吸を収められずにいた。


 水を一杯飲んでから、ヴァージニアとマルタ、老神官の前に膝をつく。


「王宮より、お伝えいたします。北方の防衛線が破られました。王国軍は後退を余儀なくされ、帝国軍の主力は王都へ向かっております」


 続く報告によれば、王宮が守備兵を集めて籠城の支度を進めているという。

 しかし兵の声からは、勝利を見込む力強さが失われていた。


 控えの間に沈黙が落ちる。


 マルタは帳面を閉じた。

 老神官は杖を握り直し、伝令を労って休ませるよう下働きに告げた。

 それからヴァージニアへ向き直る。


「聖女様。このような時だからこそ、祈りを絶やしてはなりません。民は鐘を聞き、あなたの祈りが続いていることを知るのです」


 杖の先が、石の床に小さく触れた。


 ヴァージニアは開いた扉の向こうに目を向けた。

 回廊には毛布を敷いた人々がおり、子供の泣き声に混じって水桶を下ろす音が聞こえてくる。


「はい。祈りを続けます。そして、ここへ来られた方々もお支えします」


 老神官は静かに頷いた。


 間もなく、正午を告げる鐘が鳴った。


◇


 二度目の祈りは、朝とは違う音の中で始まった。


 閉ざした扉の向こうでは荷車の車輪が軋み、幼い子供が泣いている。

 人の声は礼拝堂の奥まで入り込んできた。


「慈しみ深き御方よ。ワナキオの兵に勝利を、戦火を逃れる民に安らぎを与えたまえ」


 ヴァージニアは祈りながら、午前中に触れた小さな足を思い出していた。

 泥を落としたあとの赤い傷。

 水を受け取ったとき、子供が両手で椀を抱えた姿。


 祈りの形はいつもと変わらない。

 けれどその言葉の向こうに浮かぶ顔は、朝よりずっと多かった。


 祈願を終えると、マルタが帳面を持って待っていた。


「ヴァージニア様。蔵のことで、ご相談があります」


 礼拝堂脇の小部屋で、マルタは穀物や乾パンの残量を書いた頁を開いた。


「今朝まで施しに回していた食糧は、もうわずかです。蔵に残る備蓄を使っても、今の人数では長くは持ちません。全員に十分な食事を出すこともできないでしょう」


 指先で示された袋の数は、外に並ぶ人々の数に比べてあまりにも少なかった。


 窓の外でまた荷車が止まった。誰かが寝場所を尋ねている。


「蔵に残る分も開けてください」


 ヴァージニアは言った。


「ここにある食糧を、避難してきた方々にも使います。今夜食べるもののない人を、そのままにはできません」


 マルタは帳面を見下ろした。


「承知しました。ただ、一度に配り切れば明日の分がなくなります。残る日数を考えて、毎日必要な量を取り出します。子供と病人、年寄りを優先し、配給した分も記録します」

「お願いします。私にもできる仕事を教えてください」

「では、蔵から運び出した袋の数を確認していただけますか」


 ヴァージニアが頷くと、マルタは下働きたちを呼び集めた。


 まもなく蔵の扉が開き、麦袋が回廊へ運び出されていった。

 境内の人々が顔を上げ、配給を待つ列ができる。


 それでも、大聖堂の門をくぐる人の数は減らなかった。


◇


 夕暮れの鐘が鳴るころには、境内だけでは人々を収容しきれなくなっていた。


 礼拝堂の扉も開かれ、石の床に毛布や外套が敷かれている。

