8
ルカが戻ってきたのは翌日の夕暮れだった。
それまで久しぶりにソニアはアマルテとミーリアと過ごし。
夜は酒を飲んで歌を歌ったり近況を報告し合ったりした。
奇妙なことに自分への縁談はまだ引きも切らず届いているらしく。
漸くこれで返書を返さずに済む、とアマルテが言うのでソニアは言いようのない気持ちになって目を逸らした。
「ミーリア、なんでそんなに気合を入れてるんだ」
「いま入れないでいつ入れるの。あなたは自覚ないと思うけど今日は人生が変わる日なのよ。いやー帰ってきてくれてよかったわ。そうじゃないとあなた、普段着に化粧どころか泥でもつけて陛下に気持ちを伝えたでしょう!」
ルカを迎えに行くアマルテを、ソニアは自室から見送った。
ちなみに昨日磨き上げられたばかりなのに、昼過ぎからミーリアに浴室に監禁され、いまは化粧だの着替えだのを済ましてようやく一息ついているところだ。
鏡の中には女王として君臨していた頃を思わせる自分が居るけれど。この半年でいろいろあったからだろう。
そう変わっていないはずなのに佇まいだろうか、眼差しだろうか……もしかすると自由を満喫して恋を知ったからかもしれないけれど。鏡の中の自分は以前より柔らかい表情をしているように思えた。
「我ながら完璧だわ。でも陛下はこの部屋に駆けてくるだろうから……うん、そうね……ソニア、あなた、動いている時が一番魅力的だからいまから正面玄関に向かって走りなさい。その勢いで陛下に想いを伝えなさいよ。あなたは勢いで動くときが一番いいんだから」
急にそんなことを言われて腰を遠慮のない力でぺしんとはたかれる。
「えぇー……?」
よくわからない、理不尽なところは相変わらずだ、と思いながら。
ソニアはミーリアの言葉に従って部屋を出た。
走れと言われたけれどルカがもうこちらに向かっているのだから走る理由なんてないだろう、と思っていたのに。
爪先で絨毯を蹴った途端、まるで箍が外れたようにソニアは駆けだしていた。
走る度、髪に飾られた歩容が涼しげな音を立て、アマルテとミーリアがあれでもないこれでもないと選んだ豪奢な衣装の裾がソニアを追いかけるように翻った。
走りにくい華奢な靴をもどかしく思って。曲がり角を曲がる度、正面玄関が遠い、なんて理不尽なことを考えて初めて……自分がルカに会いたいから走っていることを自覚した。
鍛えているから少し走っても息が切れることなんてないし、体が熱くなることなんてないのに、その事に気づいた途端、頬が熱くなる。
今になって、ミーリアとアマルテに感謝した。
ずっと自分は、ただ想いを伝えればいいと思っていた。
それは勿論、不正解ではないけれど。
ミーリアはきっと……こんなにも待って、我慢してくれていたルカをさらに喜ばせたかったのだろう。
そしていろいろと思い至らない自分がいろいろと気づいた後に、後悔しないようにしてくれた。
だから……思う限り、完璧な状態でルカに想いを伝えられる。
半年以上離れていても肌に馴染む王宮の空気。
アマルテが人払いをしたのだろう。
不思議なほどに人が居ない。
ソニアは階段の上から下へ、飛び……庭園を臨める回廊の端から、どうやら自分と同じように走ってきたらしい、ルカがこちらを見つめて動きを止めるのを見た。
遠いけれど視線が絡むのがわかって。見つめ合ったことはこれまで何度もあるはずなのに、これまでと何かが違う、その変化がわかってしまうことは気恥ずかしさに拍車をかけた。
駆け寄りたいのに、何故か、逃げたい気持ちも湧いてきて。
訳が分からないままソニアは踵を返してルカから逃げた。
「ソニア!」
後ろからルカが呼ぶ声が聞こえる。
本気で逃げようと思えば、逃げられるけれど……逃げられないような、逃げたくないような……自分の気持ちも行動もめちゃくちゃだ。
だからソニアは回廊を出て柱の陰に隠れた。
こんな無駄に隠れるなんてこと……森で狼に遭遇してもしたことがない。
意味が分からないまま隠れてしまってから熱い血がうるさい鼓動と共に全身をめぐって、身体が熱く、頬が熱くなっていく。
間違いなく自分は馬鹿になっている……いいや、馬鹿になるほどに恋をしている。
