コロネリア
スペイン兵が撤退していった後の『ムーア城』は片田商店軍が支配した。
多連装噴進砲(MLRS)二十輌が『港』地区北側の縦深陣地上に並べられる。スペイン本土から来るであろう軍に対する備えだった。
測量隊が上陸し、現在の港と、新港候補地を調べ始める。ここは片田商店の地中海と北大西洋進出の一大拠点になる予定だった。
ジブラルタルの住民の仕事は、ほぼ『ムーア城』を維持することだった。城に食料や水、燃料などを供給していた。
彼らは城の主人が代わっても、仕事を続けようとした。
ここからは、先の事になるが、やはり言葉が通じないというのは不便で、やがて徐々にスペイン人が減っていく。
彼らに代わって、日本人やカレクト人が入ってくることになるだろう。
特に『第二軍』が上陸した東側の砂浜はカレクト人が誇りとし、そこに彼らの村が出来ることになる。そして、その村は将来『カレクト・ベイ』と呼ばれるようになるはずだ。
スペイン側の話をする。
カスティーリャ摂政のフェルナンドが、カタルーニャから六千の兵を割いてジブラルタルに送った。
将軍はゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバだった。
ゴンサロ・デ・コルドバは、日本ではあまり有名ではないが、ヨーロッパでは有名らしい。ChatGPTさんによると、『歴史上の名将二十人の中に入る』そうだ。
ゴンサロは、その名前のとおり、コルドバに近いモンティーリャという町で生まれる。父は伯爵であったが、ゴンサロが幼い時になくなり、一時教会に入るなど、苦労した。
宮廷に出仕してからはイサベル一世に仕え、徴用されるようになった。
第一次イタリア戦争が始まり、フランスがイタリアに入ると、ゴンサロはイタリアに派遣される。
当時のフランス軍の編制は、重装騎兵、長槍兵、砲兵というものだった。
砲兵が敵陣を荒らし、重装騎兵がそこに突入し、敵より長い槍を持った長槍兵が槍を構えて前進する、という方法だ。
長槍兵はスイス人傭兵だったといわれている。四.五メートルから六メートルもの長い槍を持って敵陣に突入した。
まるで、織田信長の三間槍、三間半槍のようである。こちらは一間一.八メートルとして、五.四から六.三メートルだ。
対するスペイン兵は騎兵と歩兵、弓兵だった。騎兵はフランス程の重装備ではないが、その代わり、軽快だった。歩兵は片手剣と片手盾を持って戦う。乱戦向きの装備だった。
弓兵の主力はクロスボウで火縄銃の数はまだ少なかった。
この両者が対峙し、緒戦はゴンサロの敗北であった。『セミナラの戦い』という。
ゴンサロはスペインからの援軍を待つ間に、ゲリラ戦を展開する。
一方でゴンサロは軍の編制を変更した。片手剣を止めて長い槍を持たせる。長さは三から四メートル程と、スイス人傭兵よりは短い。
槍兵の集団で横長の長方形を作り、周囲を火縄銃兵で囲んだ。
『コロネリア』という、後に『テルシオ』と呼ばれる陣の原型だった。
さらにスペインに工兵という兵種があった。スペインのアンダルシア地方でのレコンキスタでは地形が険しい戦場があったので、工兵が発達したのだそうだ。
ゴンサロは槍兵集団の周りに塹壕を掘り、その溝に火縄銃兵を配置した。火縄銃兵の前に土塁も築いた。
『野戦築城』というものだ。スペイン兵の陣地が即席の城塞になる。
『コロネリア』とは『大佐の率いる部隊』という意味だ。約千人から千五百人の規模になる。大佐級の指揮官が総軍司令の指示のもとに、独立的に戦う軍だった。
『コロネリア』は大佐の指揮の元に戦場を移動し、停止すればそこに塹壕を掘って臨時の城塞を作る。という近代的な軍隊になった。
彼らの野戦城を守るのは、城壁ではなく塹壕と土塁、それに火縄銃による遠隔攻撃だった。
近代野戦では、これに鉄条網・機関銃座などが加わるが、基本はゴンサロ・デ・コルドバが考案した。
遥か以前に、小山七郎さんが不思議がっていた『塹壕』というものを野戦に適用したのがゴンサロ・デ・コルドバと言ってもいいかもしれない。
ゴンサロが考案した『コロネリア』は『第一次イタリア戦争』には間に合わなかったが、『第二次イタリア戦争』で、その真価を発揮した。
一五〇三年四月二十一日の『チェリニョーラの戦い』である。フランス軍は重装騎兵の集団突入でスペイン陣を圧倒しようとしたが、土塁と塹壕に馬が阻まれる。
そこに火縄銃兵が騎兵を斉射し、突撃が失敗に終わる。
フランス側はさらにスイス人槍兵を三度にわたり突撃させるが、三度とも失敗し、スイス兵の指揮官も戦死してしまう。
多数の戦死者を出したフランス側が撤退を始めると、スペイン軍はこれに騎兵を投入し、ついにフランス軍司令官ルイ・ダルマニャックも戦死してしまう。
フランス軍の損失二千から四千名、対するスペインの損害は百から五百名ほどだったという。
ゴンサロの『コロネリア』、さらにそれを発展させた『テルシオ』は百三十年ほどの期間、無敵を誇った。
このスペイン方陣を最初に破ったのは、おそらくスウェーデンのグスタフ・アドルフであろう。
彼は歩兵、騎兵、砲兵を組み合わせて運用し、銃歩兵については『漸進斉射戦術』というものを考案した。
最前列の歩兵が銃を一斉射撃すると、後ろの歩兵が前進し、さらに一斉射撃を加える、ということを繰り返す。
最初の列の兵はその場に留まり弾込めを行い、装填できたら前進する。これを繰り返すというやり方だ。『長篠の合戦』における織田軍の『三段撃ち』の漸進版のようである。
こうなると、方陣の槍兵は塹壕に入っていないので、やられるがままになる。
そして、歩兵が敵陣に接近したところで、一斉突撃を行い、敵陣を壊滅させる。
グスタフは一六三一年の『ブライテンフェルトの戦い』において、この方法で『テルシオ』を破った。
『テルシオ』の守備戦における槍兵の役割は、接近してきた敵兵から火縄銃兵を守ることにある。しかし、攻撃側が大量の銃を持つようになると、槍兵の被害が増えて来た。
そこで銃兵が自らを守るために、『銃剣』というものを装備し、守備戦での槍兵の役割が無くなる。
全員が銃兵となり、塹壕に隠れるようになった。
さらに、『一斉突撃』を鎮圧するために機関銃というものが十九世紀に発明された。機関銃が威力を発揮した例として『日露戦争』の『二〇三高地』戦がある。
この機関銃を無力化するために、『第一次世界大戦』のイギリスが戦車を発明する。
戦車に対抗するには戦車だろう、ということで『第二次世界大戦』では強力な砲を備えた戦車同士が戦う。『クルスクの戦い』は大戦車戦だった。ドイツが三千輌、ソ連が五千輌をもって戦った。
戦後には、戦場で歩兵が戦車に対抗するために、対戦車ロケットが発明される。旧ソ連のRPG-7が有名で、紛争地の映像などによく出てくる。
という具合に野戦が変化してきた。
あんまり世間話ばかりすると、怒られそうなので、余分なところは『あとがき』に簡単に書いてみました。