 朝には色硝子の光だけが落ちていた床に、今は眠る人々の影が重なっていた。


 ヴァージニアはその間を縫って祭壇へ向かった。


 水色の髪が夕日を受けて淡く染まる。

 白い祭服の裾には、朝から歩き回って付いた土が残っていた。


「慈しみ深き御方よ。戦場に倒れし者に安息を、なお剣を取る者に守護を、悲しみに沈む民と幼き子らに、明日を迎える力を与えたまえ」


 最後に、王国の勝利を願う言葉を添えた。


 背後から聞こえるのは、寝息と咳払い、衣擦れの音だった。

 祈り終えて振り返ると、何人かの避難民が彼女と同じように手を組んでいる。


 夜になっても勝報は届かなかった。


 窓の外、遠くの城壁には松明が増え、兵士たちが行き来している。

 マルタと下働きたちは配給を終え、回廊の灯りを少しずつ落としていった。


 ヴァージニアは小さな燭台を手に、人々の間を歩いた。

 眠っている子供の肩に毛布を掛け、起きたまま壁にもたれている老人に声を掛ける。

 膝を折るたび、足が重くなっていた。


「ヴァージニア様」


 マルタが椀を差し出した。

 まだ温かい麦粥が入っている。


「お食事がまだでしょう」

「あとでいただきます。それより、あちらのお子さんが――」

「そちらは私が見ます。ヴァージニア様は、まずお召し上がりください」


 マルタは燭台を受け取り、代わりに椀を手渡すと、返事を待たずに子供の方へ歩いていった。


 ヴァージニアはしばらく椀を持ったまま、その背中を見送った。

 やがて壁際に腰を下ろし、麦粥を口へ運ぶ。


 祭壇の燭火は、まだ消えていない。


 明日も朝に祈る。昼に祈り、夕にも祈る。

 そして、人々のためにできることを続ける。


 ヴァージニアは椀を両手で包んだ。


◇


 それから数日が過ぎた。


 ヴァージニアは朝昼夕の祈願を続け、合間には負傷者の手当てや配給を手伝った。

 帝国軍が王都の間近まで迫ると城門は閉ざされ、石橋を渡る難民の列も絶えた。


 代わりに、大聖堂の蔵の前には王都の住民も並ぶようになった。

 外から食糧が入らず、マルタが記録する残量は日ごとに減っていく。


 その日の午後、王国軍の騎士アルノー・セルジュが大聖堂を訪ねてきた。


 暗褐色の髪をした三十二歳の武人は、鎧の継ぎ目に泥をこびりつかせていた。

 兜を脇に抱え、ヴァージニアの前で頭を下げる。


「聖女様。王都の防衛について、ご報告がございます」


 彼は近くの避難民へ視線を走らせ、声を落とした。


「帝国軍が城壁に迫っております。我らは最後まで抗戦いたしますが、守り切れる見込みは……高くありません」


 アルノーは一度口を閉じた。

 抱えた兜に指が食い込んでいる。


「どうか聖女様だけでも、王都を離れていただきたい。危険ではありますが、今ならまだ脱出の手立てを探せます」


 ヴァージニアは礼拝堂を見渡した。

 床には傷ついた人々が横たわり、壁際では母親が子供の背を撫でていた。


「お気遣いには感謝いたします、アルノー様」


 彼女は騎士に向き直った。


「ですが、この方々を置いて私一人だけ逃げることはできません」

「聖女様が残られても、帝国軍は止まりません」

「ええ。それでも、ここにいる方々のそばで祈り、できることを続けたいのです」


 アルノーは唇を引き結んだ。

