85.エル
朝ごはんを食べ終えるとすぐに魔王様と別れた。そしてチェルさんと一緒に部屋に戻る。
そのまま部屋に戻ると思っていたが、戻っている途中でチェルさんが突然止まった。
早く戻りたいと言っていたが、どうしたのだろう? 様子を窺うようにそっと止まったチェルさんの顔を見る。
「お前のことをエルと呼んでも良いか?」
私と目が合うとチェルさんが口を開いた。それよりもエル? 予想外の言葉に私の頭が一瞬フリーズする。聞き間違いではないよね。
「姫?」
「は、ひゃい」
チェルさんの言葉ではっとし、急いで返事をする。
それでも突然の展開に頭は未だについていけていなかった。チェルさんはいつも突然だ。もう少し心の準備をする時間が欲しい。
チェルさんが話した言葉を考えながら見上げていると、チェルさんが複雑な表情に変わる。
「嫌ならばエルと呼ぶのは止める」
「嫌じゃないです!」
「そうなのか? 何か考えていたようだが」
私の返事が遅かったことを気にかけているようだ。愛しているって先程は自信を持って言っていたのに。私が嫌だと思うなんて考えないで欲しい。
「嬉しくて、聞き間違いだと思ってしまって」
「聞き間違い?」
「エルって呼んで欲しかったので、私の耳が勝手に聞き取ったのかと、思いまして」
あだ名で呼ぶのは恋人同士みたいだし、嬉しい。チェルさんと両想いだけで充分だと思ってはいるが、私も女子だし、恋人のような関係に憧れはある。
「聞き間違いではない。そうか」
すぐにチェルさんが嬉しそうに笑う。だが、それは一瞬で今度は悲しげな表情に変わった。
どうしたのだろうとチェルさんを見つめているとゆっくりと口を開いた。
「お前が困惑しているように見えた。すまなかった」
「それは……チェルさんが突然だったからですよ」
ここは廊下だ。しかも部屋に帰る途中。突然に振る話題ではない。これくらいは言って良いだろう。
少しだけ抗議するように言うとチェルさんが怪訝な表情をする。
「突然? 先程、ユンがエルと呼んでいただろう」
「ユンさんが?」
「ああ。俺を差し置いてエルと呼んでいる。腹立たしい」
チェルさんは少し拗ねたような表情だった。
「短く略すのはどう呼んでも許せる者だけとディーネから聞いている。俺とエルは愛し合っている」
チェルさんの言葉を待っていると、チェルさんが不満気な様子で口を開いた。
どうやらユンさんが私のことをエルと呼んでいたのがお気に召さなかったらしい。
俺と愛し合っているから。やきもちを焼いてくれているみたいだ。可愛い。胸の中からきゅんと音がするようだった。
可愛くて思わずチェルさんを抱きしめそうになったが、ここは廊下。人間の私がちゃんとルールを守らないと。
「どうした?」
「い、いいいや。なんでも」
「何かあるだろう」
チェルさんは未だに拗ねた表情だった。
「その……チェルさんの事を抱きしめたいと、思いまして」
恥ずかしくて最後は小さくなる。言い終えるとチェルさんが少し早足で歩きはじめた。
「チェルさん?」
「俺が運ぶのが一番効率が良いが、魔王がうるさい。歩くのが早かったら教えてくれ」
「はい」
可愛い。なんて思ったのは内緒だ。
この前までは格好良くてキラキラしていたのに、ここ数日のチェルさんは可愛い。真剣な表情で部屋へと向かうチェルさんを見ていると思わず口元が緩みそうになった。
早足だからかいつもよりも早く部屋に着いた。チェルさんは扉を開き、部屋に入るとすぐに扉を閉めた。そしてそのまま私を見る。抱きついて良いと言う事なのかもしれない。
心臓がバクバク言っているがそんなこと関係ないと思いながら息を吐く。そしてそのまま勢いでチェルさんを抱き締めた。
チェルさんの少し冷たい体温が体全体に伝わってきて心臓がバクバクと言っていたが、チェルさんの体温が少し温かくなってくる頃には私の心が落ち着いてきた。これからどうすれば良いか考えられる程だった。
自分から抱きしめることがないのでここからどうすれば良いかわからない。このままずっと抱きしめているわけにもいかない。チェルさんも私の背に手を回す様子がない。このまま抱きしめて良いのだろうか。そっと見上げるとチェルさんがじっとこちらを見ていた。
「不思議だな。俺の腹が満たされるようだ」
「おなかが?」
「ああ、飯を食った後のようだ。とても満足している」
チェルさんがふわりと笑った。チェルさんに取ってご飯は大事なもの。チェルさんの言葉は正直ピンとは来ないが、きっと凄いことなんだろう。
気持ちを伝えるように更に強く抱きしめるとエルと私を呼ぶ声が聞こえる。
見上げるとチェルさんが優しい表情で私の頭に触れた。
「エル。ソファーで休んでも良いか?」
「はい」
その言葉と共に私の体があがる。思わず目を閉じ、再び目を開けるとチェルさんの顔が目の前にあった。
「ちぇ、チェルさん」
チェルさんが私をお姫様抱っこしていた。落ちないように急いでチェルさんの腰に手をまわす。
「どうした?」
「自分で歩けますよ」
「知っている。お前を抱きしめながら歩きたい」
チェルさんはずっと抱きしめたいと言っていた。我慢していたし仕方ない。
それでもやっぱり恥ずかしい事には変わらなかった。
「疲れたら降ろして下さいね」
「そうか。疲れなかったらずっと抱きしめていて良いんだな」
少しだけ抵抗するように伝えると、チェルさんがふわりと笑った。それはいつもと変わらず王子様みたいに格好良い。可愛くて格好良いなんてずるい。
「手を痛めても知らないですからね」
私はチェルさんには敵わない。それ以上は何も言えなくて、私はチェルさんの胸に再び顔を埋める。
幸せだなあ。これから起こる勇者の来襲を考えると憂鬱だが、今はこの幸せを感じようと思った。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
次回から四章になります。よろしくお願いします。




