十三話
畑に着くと、アムルが駆け寄ってくる。
「姉ちゃーん」
ひと遊びしたあとなのか、もう泥だらけだ。
イマはアムルの赤く上気した頬についた泥を、拭ってやった。するとアムルはきゃっきゃっと笑い声をあげる。
「姉ちゃん、アムルさっきお魚捕まえたんだよ!」
幼い子供にとって、畑仕事が終わるのを待つ時間は退屈なものだ。水田に放された稚魚は、そんな子供の恰好の遊び相手になった。
興奮した様子で、捕まえた魚の大きさや、その時の様子を、イマに語って聞かせていたアムルが、ふと唇を尖らせる。
「姉ちゃんに見せるまで捕まえてるって言ったのに、元気がなくなっちゃうから駄目って、母ちゃんが」
だから、逃がしちゃった……と、いじけるアムルの頭を、イマは申し訳ない気持ちで撫でた。
「遅くなってごめん。お魚、逃がしてあげられて偉かったね」
褒められたことが嬉しかったのか、アムルは顔いっぱいに笑みを浮かべると大きく頷いた。
「また捕まえるから、今度は見てよ!」
そう言うと、イマの返事も待たずに、田の中に戻って行く。そして、すぐに夢中で魚を追いかけ始める。
イマは雨除けの笠の紐をしっかりと結び直し、服の裾をめくって帯にはさんだ。
苗代から苗の束を幾つか手に取って、代かきの終わった田の中に入ると、足袋越しに、ひやりと冷たい水の感触がする。
歩を進めるたび、柔らかい土に、足首まで埋まった。
まだ苗を植えていない田の水は美しく澄み渡り、薄曇りの空を映している。雨の雫が落ちるたび、水面に美しい波紋が形作られては消えていく。それは次々に花弁を広げて咲く花のようだった。
イマはふと、顔をあげて山肌に沿って作られた田を見渡した。
灰色の空と、その空を映した水田。雨で霞む視界に、境界は曖昧で、ともすれば山は空と繋がっているようにも見える。
イマは、しばしその様子に見入った。
笠を被り畑仕事に精を出す村人達。小魚を追う子供の高い声と、水田に落ちる静かな雨音。雨に濡れたイイクの花。そして空に溶ける灰色の田。
毎年やってくる、見慣れた糸月の光景。
タルウィの街に出かけた十五の頃は、退屈でしかなかった。けれど、今は変わらないその光景に安堵を覚える。
いつだったかラズバ婆が、大人になれば、退屈な日々こそが神のもたらす最も尊い恵みであると分かるものだ、と言っていた。
でも、イマが今、そう感じるのはきっと違う。
――たぶん、私が臆病になったせいね。
イマはそっとため息をつくと、腰を屈めて、苗を植え始めた。
額にうっすらと汗が浮かび、冷たい水を心地よく感じ始めた頃、昼を報せる鐘の音が鳴り響く。
イマは、アムルの手を引いてマティと共に家に戻った。
今日はアムタートとウル、それにナクルも家で昼食をとる予定だと道すがらマティに聞かされる。
しかし、握り飯をつくり、炒めた野菜がすっかり冷めた頃になっても、誰も家に帰って来なかった。
「遅いわねえ……」
マティが困り顔で呟いた。
「アムル、お腹すいたー」
椅子に座ったアムルがばたばたと足を動かす。
イマはそんなアムルを窘めながら、微かな胸騒ぎを覚えていた。
ナクルが時間通りに帰って来ないのはいつものことだが、アムタートとウルが二人そろって遅くなるということは滅多にあるものではない。
予め帰る時間がない時には、弁当にしてナクルやイマが届けるものだし、火急の用事が出来たときでも、どちらか一人は帰って来て、その旨を伝えてくれるのだ。
「もう、アムルがもちそうにないわね……」
アムルはぐううと鳴るお腹を両手で押さえて、恨めしげに食卓の皿を見詰めている。どうしたものかと思案するイマとマティの視線の先で、唇を付きだしたかと思うと、とうとう机に顎をのせてむくれ始めた。
マティがやれやれと息を零す。
「とりあえず、先にアムルに食べさせましょうか」
そう言ってマティがアムルの皿に料理をとりわけ始めた時だった。
家の入り口から聞き覚えのある足音がする。
「おう、帰ったぞ!」
続いて聞こえたアムタートの威勢のいい声に、イマはほっと胸をなで下ろした。




