第25話「静止の奇跡」と「生命の天使」
黒き髪の美貌でどこか無機質な佇まいの青年が空中に浮遊するようにしていました。彼は神でしょうか、人でしょうか、悪魔でしょうか、天使でしょうか。いいえ。彼はまさしく”天空の兵器”と呼ぶにふさわしいような印象の青年だったのです。地上から自然と彼を見上げている愛鈴と、上空から自然と愛鈴を見下ろしている青年の間には身体の大小という面ではさほど変わりがありません。それなのにーー2人の間には大きな隔たりがありました。おそらくそれは存在感というもので。
既視感さえも生まれない現実に、”……あぁ。ここでもしも僕が止められなければ、数十万〜数百万という殺戮を起こす存在が目の間にいるんだろうなぁ……”と分析をしているとーー本当に世界が止まってしまいました。これにはさすがの愛鈴も驚きます。何が起こったんだろうと思いました。あの兵器のような青年の心臓から黒い霧のようなものが溢れると同時にーー世界から動きがなくなったのです。世界が一枚の写真になったように。彼は何を考えているんだろう。それとも何も考えていないんだろうか。そんなことを愛鈴は流れていく感覚の中で思いながらも、どうやってこの街の人々を守ろうと考えていた愛鈴にとっては、世界がsepiaになったのはーー好都合でした。もうこうなったからには、これから命を落としてしまうのは、白き髪の青年か黒き髪の青年かーーということになったのですから。
「君が用があるのはぼくだけなのかもしれないね。この街の人を守ろうとすることに君はぼくの気を使ってもらいたくないんだ。そうするとぼくの軸がブレるから」
どんな風な言葉で表現をすればいいのでしょう。この世界に戻ってきて初めて愛鈴が白き血を本気で解放した瞬間にーー純白の奇跡が両手には握られていました。縦の長さとしては両手の先から路地まで触れ合うようで、横の広さとしては本来は街中では振るうことをためらわれる程。いつかの白き刀といつかの白き弓が愛鈴の想いを感じて融合していたのです。愛鈴の白き血にしか反応せずに、もう愛鈴だけしか自由に振るうことのできないそれはーーもしかしたら誰がみても”天使の翼”だと呼べたのでしょうか? あの青年が両手に抱いたものはーー天使の翼だろうと。
賛美を覚えるほどの勢いで上空に蹴り上がった愛鈴とそれを模糊たる霧で迎えうつ青年。全ては一瞬でした。どちらが傷つくことも傷つけることもありません。ただお互いが空中で刀を交わしてーーどこか2人とも笑っていました。もちろんそれは殺しあうことを喜ぶのではなく、それは本当に遊戯を楽しむでもようにして。
民家の屋根へとゆっくりと着地した愛鈴へと黒き髪の青年はもう迫っていましたがーー見誤るようなことはありません。虚勢なんかではない実力を持っている青年の霧刀を愛鈴は外衣を翻しながら受け止めました。天使の翼が軋むようにして衝撃を受け止めたおかげで、愛鈴のくるぶしが屋根の上から動くようなことはありません。むしろ大きく弾かれたのは黒き髪の青年の方でした。彼の方が攻撃を仕掛けた側だったというに。攻撃をもらってしまった側であるように。純白の髪に隠れた愛鈴の表情が笑っている中でーー黒き髪の青年はどんな顔をしていたのでしょう。
もちろん黒き髪の青年はこの世界での魔法と呼べる”自らの願いや意識を現実へと投影させる”ということをできるのでしょうが、白き血を解放してからの愛鈴にはここまで雰囲気があるのも何かの間違いではありません。天使の翼も愛鈴にとっては恩恵をもたらしてくれていますが、やはり最大限のアドバンテージは白き血のはずでした。実は愛鈴のように白き血だったり、中には黒き血が流れている人々がいたとしても、ここまで血の力を自由にできる存在はこの世界にいないのです。だから愛鈴にはある種の過程の省略があって、ほかの人々が魔法を使うためにはまずは思考をするという過程が必要であるはずなのに対して、愛鈴には無意識で魔法を使えるという絶対的な利点がありましたから。意識と無意識なのです。どちらが有利なのか不利なのかということも明らかで、後手になってしまうことも二の矢が継げないことも今の愛鈴にはなく、全てが静止した世界でまるで乱気流を起こすようにお互いが交錯して、黒い気配のほうが色濃く見えたとしてもーーお互いに思っていたはずでした。愛鈴の方がこの生命の奪い合いの回旋曲を奏でさせられているというよりは、愛鈴のほうがこの生命の奪い合いの回旋曲を奏でているのだと。
「でも君だって特別に強いとぼくは思っているんだ。ずっとね。というか今もさ。最初は気になったよ。どうして君をそんな風に思うのかってね。でも今ならわかる気がする。君には偶然がないんだ。どんな時だって何かの理由がある。だから君はいつだって落ち着いているし、ぼくは少しずつ少しずつだけど戦いづらくなってくる。偶然はそう簡単に続かないけど、必然はとても簡単に続いていくからね」
こんな風にくちずさんでいる愛鈴にはずっと思っていることがありました。本当にずっと黒い光の集合体へと攻撃しているようだったのです。それほどに手応えという手応えがないのです。あの青年の命をどれだけ削ったとしても。刀の鉢合わせのあとに石橋へと降り立っていた愛鈴が、右腕の天使の翼をほとんど瞳の先まで跳ね上げることで、上空の青年を撃ち落そうとします。天使の翼が大きく光ると弓と刀が融合している中央部分からレーザーのように白き血の破壊的な波動が生まれました。反動はありません。もしも一発で仕留められなかったら2発目を左腕の方ですぐに放つ計算までありました。そんなことを考えている愛鈴の視線の先には、この街中へと吹きすさんでいた風を右腕に集めてその黒き波動を放とうとしていた青年がいて、愛鈴のことを見失っていた彼の後背部にもこの銃撃は届いたはずです。
なのに愛鈴は喜びを感じられません。確かにあの青年の生命は傷つけたのに。
何かがうそなんだろうとは愛鈴も騙されません。理由はなんとなくわかっていたから。意識もなく愛鈴は感じ取っているのでしょう。あの黒き青年がまだ何かを隠しているということを。だから何かがしっくりとこないのです。最後はどうなっているのかわからないという不安が、どんな喜びさえも淘汰してしまっているから。
黒き髪の青年が回復するよりも前に、左斜め前へと見えていた時計台の上へと音もなく飛び立っていた愛鈴は、明らかな負傷はなくても身体の状態を確かめていたあとに銀色の瞳と再び見詰め合ったとしても、不安のあまりに眩暈を抱いてしまったり呼吸を乱してしまうようなことはなく、ただ双翼を両手で握ってーー彼へと敬愛のようなものを抱いていなかったといえば、それだけはうそだったのでしょう。