 返事はすぐにはなかった。兜を握る指に力がこもり、やがて緩む。

 彼はそれを胸元へ寄せ、深く一礼した。


「……承知いたしました。私は持ち場へ戻ります」


 その背が扉の向こうへ消えたあと、マルタが下働きたちを連れてやって来た。


「ヴァージニア様。もし火がこちらまで来た場合の避難先を確かめました」


 大聖堂から通りを一つ隔てたところに、丈夫な石造りの建物があるという。

 火を避けるにはよさそうだが、広さは足りない。


「歩けない負傷者と子供たちで、ほぼ一杯になるでしょう。ほかの方々には別の安全な場所へ離れていただくしかありません」

「道は通れますか」

「裏の路地から行けます。担架も用意しておきます」

「では、先に運ぶ方を確認しましょう。歩ける方々には逃げる道をお知らせしておいてください」


 マルタは頷き、下働きたちへ指示を出すために戻っていった。


 ヴァージニアは閉ざされた扉の向こうに耳を澄ませた。

 城壁の方から、兵の声がかすかに届いていた。


◇


 翌朝、王都への攻撃が始まった。


 最初の轟音は、大聖堂の鐘の余韻に重なった。

 遠くで石を砕くような音が続き、色硝子がわずかに震える。


 ヴァージニアは朝の祈願を結び、扉の方へ顔を向けた。


 城壁の様子はここからは見えない。

 だが角笛や叫び声が響き、やがて市民たちが礼拝堂へ駆け込んでくるようになった。


 負傷者も次々と運ばれてきた。

 肩に矢を受けた兵士、足を引きずる男、家族に支えられた老人。

 下働きたちが水と布を運び、マルタが手当ての順番を決めていく。


「こちらに寝かせてください。血が止まっていない方から」


 マルタの指示が飛ぶ中、ヴァージニアは袖をまくり上げ、渡された布を傷口へ当てた。

 押さえる手に血のぬくもりが伝わる。


 正午の鐘が鳴った。


 ヴァージニアは祭壇の前に跪いた。


「天上より我らを見守りたまう御方よ。どうかワナキオの兵を守り、この王都に――」

「ヴァージニア様! 出血のひどい方が運ばれました!」


 マルタの声が響いた。


 ヴァージニアは祈りの途中で立ち上がり、運び込まれた負傷者の傍らへ急いだ。

 胸元で組んでいた手を開き、マルタから受け取った新しい布を傷口へ重ねる。


 負傷者は苦しげに口を開いた。

 言葉にはならなかったが手を伸ばしてきたので、ヴァージニアは片方の手で握った。


 窓の外には黒煙が上がり始めている。

 城壁に近いどこかで家が燃えていた。


 祈りの続きは、まだ唇に残っていた。

 窓の外で再び轟音が響く。どれほど祈っても、傷ついた人々が運び込まれてくることは止まらなかった。

 ヴァージニアは傷口を押さえる布から手を離さなかった。


◇


 午後、王都の防衛線が破られたという知らせが届いた。


 直後、正面の扉から退却兵がなだれ込んできた。

 二人の兵士に支えられていた騎士を見て、ヴァージニアは息を呑んだ。


「アルノー様!」


 兜を失ったアルノーは、左腿を血に染めていた。

 鎧の下の傷から染みた血が、応急に巻かれた布を濡らしている。


 ヴァージニアは兵士たちに彼を壁際へ寝かせてもらい、脚の防具を緩めた。マルタとともに傷の様子を確かめ、腿の外側を裂いた傷へ新しい布を重ねて、出血を抑えるように巻き直す。


