レヴァンテ (東風)
魚雷艇に残してきた装備を回収する兵を送り出した後、石出の藤次郎がザ・ロックを見上げた。
石灰岩の巨大な岩山が月の光を反射して銀色に輝いている。
現在のザ・ロック西側斜面は樹木が茂っている。しかし、当時は樹木が少なかったと思われる。なぜなら、燃料としての樹木が必要だからだ。
現在、西側斜面に生えている松、オリーブ、ユーカリなどは十八世紀以降の植林の結果だろう。
また、ムーア城の周辺には、今でこそ住宅やマンションのようなものがたくさん建っているが、当時はこれらの建造物はなかった。防衛施設だったので、草すらも刈り込まれていたにちがいない。
でなければ、敵兵が城のすぐ側まで、知られずに接近できてしまう。おそらく城の周囲は見晴らしのよい状態になっていたはずだ。
藤次郎の前には、幅二百メートルほどの市街地が横たわっている。右手が山で、左手が海だった。現在のジブラルタルはかなり海が埋め立てられているが、当時の市街の幅は、この程度だった。
だいたい、現在市街を南北に走る『ライン・ウォール・ロード』より西側は海だった。
市街の向こう側、中腹あたりに、黒くムーア城が浮かんでいる。
周囲が暗くなってくる。市街が闇に沈む。どうしたのだろう、と藤次郎が夜空を見上げると、岩山の頂あたりに雲がかかり始めていた。
「曇るのか、めんどうだな」藤次郎が小隊長に言った。散田の護丸が小隊長になっていた。『第一軍』の副長も務めている。
「通信兵を呼びますか」
「ああ、そうしてくれ」
通信兵がやってくる。背中に通信機と鉛電池を背負っている。
「『金剛』に通信だ」藤次郎が言った。
通信兵が『金剛』を呼び、送受話器を藤次郎に渡す。
「『金剛』か、こちら『第一軍』石出の藤次郎だ」
「こちら、『金剛』の二番通信員です」
「『甲』地点上空に雲が広がって来た。朝にかけて、霧になるかもしれない。そちらからも確認してほしい」
「『甲』地点上空に雲、朝にかけて霧のおそれ、ですね。了解しました。そちらの作戦に支障が出そうですか、どうぞ」
「いや、いまのところは、そこまでではない。視程は数キロメートル以上ある。作戦上の支障はない。状況が変わったら、また連絡する。以上だ」
「了解です。通信を終了します」
藤次郎が西に傾く月を見る。今夜は満月だったので、月の位置で大体の時刻がわかる。月が真南なら午前零時、水平線に沈む時が午前六時だ。
“午前五時頃か”藤次郎が思った。夜明けは六時過ぎくらいのはずだ。
時が過ぎるとともに、月が水平線に近づく。それを追いかけるように灰色の雲が高度を下げてきて、ムーア城にかかりそうになる。
藤次郎がもう一度無線を使い、そのことを『金剛』に知らせる。
数時間後に、湾内の第一戦隊がムーア城を迫撃砲で攻撃することになっている。雲がかかっていては、攻撃できない。作戦に関わることだからだ。
彼らは知らなかったが、ジブラルタルでは、よく見られる気象だった。地元で『レヴァンテ』と呼ばれている。『東風』という意味だ。
東側の地中海の大気は温かい。西の大西洋は南下する寒流の影響で比較的冷涼だった。そこに東風が吹いてジブラルタル・ロックにあたると高度が増して冷やされ、水蒸気が凝結する。岩山を越すと、こんどは冷涼な気温により、さらに凝結度を増し、山肌を急速に駆け下る。
とくに春によく現れる現象だった。
ムーア城の天守に雲がかかったころに、城の脇にひとつ、火が灯った。
「『第二軍』が城にとりついたのでしょうか、それにしては少し早いですね」小隊長の護丸が藤次郎に言った。
「もしかしたら、『第二軍』が敵に発見されたのかもしれない。一応『金剛』に報告しておいてくれ。それと、『ムーア城』が霧の中に入ったこともだ」藤次郎が通信兵に言った。
命令をしている間に、城が霧の中に沈んだ。これで霧が続く間は、天守への攻撃は不可能になった。
「『第二軍』からは、なにも言ってきていないそうです。それと、『金剛』からの呼びかけに、『第二軍』が応答しない。とも言っていました」
「そうか」藤次郎が言った。
彼は『第二軍』が失敗した時の次善の作戦を思いだす。もちろんその場合についての行動も作戦計画には含まれていた。
『第二軍』が失敗した場合、市街を制圧した『第一軍』は城の『港』地区と交戦することになる。『港』地区の城壁に近い市街の住居を何件か接収し、その屋根から城壁を攻撃することになる。『第一戦隊』は港に接近し、大量の迫撃砲弾を城の『港』地区に投下するだろう。
彼我ともに被害が大きくなる作戦だ。できればやりたくはない。
『金剛』から無線連絡があった。
『第二軍』が、予定より早くムーア城北城壁にとりついた、とのことであった。
「なにか、不都合なことがあったのか」藤次郎が『金剛』に尋ねる。
「詳細なことは、わかりません。分かり次第お伝えします」通信兵が言う。
「隊長、南の水平線が白んできました」護丸が言う。直後に上空の雲が音もなく降りて来て、辺りが霧に包まれた。視程が百メートルほどまでに狭まる。
藤次郎が、そのことを『金剛』に報告し、霧はあるが作戦続行に支障があるほどではない、と伝えた。
「教会が鐘を鳴らすはずだ。その鐘とともに市街に進むことにする」藤次郎が言った。
この当時、各家庭に時計などはない。時計の代わりになるのは教会の鐘の音だった。そして、藤次郎が言ったとおり、短い鐘の音が二度、市街の屋根を越えて響いてきた。
「みな、いくぞ、市街に進入して、制圧する。進め」藤次郎が低い声で命令した。通信兵が『金剛』に『第一軍』の進撃開始を報告した。




