渋々の旅立ち
ハイジャの森の奥深く。
そこには竜が住んでいる。
深く、深く眠り続ける。
竜がそこに住んでいる。
この国の守り神。
決して起こしてはいけないよ。
竜は繁栄を齎すもの。
その逆もまた然り。
ご機嫌に口ずさむ、男の長い白髪にルーイは指を通した。適当に扱っていても傷みがないのは種族の特徴だろう。絡むことも殆どないそれを、三つ編みにしていく。
下ろせば背中を覆うほどの長さがある髪だ。そのままでは何かと邪魔になると思うのだが、本人は面倒くさがってまとめようともしないのだ。
そもそも生活能力自体が低かった。それもまた種族故、なのだろうけれど。時おり年下の子の面倒を見ている気にもなる。彼の白い髪を、彼のリクエスト通りゆるめに、けれど簡単にほつれないよう丁寧に、半ばまで編み進めたところでアルノルトは振り向いた。
「まだ動かないでください、ルトさま」
うん、と生返事。手元の手紙の宛先を何度も確かめ、落ち込むその声はやはり小さな子どものようである。
「やっぱり、来てないね」
「あの人のことだから忘れてるのかもしれませんよ」
「なら、いいんだけど」
言いつつ、心配性はもう待ちきれないのだろう。二通目の、催促の手紙を書き出しそうな横顔に肩をすくめた。
数年前ハイジャの森から旅立って行った兄弟子ヴェルナーは、元よりマメな性格ではない方だ。実際、始めこそ頻繁に送られてきた手紙も、年を経るにつれ一年に一度とその数を減らしていた。忘れていたとしてもなんら不思議ではないだろう。
そう自分なら思うのだけれど、どうにもアルノルトは違うらしかった。
「ねぇルーイ。ちょっと様子を見てきてくれないかな」
多分に不安を滲ませた声で、そう頼んできたのだ。
「ちょっとって、ヴェル兄が今どこに住んでいるのか覚えてます? 行くだけで……たぶん二週間はかかりますよ」
確か最後に貰った手紙にはカラベラの町にいると書いてあったはずである。記憶が正しければ、ここハイジャの森とは真反対の、国境付近の村の名だ。思い立ってすぐに行こうと思うような距離ではない。
「それに、まだその村に居るとは限らないじゃないですか」
言外に行きたくないと含んだ反論は、あっさりと返された。
「それは大丈夫。前の手紙に、結婚して、子どもが生まれるって書いてあったでしょ。だからまだいるはずだよ」
あぁ。そんな事も書いてあったかと記憶がよみがえる。相手の顔も知らないからか、ルーイの中では未だにヴェルナーと結婚がうまく結びつかずにいるのだ。
「んー。飛べばすぐなんだけどねぇ。ルイには翼、生えてないんだっけ」
のんびりとした口調はいつも通り簡単に無茶を言ってのける。
「残念ながら僕は人間なので空は飛べません。魔力で飛んでいくくらいなら歩いた方がマシですし、行ったことのない土地へは転移もできません」
それでもなお食い下がるルーイに、そうだねぇと、束ね終えた三つ編みは頭の傾きと共に背中を滑った。残念ながら、それが考えているフリだろうことは長年の付き合いで分かっている。
「じゃあ旅支度はしっかりしないとだね」
「本気ですか?」
一応と最後の抵抗をしてみせたのはちょっとした愚痴の代わりだ。森の外へ出ることの恐怖心も混ざっているだろう。簡単に言ってくれるな。心の中で石を蹴り跳ばした。
「ネールが約束を違える子じゃないのはお前も知っているだろう。ルーイ、いい子だから頼まれてくれないかい。この森から出られない、私の代わりに」
それでも嫌だとは言えないのは、師自らが行けないその理由を知っているからである。
ハイジャの森の奥の奥、そこには古い竜が住んでいる。
この国に住んでいれば一度は耳にする昔話。かつての女王ツィリィと竜の恋物語の終わりには、女王の墓標を守るようにして竜は深い眠りについたのだと記されている。
ほとんどはその通りだと、金色の双眸を柔らかに細めてアルノルトは語った。自分がその竜なのだと告げた表情は、愛しい者を思う時のそれである。
ならば物語の通り彼女の墓標を守るためにここに居るのかと問えば、それには否が返された。曰く彼女との約束なのだと言う。さも嬉しそうなその顔に、ならば角が折れているのもそれが理由かと重ねて訊いたこともあるが、どうやらそれは別の話らしい。
実際これまでに、彼が竜となっている姿を見たことはなかった。けれどどこまでも気位高く、清廉な魔力は人が持つようなものではない。
おそらくは、古代竜。それがアルノルトの正体であった。
しかしルーイにとっては親代わりの、少し手の焼ける大人である。今だって、ルーイが彼の頼みを無下にできないことを分かってねだっているのだ。
だからこちらも分かりやすく、ため息をついてみせる。
「分かりました。行ってきますよ」
「うん、ありがとう」
「その代わり、あなたの加護をください。旅慣れない子どもが無事に帰ってこれるように」
しぶしぶといった態度になってしまったのは、初めての旅に赴く心細さが原因だった。普段はもう成人したと大人ぶるクセにと羞恥は耳許で囁いた。その声に、赤くなった頬は唇を引き結ぶ。
「あぁもちろんだよ」
逆に笑みをほころばせたのはアルノルト。昔のように優しくルーイを抱き寄せ、その額にキスをひとつ。
「気をつけて、行ってきなさい」
優しい声音にひとつ頷いた青年は、初めての旅路へとその一歩目を踏み出したのだった。