「……申し訳ありません、聖女様」


 アルノーは天井へ目を向けたまま、かすれた声を出した。


「城壁を、守れませんでした。部下たちを……あそこへ置いてきた」


 指が、敷かれた毛布を握りしめている。


「帝国の連中を、私は……赦せません」


 ヴァージニアは包帯に新しい血が滲んでいないか確かめた。

 答えようとしても、ふさわしい言葉が見つからなかった。


 外の音が変わっていた。


 城壁の方角から聞こえていた地鳴りに代わり、もっと近い通りで人々が叫び、蹄の音が響いている。


 ヴァージニアは回廊の窓へ向かった。


 大聖堂の前の通りを、市民たちが逃げていた。

 その流れと逆に、見慣れない鎧の兵士が隊列を組んで進んでくる。


 帝国軍だった。

 王都の守りは、ついに破られたのだ。


 戸口の開いた向かいの商店では、一人の帝国兵が棚から金品を奪い、袋に詰めていた。

 店先へ出たところを、軍紀を取り締まる腕章を付けた憲兵たちが取り押さえた。


 その脇を帝国軍の列が進み続ける。

 通りの向こうでは、また別の屋根から火の手が上がっていた。


 風が変わった。

 煙と火の粉が大聖堂の方へ流れてくる。


「マルタ」


 振り返ると、すでにマルタが帳面を抱えて立っていた。


「火が近づいています。準備していた場所へ、負傷者と子供たちから移しましょう」

「はい。担架を出します」

「アルノー様もお願いします。歩ける方々には、火の手から離れる道を」


 マルタは頷いて回廊へ向かった。


 戸板や担架が運ばれ、動けない人々が次々と持ち上げられていく。


◇


 大聖堂へ火が移ったのは、夕暮れを待たない時刻だった。


 近くの建物から飛んだ火の粉が屋根に燃え移り、黒煙が回廊へ流れ込んでくる。


「歩ける方は、火の手から離れた広場へ! お子様と負傷した方はこちらへ!」


 マルタと下働きたちが声を掛け合い、避難の列を動かした。

 アルノーは担架に乗せられ、子供を抱いた母親たちとともに裏の路地へ向かっていく。

 石造りの建物に入りきらない人々は、別の通りへ散っていった。


 ヴァージニアも足の悪い老人の肩を支え、子供たちを避難の列へ送り出した。


 大聖堂の扉口にはもう人がいないように見えた。


「どなたか、残っていませんか!」


 ヴァージニアは声を掛け、煙の薄い回廊の入口と柱の陰を確かめた。

 奥から答える声はない。

 煙が急に濃くなり、天井のどこかで木材が裂ける音がした。


 それ以上は進めなかった。


 身を引く前に、礼拝堂の奥へ目を向ける。


 朝には澄んだ光を落としていた色硝子が、外の炎に赤く照らされていた。

 ひときわ大きな音がして、硝子が砕ける。

 破片が白い祭壇の周りへ降り注ぎ、その向こうで垂れ幕が燃え上がった。


 毎日、あの祭壇の前に跪いてきた。


 熱い風が吹きつけ、ヴァージニアは顔を背けた。

 もう一度声を掛けても、返ってくるのは炎の音だけだった。


 彼女は扉から離れ、避難の最後の列を追った。


 路地へ入る前に振り返ると、大聖堂の屋根は炎に包まれ、鐘楼の窓から黒煙が噴き出していた。

 白い祭服には煤が付き、袖口には血と泥が残っている。


 石造りの建物へ入ると、床も壁際も負傷者と子供たちで埋まっていた。

 マルタが誰かの包帯を巻き直している。


 ヴァージニアを見ると、その手が止まった。


「……ご無事で」

「はい。見られる所は確かめてきました」


 マルタは短く頷き、再び包帯に手を戻した。


 その夜、ヴァージニアは負傷者の間で過ごした。

 水を求める人に椀を運び、熱にうなされる者の額を冷やした。

 アルノーも壁際で目を閉じていたが、眠っているのかは分からなかった。


 厚い石壁の向こうで、ときおり何かが崩れる音がした。


 夕の祈りの時刻はいつの間にか過ぎていた。


◇


 翌朝、細い窓から灰色の光が差し込んだ。


 ヴァージニアは顔を上げた。


 朝の祈願の時刻だった。

 この時刻になれば大聖堂の鐘が鳴り、その響きに合わせて祭壇の前へ進む。

 それが、幾度となく繰り返してきた一日の始まりだった。


 耳を澄ませる。


