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22. 行けません

 八の月の日射しは白い。


 帳場の石の床にも影が濃く落ちて、書いた字の墨が乾く前に縁だけ黒くなる。窓の下の一列だけが焼けて、そこへ手を置くと、しばらく手のひらに熱が残る。


 七日。第百四十五項である。


「八二八年、七の月二十三日。文言――『明日、必ず伺う』」


「一則です。十日の暮れ鐘まで」


 ヴェルト監察官が判定書を開いた。


 その翌日、彼が荷受け所から歩いてくる。まだ昼鐘の前である。


 上着は着ていた。荷を担ぐ格好ではなく、人に会いに来る格好である。


「残念だが、行けません」


 わたしは筆を置いた。


「……いま、何と?」


「十日までに、行けません。船が二日遅れた。荷を下ろすまで、外へ出られない」


「……荷は、どなたかに代われませんか?」


「代われる。だが、代わってもらったら、また誰かが待つ」


 この人の口から、待つという語が出ている。


 八年、この人が先に言ったことは一度もない。


 言ったのはいつも短い一言で、来なかったことは、こちらが日暮れに気づくものだった。門の外が暗くなって、蝋燭を足すかどうか迷って、足さずに帰る。


 その日暮れが、三百二十二回ぶんある。


「申し出は、記録できます」


「朱は?」


「付きます。九の条に、例外はございません」


「なら、言っても同じか」


「同じでございます。ただ、書く行が一行増えます」


 彼は指で卓の縁をなぞって、それから手を引く。


「……そうか」


 彼は少し笑って、それから帰っていく。走らずに帰るのも、初めてである。


 八年、この人はいつも走っていた。走って来て、間に合わなくて、走って帰る。走らない背中というのは、こんなに歩幅が短い。


 走るというのは、間に合う気があるという意味だった。走らないのは、あきらめたからではない。間に合わないと分かっている日に、走る必要が無くなったからである。


 十日の暮れ鐘。わたしは朱を磨(す)る。


 朱の墨は、黒より重い。硯の上で回すと、腕の付け根に一度ごとの手ごたえが来る。八年、この墨を使ったことは一度もなかった。


「約束者より、期日前に不履行の申し出あり」


 三の条の〈所見〉欄に、その一行を書き添える。罰は変わらない。記録だけが変わる。


 同じ朱の下に、この一行があるのと無いのとでは、十年後に読む人の見るものが違う。帳は、そういうふうにしか人を守らない。


「朱は、罰ではありません」


 ヴェルト監察官が言う。


「起きたことです」


「……はい」


「起きたことを、そのとおりに書くのが帳です。先に言ったことも、起きたことでございます」


 この人が「ございます」を使うのは、条を説明するときだけである。


「監察官。朱を引く手は、慣れますか?」


「慣れません」


「……はい」


「慣れたら、辞めます」


「……辞めないでください」


 言ってから、わたしは自分が請求以外の頼みごとをしたことに気づく。


「辞めません」


    ◇


 十二日に後履行。五枚目の朱の横に、黒い紙が並ぶ。


 ヴェルト監察官が判定書を閉じて、卓の端へ寄せた。


「否と言えるようになった者は、帳を持てます」


「……あの方は、四の月からお持ちです。クラリッサ様が受けておいでです」


「持っておいででした。ただ、二の条が数えるのは、否と言わなかったことです。あれは、否と言えない人の『言わなかった』でした」


「今日は」


「今日から、選んだことになります。否と言える人だけが、否と言わないことを選べます」


 わたしは、その言い方を口の中で置き直してみる。


 窓の下の石が、日を吸って白く光っている。手のひらを乗せると熱くて、すぐに離す。


 八年、この人は否と言えなかった。三百二十二回、否と言わないまま、そこに立っていたのである。


 あれは選んだのではない。選べなかっただけである。


 選べなかった人を、わたしは八年、選んだ人だと思って怒っていた。


 怒りの向きが変わると、行き場が無くなる。行き場の無い怒りは、胸の底に温いまま溜まる。冷たいより始末が悪い。


 許したのではない。許すというのは、こちらに与える力があるときの言葉である。


 ただ、怒りの形が変わった。八年ぶん尖っていたものが、丸くなって、重さだけが残っている。


    ◇


 十五日。請求は第百五十三項だった。


 翌十六日、わたしは請求状に第百五十五項と書く。


「……番号が、飛びましたね?」


「はい。飛びました」


「一件、抜けています」


 ニナが台帳を指でたどる。


「第百五十四項は」


「請求できません。五の条により、判定不能でございます」


「文言は」


「『必ず、幸せにする』」


「……それ、いちばん請求したいやつじゃないですか?」


 ニナは台帳から目を上げない。


「請求できません」


「なんでですか?」


「幸せの見込みは、監察官にも判定できませんので」


 声に出すと、思ったより短い。八年でいちばん長く待った一言が、十文字にもならない。


 この一件を記した日、わたしは十九だった。書いたあと、蝋燭を消してから、もう一度火を点けて読み返している。読み返すために火を点けたのは、後にも先にもあの一度だけである。


 紙は帳の中にある。消えていない。ただ、請求の列には並ばない。


 列に並ばない紙は、めくれば読める。読めるのに、誰にも取り立てられない。


 列に並ばないというのは、順番が来ないということである。


 八年、わたしはこの一件を、いつか読み上げる日のために取ってあった。取ってあった場所が、はじめから無かったと知ったのは、三の月の十二日である。


 あの日から五か月たって、飛ばす日が来た。飛ばすというのは、指を一つ横へ滑らせるだけの動作である。


 それだけの動作に、わたしは五か月かけて追いついた。


 わたしはその一件を飛ばして、次の紙を書く。書きながら、指がいつもより速いのに気づいている。


 速い指は、たいてい何かから逃げている。


 この二十日で、二十件。うち十九件が果たされ、一件が朱記のあとで果たされている。


 残る請求は、百六十二件である。


「テレーゼ」


 帳場を出るとき、彼が呼び止めた。


「あの三件は、どうなる?」


       ◇


〈言の帳〉八二八年の巻 アルヴェーン第百四十五項


 日付 七の月二十三日 下がり鐘


 場所 ブランデル伯爵邸 表門 馬車寄せ 雨よけの庇の下


 文言 「明日、必ず伺う」


 約束者 レオンハルト・ブランデル(否と言わず)


 受約者 テレーゼ・アルヴェーン


 居合わせた者 従僕頭ハンス、御者一名、下男二名


 記帳 テレーゼ・アルヴェーン(公証人補・十九歳)


 所見 馬車の踏み台に足をかけたまま。雨。

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