扉の向こう【3】
ドアを開けた先は、真っ暗で何も見えない。彼は手を伸ばして、壁にある照明のスイッチを探った……パチンという音とともに、部屋の中がぱっと明るく照らし出された。
……私は思わず絶句した。
「……これが、『魔境』」
「そう」
「どちらかっていうと、『魔窟』の方がイメージ近いかも」
「……だな。今度からはそう呼ぶわ」
彼が『魔境』と呼んだ仕事部屋は、私の予想を遥かに上回る混沌とした空間だった。
窓際に置かれたシンプルなデスクの上には、おそらく仕事で使っているであろうパソコンとプリンター。その空間とドアだけを残して、残る四方の壁には、天井まで届くほどの本棚がぎっしりと並べられていた。
本棚の中には、ほんの僅かな隙間もなくみっしりと本やファイルが詰め込まれている。それだけじゃない……本棚に収まりきらなくなったのか、床の上にも本が積み上げられて、いくつもの山が出来上がっている。
「……あれは?」
私の指さした先にあるのは、デスクの脇に置かれた、おそらくソファーだと思われる物……その上には、広げたファイルやプリントアウトした紙の束が、無造作に積み上げられている。
「あれ、ホントは編集さん用のソファー。通称『監視席』」
「……どう見ても、本来の用途で使われてないよね?」
「まあ、監視されるようなことがないからな、俺。これでも、締切は毎回ちゃんと守ってる」
「いや、そういうことじゃなくて」
本の山を器用に避けながら、彼が『魔窟』の中へと足を踏み入れた。私もおそるおそる、彼の通った後を着いていく。……下手に他の場所へ足を出したら、積み上げられた本の山を崩してしまいそうだった。
それにしても、凄まじい量の本だ。辞書やミステリーに関する本だけでなく、様々なジャンルの本が本棚に並んで……いや、床の上にも置かれている。
「すごいね。これ、全部読んだの?」
「まあ、大体はね。ここにあるのは、ほとんどが仕事で使ってる資料。それから、俺が昔から好きな本も少し」
「……どこに何の本があるか、ちゃんと分かってる?」
「もちろん。俺、必要な物と好きな物は、なるべく自分の手の届く所に置いておきたいから。安心できるんだよね」
そう言うと、彼は嬉しそうに笑った。どこか自慢気なその表情は、仕事部屋にいる小説家というよりも、空き地にこっそり作った「秘密基地」にいる子供のように見えた。
「リビングとは正反対の世界よね、ここ」
「ここは、普段の生活から自分を切り離すための場所だからな」
彼はパソコンを立ち上げ始めた。ディスプレイをじっと見つめたまま、彼はまるで独り言のように呟く。
「ここにいる時は、小説のことだけ考える。他の余計なことは一切見ない。音も時間も……全部シャットアウトする」
「……小説の世界にどっぷり浸かってるって感じ?」
「あーいいね、そういう言い方。小説家っぽくて」
「いや、小説家だから、君」
くすくすと笑いながら、彼はパソコンのそばに置いてあったマウスに手を伸ばした。ここからではよく見えないが、何かのファイルを開いているらしい。
私の視線に気づいたのか、振り返った彼は何だか少しバツの悪そうな顔で、デスクのすぐ隣にある本棚を指さした。
「……オネーサンに見せたいのは、そっち」
みっしりと本の詰まった他の本棚と違って、こちらはまだずいぶんと余裕がある。そこに並ぶ本のタイトルには、見覚えがあった。
「全部、君の本?」
「出版社からもらった分。ほとんどあげちゃったから、もうそれだけしか残ってないけど。オネーサンにあげる」
「え、いいの?」
「うん、好きなの持っていっていいよ。売り上げに貢献しようとしてくれるのは嬉しいけど、全部買うと結構馬鹿にならないお値段だし」
「……君がそれ言っちゃダメでしょ」
デスクの上に置かれたプリンターが、突然音を立てて動き始めた。次々とプリンターから吐き出される紙を、彼は一枚一枚確かめるように取り上げていく。
「まあ、オネーサンに読んでもらいたくなったってのが、本音かな」
「……あれだけ嫌そうな顔してたのに」
私は今でも覚えている……私が彼の本を買ったと知った時の、彼のあの慌てぶり。自分を知っている人に本を読まれることを、彼がどれだけ躊躇しているのかも。
だから、彼が突然態度を変えたことを、私はむしろ心配すらしていた。もっとも、彼は相変わらず飄々としていて……今は私と話すことよりも、印刷し終わった紙の束を確認する方に集中しているようだ。
「どこまで本気なんだろうって思ってたからね、最初は。……で、欲しいのはある?」
「じゃあ、とりあえずここの棚一列分、各一冊ずつ」
「どこぞの芸能人みたいな指名の仕方だな……毎度あり。他はいいの?」
「……今回は自力で持って帰れる分だけにしておく」