 鐘は鳴らなかった。


 聞こえるのは、負傷者の寝息と、遠くで瓦礫が崩れる音だけだった。


 ヴァージニアは建物の片隅に跪き、手を組んだ。


「慈しみ深き御方よ。今朝も、ここに生きる者をお守りください」


 短い祈りを結び、立ち上がった。

 マルタは夜を明かした負傷者の包帯を確かめている。


「マルタ。少しだけ、大聖堂を見てまいります」

「お一人でですか。外にはまだ帝国兵がおります」

「近くまでです。皆様のことをお願いします」


 マルタはしばらくヴァージニアの顔を見てから、頷いた。


「どうか、気をつけて」


 扉を出ると、見慣れた街路の半分が瓦礫に埋もれていた。

 焼け落ちた家々の梁が黒く残り、石畳には灰が積もっている。

 遠くで、誰かが人を呼んでいた。


 通りの先に大聖堂が見えた。


 屋根は失われ、白い石柱は折れ、正面の扉は焼け落ちていた。

 残った外壁の窓から、むき出しの空がのぞいている。


 ヴァージニアは足を踏み入れた。


 礼拝堂だった場所には、黒く煤けた石と色硝子の破片が散らばっていた。

 朝日を受けて床に赤や青の光を落としていた窓は、もうない。


 祭壇も石の一部が欠け、周りには焼けた木片が積もっていた。


 ヴァージニアはその前で立ち止まった。


 足元に淡い青の色硝子が落ちている。

 拾い上げると、煤に汚れた指の間で鈍く光った。

 かつて天井近くにあったものが、今は手のひらに収まっている。


 崩れた鐘楼の下には、縁の欠けた鐘が横たわっていた。


 あの鐘が朝も昼も夕も響くのを聞きながら、祈りを続けてきた。


 それでも王都は落ち、聖堂は焼けた。


 色硝子を握る指に力がこもり、縁が掌に食い込んだ。

 昨日まで人々が暮らしていた通りを、今は侵略した軍が歩いている。


 この聖堂は、自分が生まれるよりずっと前からあった。

 何代もの人々が祈り、鐘の音を聞いて暮らしてきた。

 これからもそうなのだと、疑ったことはなかった。


 王国も同じだった。


 祈りの日々が無意味だったとは思えない。

 だが、何を守れたのかと問われたら、今は答えられなかった。


 ヴァージニアは青い破片を、煤けた祭壇の上に戻した。


 風が抜け、灰が舞った。


 遠くで桶を置く音がして、瓦礫を動かす人の声が続いた。


 ヴァージニアは外壁に沿って歩き始めた。


◇


 かすかな泣き声が聞こえた。


 足を止めると、細く途切れながらも確かに続いている。


 子供の声だった。


 ヴァージニアは崩れた外壁の角を回り込んだ。

 焼けた石壁の陰に、小さな女の子が座り込んでいる。

 栗色の髪は灰にまみれ、膝を抱える手も汚れていた。


 少女が顔を上げた。涙で赤くなった茶色の目が、ヴァージニアの水色の髪に留まる。


「……聖女様?」

「ええ」


 ヴァージニアは灰の積もった地面に腰を落とし、少女と目線を合わせた。


「お名前を教えてくれますか」

「……リネット」

「リネット。ここでどうしていたのですか」

「お母さんたちを、探してるの」


 少女は焼け落ちた大聖堂を振り返った。


「火が来て、逃げて……はぐれちゃった。朝になったら大聖堂へ行けば会えると思って……」


 リネットは袖で目を擦った。


「ねえ、聖女様。お母さんたち、どこにいるの?」


 ヴァージニアは答えようとして、口を閉じた。


 この子の家族がどこにいるのか、知らない。昨日、通りを逃げていった人々の中にいたのかさえ分からなかった。


 王国を守りたいと、朝も昼も夕も祈ってきた。


 その王国は、もうない。


 目の前でリネットが小さく鼻をすすった。

 裸足の指先が、冷えた灰の上で縮こまっている。


 ヴァージニアは煤で黒くなった手を祭服の膝で拭った。

 白い布に、黒い跡が残った。


 それからリネットへ、静かに手を差し伸べた。

王国は滅び、大聖堂も灰燼と化した。

それでも、聖女ヴァージニアの祈りは終わらない。

戦火に傷ついた人々を前に、彼女が選ぶ道とは。

次回、第2話「祈りの行方」

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