三十八、ある意味けんちん汁
「……へっ?」
間の抜けた私の声とともに、ぐぅ、と情けなく鳴るのは腹の虫。
だってしょうがない、目の前に差し出されたのはホコホコ湯気を立てるカレーだったのだから……(※肉なしなのは一旦置いといて)。
そう、この際具がなくたって構わない。食欲をそそるのはなんといっても、真っ白いご飯粒の上に贅沢に寝かせられた茶色いルーなのだ。つんとスパイスの効いた香りの中にほんのり蜂蜜やりんごが混じっているなんて、あまりにも罪深すぎではないか。
「おやまあ、かわいいお稲荷さんだこと」
妙齢の女性はカレーを片手に、人の好さそうな笑顔でコタローを見下ろしている。すると調子に乗ったのか、コタローは女性の割烹着にせっせとにじりのぼると、白い皿の縁に飛散したであろうルーを、遠慮なくペロリと舐め取ってしまった。
「んま~いっっっ!」たちまち幸せそうに両頬を覆い尽くすコタロー。
「あらあら、気に入ってくれたの」
「ちょ、コラっ」女性からコタローを引っぺがし、深々とお辞儀する。
失礼な行動を保護者らしくたしなめたはいいものの。
さっきから私の口からよだれが垂れていることなど、コタローも女性もお見通しのようだった。
女性は、柔らかく口角を上げている。
「なんだい、二人してお腹が空いていたのかい。そういうことなら、試作品で申し訳ないけど、召し上がってもらいましょうかねぇ。そうねぇ、たくさん作ったんだからねぇ」
女性は腰を折り曲げながら、ひとりごとを言うように店内へと溶け込んでいく。ついておいで、と言ってくれているようだった。
そう広くない店内にはカウンター席とお座敷、それと厨房には大きな鍋がひとつ。カレーの匂いが、さらに濃くなったような気がした。
「準備をするから、ちょっとそこのお新香でも食べてゆっくりしててねえ」
「は、はあ、あの、本当にお構いなくで……」
「さあさ、遠慮しないで座った座った」言われるがまま、私とコタローはカウンター席に座らされる。
――不思議だ。見かけこそ若々しいのに、穏やかな口ぶりからして、なんだか田舎のおばあちゃんと話しているような懐かしい気分にさせられる。
ふいに横を見やると、コタローはいただきますの挨拶もしないで、色とりどりの漬物にがっついているところだった。
「わ、しば漬けみたいなのもある」
「この、むらさきの? こっちもコリコリしておいしい!」
ラスト一つ。口周りに付いた塩気を名残惜しむかのように、コタローはぐるりと舌を一周させる。
思わず、ふっと笑ってしまう。どんだけ食欲旺盛なんだ。まあ、私とて人のことは言えないんだけど。
「はぁ、しょっぱみがあって、おいしかったなあ……」
なぜかコタローが、私のほうをチラチラ見てくる。なぜか分からないが嫌な予感がする。
そうこうしているうちに、コタローはちゃっかり私に出されたものにも手をつけようとしてきたので、漬物を死守するべく大急ぎでかき込んでしまった。そのせいか、肝心の味がほとんど分からなかった。
お、おのれ……。
「はい、おまちどうさん」
今にも血涙を流しそうな哀れな私の前に置かれたカレー。
「ふふふ。せっかくだから、シェフ・常子の気まぐれとでも命名しようかしらねえ」
さっき見た時よりこんもりと盛られた白米の上に、ふんだんにかけられたルーがたまらなく、たまらなく……ええい、もう待ちきれない!