『監視席』の上に山積みになったファイルの隙間から、彼は器用に紙袋だけを引き抜いた。そして、棚から無造作に本を取り出しては、ぽいぽいとその中に投げ込んでいく。最後に、さっき印刷したばかりの紙の束を放り込むと、私の方へずいっと突き出した。
「重いから気をつけて」
「ねえ、これは?」
私は、袋の中に突っ込まれた紙の束を指さした。彼は私の質問には答えようともせず、空いた棚の隙間を埋めるつもりなのか、別の棚から本をせっせと移動させている。
「ねえ……」
「最新話。出来立てのホヤホヤ。これから修正入れるから、雑誌に載るのとは少し違うけど、話の流れは同じだよ」
「修正前のを見せちゃってもいいの?」
「バレなきゃいいよ」
本を移動させる作業を終えて、彼は満足そうにひとつ息をつく……やがて、私の方へと向き直るとニッと笑った。
「送るよ。オネーサンの家まででいい?」
「……できれば、途中で夕飯も食べさせてほしいんだけど」
「当然。俺も腹減ったし。今度こそ寿司食おうよ、寿司……回ってる方だけど」
「私にとって、お寿司とは常に回ってるものです」
「俺も自腹で食う時は回ってるよ?」
そう言って、彼は機嫌よさそうにケラケラと笑った。足元を確かめることもなく、彼はひょいひょいと床の上の本の山を通り抜けていく。私は、そんな彼の後ろを追いかけながらおそるおそる部屋を出た。
……そういえば、私は彼が車に乗っているところを見たことがない。というか、そもそも彼が車を持っていることすら知らなかった。
「街中だと、地下鉄で移動する方が便利だからな。駐車場探す方が逆に面倒くさい。酒も飲めないし」
「君、めったにお酒飲まないじゃない」
「外ではあんまり飲まないからな、俺。酔うまで飲むと、大体とんでもないことになる」
「お金が?」
「そう、お金が……って、おい」
「間違ってた?」
「……いや、あながち間違ってないな」
荷物が積めて勾配のきつい山道に負けなければ、後はどうでもいい……という理由で選ばれたという彼の車は、彼の家のリビングにどこか似ていた。必要最低限の物以外は何もない、雰囲気を盛り上げるようなBGMすらない。
私と彼は、ひたすら他愛もない話を続けた。寿司を口に運んでいる間も。私のマンションの前に車を停めるまで、途切れることなく。……それは、たまらなく心地よい時間だった。
お風呂を済ませて、眠るまでのひと時……私は『宝石シリーズ』の最新作をさっそく読んでみようと、彼がくれた大量の紙の束を膝の上に抱えていた。
この短編シリーズは、ちょっと風変わりな主役の双子が人気を集めている。そして、もうひとつ……作品中に登場する宝石も、このシリーズの人気のポイントになっていた。
現場から盗まれたり、事件の証拠であったり、謎を解く重要な鍵になっていたり……全ての作品で、宝石が事件に深く関わっている。そして、作品中に登場した宝石の名前は、毎回必ずタイトルの一部に使われていた……この短編が『宝石シリーズ』と呼ばれる所以だ。
だが、最新作の『アレキサンドライトの彼女』は、『宝石シリーズ』のどの作品とも違う特色があるらしい。……ちょっと前に、どこかの伝手を頼って掲載誌を手に入れた友人が、えらく興奮した様子でそう教えてくれた。
「……ほんとだ。全然違う」
読み進めていくうちに、友人があんなにも驚いていた理由が、ようやく私にも分かってきた。
中村ショータといえば、独創性に溢れたトリックと論理的な構成で、本格的なミステリーの若き名手として評価されている。だが、この作品中で起こる事件は、たったひとつ……しかも、いつもなら話のメインとなっている犯人当てや複雑な謎解きは、ストーリーに色を添える程度に止められている。
話の主軸は、この事件が引き起こされた理由……そして、事件の容疑者の女性と主役の双子の心の動きに置かれていた。
……そして、何よりも大きな、これまでの『宝石シリーズ』との違い。
「宝石が……アレキサンドライトが、出てこないの? これ」
毎回必ず作品中に登場していた宝石……今回であれば「アレキサンドライト」が、事件の重要なポイントとして登場するはずなのに。どれだけ読み進めても、どこにも「アレキサンドライト」が出てこない。
「これ、どういうことなんだろう……」
私はふと、水族館で彼が見せてくれたメールのことを思い出した。彼の前の編集をしていたという人物が、彼の最新作を褒める一方で、『一体何があったんですか?』と何度も繰り返していた、あのメール。
なるほど、これなら確かに「何があったのか」と思われるのも仕方ない。謎解きよりも、犯人当てよりも……彼は驚くほど丹念に、容疑者の女性と双子の何気ない、でも明らかな心の変化を綴っていたのだから。




