第七話 波紋の広がりは、世界には及ばない。
会いたくない人がいる。
「あんまり興味ない?サークルの人たち、けっこう行くと思うけど」
一緒に売店に買いに行った棒アイスのおいしさに感動しかけていた、午後四時のベンチ。
リカさんの口から、三玲さんの個展訪問の話が出た。
「いや、興味はなくはないんですけど……。三玲さんって怖そうで、会って感想求められても怖いですし……」
嘘だ。
本当は『あなたの彼氏をお借りしている形になってしまっていないでしょうか…?』という恐怖心。
いつぞやの彫刻刀紛失事件のように
『なんでいないの???私の矢崎っ。誰がどこにやるっていうの???』
と振り乱された黒髪ストレートが迫ってきたら恐ろしすぎる……。
「三玲さんは私たちみたいな一般人に深い感想なんか求めないと思うけどなー」
ちゅーっと、ストローからオレンジジュースを吸い上げるリカさん。
「私たちって一般人ですかね……?」
ぼんやり三玲さんの黒髪を思い浮かべ、棒アイスに唇をつけたままつぶやく。
「何人だと思ってるの?」
リカさんはストローから口を離して意外そうな顔をした。
「え?あ、この大学の生徒の中じゃあ、変な人たちの部類に入ってるとは思ってますけど……」
なんとなく恥ずかしくなった。
「変な人たちねぇ、まあ図工室にいる時の私たちはどちらかと言えば変ね」
まるで私だけが、何か自分の未知の可能性でも信じているかのようだ。
リカさんにとって紙に絵の具で色を塗り潰すことは、大学生にとって限りなく感じてしまう時間を塗り絵のようにして遊んでいるだけなのだろうか。
「戻ろっか?」
リカさんの一声で、私たちは図工室へ帰る。
ベランダに足を踏み入れると、珍しく先に矢崎さんが座っていた。
「小鹿ちゃん、俺が来る時はいつもここにいろよー」
「そんな都合のいい女にはなりませんよ」
言ってから『どうだろう?』と思う。
矢崎さんの手には、だらだら長い黒い電気コードとそれにころころついている丸い硝子玉のような電球。
「わ!良さげな電球見つかったんですか?」
思わず顔がほころぶ。
「おう!理想どおりな感じだ。でももう少し薄暗くなってからコンセントにつなごう」
そう言って、扉の隙間から伸びている延長コードを軽く揺らした。
お楽しみは、日暮れが連れてきてくれるようだ。
私はちょっとすみませんと、矢崎さんの前を通り定位置へ。
ペンチを手に取り、私の膝上あたりまである大きな焦げ茶色針金でできた物体の前に座る。
楽しくて、おかしくなりそうだ。
作り始めて何日経ったんだろう。
とりあえず、これなんだ。
今、私が息をしている意味は。
そして。
「早く薄暗くなれー」
私の小声が届く位置に、あなたがいること。
返された微笑みに、心が波紋を作る。
波紋はベランダいっぱいに広がり、壁に小さく跳ね返ると消える。
ここはまるで水たまりのよう。
世界を囲む海に繋がらない。
波紋に気持ちを揺らされている私の姿は、世界からは見えない。
波紋の広がりは、世界には及ばない。
「ちょっとだけ薄暗くなってきたな」
作業に没頭いていた私は、針金の周りに漂う薄い紺色の空気に、言われてから気づく。
「そうですね!いよいよ点灯ですか?」
「おう」
矢崎さんの手が、延長コードと電球のコードをつなぐ。
きっとその時、作業疲れで私の眼の表面はぼやけていたに違いない。
そう、夢と現実の境目が分からないくらいに。
橙色の丸い子たちが、紺色空気にふんわり灯る。
「線香花火……」
こぼれた言葉を肯定するように、隣にいるあなたの輪郭が揺れる。
「線香花火の最後の粒みたい」
夢見心地で、たくさんの終わらない線香花火を二人で見つめていた。
終わらないと、思えた。