扉の向こう【2】
彼が呼んだタクシーに、押し込められるようにして乗り込んだ。いつもなら私一人だけ乗せて扉が閉まるはずなのに、今日は続いて彼も乗り込んでくる。
初めて聞く地名を運転手に告げると、それっきり彼は黙りこくってしまった。
「……ねえ」
「んー?」
「どこ行くの?」
さっきからずっと窓の外をしかめっ面で眺めたまま、彼は一言も発しない。何となく落ち着かない雰囲気に、私は思わず彼に尋ねていた。
気のない返事だけが返ってきて、やっぱり彼は何も言わなかった。黙って着いてこいということなのかと、私が諦めようとした瞬間、彼が突然口を開いた。
「魔境」
「……はい?」
「魔境だよ。前の編集さんが命名した」
「何、その怪しさ満載な名前」
「見りゃ分かるよ。まあ、俺にとっては最高に居心地がいい場所なんだけどね」
居心地がいいという言葉とは裏腹に、彼の口ぶりは不機嫌そのものだった。それ以上会話も続かなくなって、手持ち無沙汰になった私も、彼と同じように窓の外へと視線を移した。
車はオフィス街を抜けて、馴染みのバーがある繁華街の大通りを走り抜けていった。彼がさっき告げた地名は、彼の口から聞くのは初めてだったが、知らない名前ではない。この大通りをもう少し先に行ったところ……ここ十年あまりで再開発が進んで、今では高級タワーマンションなどが立ち並ぶ、人気のエリアだ。
「着いた」
タクシーが停まったのは、このエリアでもかなり名の知れたタワーマンションの前だった。代金を支払ってタクシーを降りた彼は、私を気にも留めずにさっさと歩き始める。こんな土地勘のない場所で置いていかれてはかなわないと、私は慌てて彼の後を追いかけた。
「……君、ここに住んでるの?」
ぽつぽつと明かりが灯り始めた恐ろしく高い建物の群れを見上げながら、私はボソッと呟いた。……ここは、人気のベストセラー小説家ならまだしも、一介のOLには到底縁のない高級住宅地だ。
「まさか。 俺一人しか住まないのに、わざわざ高い家賃払って意味もなく広い部屋なんて、ムダ以外の何物でもないだろ」
「意外と堅実なんだ」
「いつまで小説家としてやっていけるか、正直分かんないからな。そこまで大きな夢は見てない」
突然足を止めて、彼が振り返った……呆れたような顔をしているのは、私の気のせいだと思いたい。
「……俺の家はこっち。ここの八階」
彼が指さした先にあったのは、タワーマンションではなかったが……それでも、私の住んでいる所よりも遥かに家賃の高そうなマンションだった。
「いや、十分いい所でしょ……」
「住むだけなら、ワンルームでも構わないんだけどね、俺は。まあ、でも普通の一人暮らしよりは多少いい所に住んでるだろな」
「……集中できないと困るとか?」
「いや、本の重みで床が抜けるとまずい」
オートロックの玄関を抜けて、エレベーターに乗り込んだ。彼に言われるままに着いてきてしまったが……どうして彼は突然、私を自分の家に呼ぶ気になったんだろうか。私は何となく不安になった。
八階の一番奥、角部屋が彼の住む部屋らしい。鍵を開けると、彼は手を伸ばして玄関の照明を点けた……男の一人暮らしにしてはこざっぱりとした玄関フロアが、私の目に入ってくる。
「どーぞ」
ぼんやりと突っ立ったままの私に、玄関のドアを押さえながら彼が声をかけた。ニッと笑ったその顔は、タクシーの中で見た時よりもずいぶんと穏やかな印象だ。
「……手土産も何もないですけど」
「いいよ、別に。俺が付き合わせたんだから」
「というか、せめて途中のコンビニで、夕飯買ってこればよかったかも」
「あー、それは間違いないわ」
ケラケラと声を上げて彼は笑う。いつもと変わらない彼の様子に少しほっとしながら、私は彼に促されるようにして部屋へと上がった。
「そのドアの向こうがリビング。適当に座ってて、着替えてくるから」
そう言い残すと、彼は一番手前の寝室と思しき部屋に姿を消した。
今日初めて訪れた場所だというのに、家主の案内もないまま勝手に歩き回ってもいいものかと、私は一瞬躊躇した。だが、ここで彼が着替え終わるのを待っているというのも、何だか変だ。
彼の言葉に甘えて、私はリビングに通じるドアを開けた。
……真っ暗だ。
「せめて灯りだけでも点けていってほしかった……」
ぶつぶつ文句を言いながら、私は手探りで部屋の灯りのスイッチを探した。普通はこの辺りにあるだろうと、何となくあちこち探ってようやく探し当てたスイッチを押す。
パッと部屋の灯りが点いた。玄関と同じく、男の一人暮らしとは思えないほどに小綺麗に整えられている……というか、むしろ殺風景にすら思えるほどだ。
「何してんの?」
突然声をかけられて、私は飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、Tシャツにデニムというお馴染みの格好をした彼がいた。リビングの入り口で固まったままの私を、何だか不思議そうに見ている。
「座って待ってればよかったのに」
「真っ暗な中で、スイッチ探してたんだけど」
「あ、ごめん。スイッチの場所、知ってるもんだと勝手に思ってた」
「あのねぇ……」
リビングに置かれたソファーに腰を下ろして、私は再び部屋の中をしげしげと見回した。行儀が悪いとは分かっていても、自分が勝手に描いていた『小説家の部屋』のイメージとの違いに、私は戸惑いを隠せずにいた。
「……意外と殺風景」
「ここはね。普段生活する空間は、あんまりごちゃごちゃしてない方が落ち着く」
「何かイメージと違う」
「俺はむしろ、オネーサンが一体どんな家をイメージしてたのか聞きたいわ」
彼が盛大にため息をつきながら、私の目の前に紙製の手提げ袋を差し出した。……袋いっぱいに何かが詰め込まれている。
「早く受け取って。結構重い」
慌てて手提げ袋を受け取ると、確かに彼の言った通りずっしりと重い。一体何が入っているのかと、袋の中を覗き込んでみた……大量の紙の束だ。
「これ、何?」
「今連載してるやつのゲラ。これ渡そうと思って、オネーサンに来てもらった」
「……わざわざそのために?」
「重いから、持っていくの大変でさ」
「ちょっと待って、これ持って帰る私はどうなるの」
ぷっと膨れた私に、彼は少し申し訳なさそうな顔で言った。
「……編集さんに頼んだんだけど、雑誌の方はやっぱり手に入らなくてさ。一応これが最終稿で、雑誌に載ってたのと中身は同じだから、読むだけならこれでも問題ない」
「……大切なものなんじゃないの? これ」
「いいよ、あげる。オネーサンのご希望に添えなかったからさ。ごめん」
いや、彼が謝ることはない……私のわがままを聞こうと、努力してくれたのだから。彼に申し訳ないのと、彼の気持ちが嬉しいのとが、何だかごちゃ混ぜになって……私は何も言えずに、ただ手提げ袋をぎゅっと抱きしめた。
「あ、それともうひとつ」
彼は私をちょいちょいと手招きした。手提げ袋を抱えたまま、私はソファーから立ち上がった。彼はリビングの隣にあるドアを指さして、何とも楽しそうに微笑む。
「あれが、魔境」
「はい?」
「要するに、俺の仕事部屋。まあ、見てみりゃ分かる」