そう、思っている間にもルカが駆け寄る音がして、衣擦れの音が近づいてくる。
王宮から森へ野放図に逃げても追いかけてくるルカだ。
当然、回廊から足を踏み出したルカは壁面を見つめてから視線を下げ、当然のようにソニアを見つける。
会わなくなってそう時間が経っているわけではないのに、王としての正装をしているからだろう。
ルカをもう、少年だとは思えなかった。
一日最後の陽光に、ルカの淡い金の髪が輝く。
男らしく整った顔には輝かしい微笑みを浮かべて……思いの外、強い力でルカはソニアの手首を掴んで柱の陰から日向に引き寄せ。包み込むように抱きしめた。
視線を交わして、短い逃走劇を終えただけで想いは伝わった気がしたけれど。言葉は大切だと思ったソニアは浅く息を吸った。
「ルカ……」
名を呼ぶと微笑んだままのルカが無言のままこちらを見つめてくる。
「遅くなってすまない……私もちゃんとルカが好きだよ。君が特別で、大切で……この手で生涯、誰よりも幸せにしたいと思っている」
用意していた言葉はするりと零れた。
思ったより格好のつかない状況で。いま自分がどんな顔をしているのかもわかっていないけれど、ルカには過たず伝わったのだろう。
包みこむように抱きしめるルカの腕に力が籠って。吐息が混ざるような距離で視線が絡む。
あ、と思って顔を上げるとそのまま呼吸をする前に唇が重なって。
初めて唇で感じる何でもないはずの柔らかい体温に、鼓動が高鳴った。
「何か、言ってくれ」
お互いの唇の熱が均される程度の短い時間、触れ合って離れた後もルカはただ、甘く蕩けるような笑みを浮かべたまま無言で。とうとうソニアは羞恥に負けて声をあげた。
「ごめん、幸せすぎて何も言葉が見つからない……嬉しいよ、ソニア」
「うん……そうだよな……」
気のせいかルカの眼が潤んでいる気がして。本当に待たせたし我慢させたな、と思いながらソニアはそっと伸びあがって再び唇を重ねた。
宥めたいと思ったのと、可愛いと思った。そんな軽々しい気分で仕掛けたくちづけの代償は、思ったよりも高くついた。
気づけば腰を抱かれていて。普段着とは違う、薄い布越しに肌を撫でられる感覚にソニアは思わず内心、服選びをしたミーリアとアマルテの名を叫んだけれど……そんな余裕もなくなって、初めての息継ぎが必要なくちづけに翻弄されることになった。
ルカがどこでそんなくちづけを覚えたのか、ちょっと気になって嫉妬したのは秘密だ。
それまでは……まぁ、まだよかったのだ。
問題は食事にしようとルカに誘われて大広間に入った時だった。
甘ったるい気分を引きずったままで、ルカのエスコートを嫌がらなかったことを考えると、自分もかなり浮かれていた。
そんなこんなで大広間に入った途端、万雷の拍手と祝福の声に迎えられて。ソニアは初めて、人は羞恥で死ねるのかもしれないと思った。
王宮に人が居ないと思っていたけれどさもありなん。
皆、大広間に集まっていただけだった。
回廊の短い逃走劇を見られていなかったことが救いか、と思っているとミーリアとアマルテの満面の笑みにかちあって、ソニアはすべてを察した。
今すぐ逃げたい気持ちでいっぱいだったけれど。大広間の真ん中に運び込まれた捌きたての牛の肉を見たら些末なことはすべてどうでもよくなった。
毒殺を警戒する侍従は渋い顔をしていたけれど目に入らなかった。
リュシテール王国において牛は貴重だ。
野生種はいないので外国から買う必要があり、畜産も行われているが大半は農業用として大切に飼育され、年老いたら肉となり皆の糧となる。
故によほど気性の荒い牛でなければ食用としては出回らないが、農業用として代々飼育されている牛なので気性の荒い牛など稀だ。
そして今ここに運び込まれた牛は、大きさや肉質を鑑みるに、牛は牛でも若い牛だ……
ソニアは喜び勇んでナイフ片手に解体に参加しようとしてミーリアに羽交い絞めにされ。そんな様をルカが笑いながら見ていた。
物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございます!
DLsiteに18禁を含めた作品がありますので
興味のある18歳以上の方はお付き合いいただけると幸いです