……すごい、すごすぎる。一口食べただけで、頭の中でゴキゲンなマハラジャが流れ出した。
最初はもう一口、さらに一口とゆっくり噛みしめるようにご馳走へと手を伸ばしていたものの、気づけば私はコタローと早食い競争のように、躍起となってカレーを口に運び込んでいたのだった。
それぞれおかわりまでご所望した私たちは、それも一気に平らげてしまった後で、多幸感に包まれながらも真剣な面持ちで顔を見合わせた。
「提案があるんですけど」スッと、私は姿勢よく手を挙げる。
「今すぐ現世に行ってカレーチェーン店の食品サンプルを見に行きませんか。すみません、いきなりこんなこと言われても、なにがなんだか分からないとは思うんですが」
案の定、常子さんはきょとんとしている。突拍子もない話だし、無理もなかった。
それでも私はプレゼンを意識して、畳み掛ける。
「不思議なことに、現世で食べ物の“形”を見かけたら、なぜかそれが食べられるんです。ということは、もしかしたら“形”自体をテイクアウトすることも夢じゃないかもしれない……」
コタローが、計画に賛同するように目をキラキラ輝かせた。
こほん、と、私は一息。
「もちろん、伝手ならあります。常子さんは肉が欲しい。私とコタローは肉ありカレーが食べたい」
ええと、と常子さん。
「よく分からないけど、もう一度、生きていた頃に戻れば、肉が買えるようになるのかい?」
「ううん、そういうわけではないんですけど、なんて言ったらいいのかな……」
「ここからとび出して、ちょこっとだけ、おそとの世界にいくの!」
「そう、それ!」
ナイスアシスト、コタロー。ふさふさの尻尾を、私は思い切りくすぐってやった。
「ここは一つ、利害の一致ということで……行きましょう、現世!」まっすぐ手を伸ばす、が。
「現世に行くだと? それは聞き捨てならないな」
突如、物陰からぬっと現れた人物――、その名も――。
「お、雄心誉⁉ いいいいつからそこに……っ!」
驚きのあまり、私は勢いよく椅子ごと横転してしまった。
動揺する私をよそに、雄心誉は、吊り上がった眉毛をさらに吊り上がらせ、偉そうにフン、と鼻を鳴らして言ってみせる。
「貴様が“ああ、タンパク質が恋しい――”などとのたまったあたりからだ」
いや、それほとんど最初からじゃん……! 当たり前のように尾行されてたってこと? 怖っ!
「ははあ――、へ、兵隊さん?」
常子さんは雄心誉の頭のてっぺんからつま先に至るまでを凝視しては、ひれ伏すように頭を下げている。
「驚かせてすまない、ご婦人。どうか頭を上げてくれ」
雄心誉は、私の前とはまるで人が変わったように気遣わしげに常子さんを見つめる。
「いえいえ、しかし、凛々しいですねえ。お召し物も立派でいらっしゃる。……やだ。それに、よく見ると私の初恋の人にそっくりだわ」
常子さんは、信じられない、といったふうに、感動で声と肩とを震わせている。
人から褒められることに慣れていないのか、雄心誉は若干気恥ずかしそうに、笑うでもなく、反論するでもなくただ口を真一文字に引き結んでいた。
「......いいか、狩野虎美。これは再度通告だ」
雄心誉はついに観念したように、静かにこちらへ耳打ちしてくる。
「この俺が監視している以上、規則は遵守してもらう。現世になど決して行かせまい」
くぎを刺すようにぎろりと睨まれるが、変なものでさっきのやり取りを踏まえると、それがただの強がりとか照れ隠しの類にしか見えなかった。
例えばそうだ、威厳ある姿を必死に取り繕っているというか……。
「貴様、今なにか余計なことを考えていたのではあるまいな?」
ぎくり。
「いいえ、これっぽっちも。まったく」
ロボットのように告げると雄心誉はもう一度鼻を鳴らし、出口へ向かって踵を返す。
「とにかく、俺たちはいつでも貴様らを見ているからな。ゆめゆめ忘れてくれるなよ」
「はあい」コタローも、「はあい」
ややあって、厨房から常子さんが残念そうに顔をのぞかせる。
「あらぁ、ゆっくりしていけばいいものを、もう行ってしまわれたの? 兵隊さんにもカレー、味見してもらおうと思ったのに」
......あの人多分陸軍出身だからカレー毛嫌いしてそうですよとは、さすがの私でも言わなかった。
***
屯所に帰ってきてから、今日あった出来事を沖田さんにもかいつまんで話してみせた。いつものようにそこらじゅうに線香の匂いは充満しているが、カレーの印象のおかげで、今日ばかりは仏壇とおさらばできそうだ。
「へえ、そんなことが……僕もかれー、食べてみたかったなあ」ちゃぶ台を挟んで、興味深そうにうんうん頷く沖田さん。
沖田さんはやはりというべきか、カレーの味を知らないようだった。
だけど、けんちん汁を辛くしたらカレーに近くなると言ったらそれなりに理解してくれたようで。
「常子さんは、肉や魚が欲しかったんですよね? ああけど、困ったなあ。あいにく、しゃんばらに生者はこれっぽっちもいないんです。それは豚も鶏も、あるいは鯛も同じなんですよねえ」
「それじゃあやっぱり、雄心誉たちには見つからないようにこっそり現世へ――」
沖田さんはじっくり、考えている。
「たしかに、常子さんの試みも気になるところですし……よし、決めました」
私とコタローは、続く言葉に胸を高鳴らせた。
もったいぶったように、カッと、沖田さんの目が見開かれる。
「みんなで仲良く――、しゃんばらにある物だけで! お料理対決といきましょうか!」
「「えっ!?」」




