第六十六話 太った家の重さ
秋の評定は、冬のそれより音が多い。
外では風が落ち葉を転がし、庭の木が乾いた枝を鳴らす。廊を渡る者の足音も、夏より少し高く響く。空は高い。だが、空が高いということは、同じだけ遠くまで見えてしまうということでもあった。
天文十六年の秋、阿蘇の館には、そういう遠さを量る空気があった。
戦は勝った。
筑後は手に入った。
名和は正式に下った。
少弐には調略の文が入り、肥前の人心はすでに揺れ始めている。
ここまでだけを見れば、順風であった。
だが惟種は、順風ほど怖いものはないと知っていた。
風は、吹いている時ほど人の足を軽くする。
軽くなった足は、とかく地を踏み外しやすい。
その日の評定は、広間いっぱいに人を入れるほどではなかった。
だが、軽くもなかった。
上座に惟豊。
その少し下に惟種、宗運、宗傳。
北里政久、田代宗傳、甲斐宗運、高森惟房、そして旧龍造寺の家宗、鍋島清房、石井兼清、小河信安らも列している。
いま阿蘇は、内だけで国を量れる家ではない。
筑後を抱え、名和を抱え、その先に肥前を見ている。
ゆえに、この評定は家中の確認であると同時に、阿蘇がいまどこまで来たかを、自分で見誤らぬための座でもあった。
惟豊が短く言った。
「始める」
その一声で、座が静まる。
最初に板を広げたのは宗傳だった。
「まず、内のことにございます」
広げられた板には、肥後、筑後、そして名和筋の村々まで細かく印が付いていた。田、蔵、市、川筋、荷の口、荒れ地の戻り、寺子屋の置き場まで、前の評定よりもはるかに書き込みが多い。
「筑後は、立ち直りの早いところから、すでに目に見えて戻り始めております」
宗傳が言う。
「柳川筋はまだ荒れが深うございますが、北里殿・田代殿の差配により、城番は安定し、起請文もほぼ行き渡りました。村の戻りも、当初の見込みより早うございます」
北里が短く続けた。
「勝った兵の私闘、押領、勝手な徴発はきつく止めております。村へ手を出した者は、阿蘇の兵とて容赦なく咎めました」
「よい」
惟豊が頷く。
北里の顔つきは、もう戦場のそれだけではなかった。
城と国衆を押さえ、警固の筋を通し、村の気を見ながら歩く者の顔になっている。
宗傳がさらに板の別の端を指した。
「名和筋は、もっと素直にございます」
その言い方に、何人かの口元がわずかに動いた。
「もとより阿蘇のやり方を少し取り入れておった分、飲み込みが早い。取り立ての軽重、市の口、荒れ地の戻し方、いずれも大きな乱れなく回り始めております」
宗運が横から静かに言う。
「小さき家は、決まれば早い」
「はい」
宗傳は頷いた。
「反対に、筑後は広く、戦の傷も深い。されど、阿蘇の方式はすでに違いを出し始めております」
惟種は、その板を黙って見ていた。
いきなり絞らぬ。
荒れ地へ先に入れる。
市を止めぬ。
流れてきた者を座らせる。
兵に村を荒らさせぬ。
どれも派手ではない。
だが、そういう地味なことが国の底を変える。
宗傳が、少し声を低くした。
「石高にございます」
座の空気が一段締まる。
もう皆、この家では数字がただの飾りでないことを知っていた。
数字は、田の実りであり、民の残りであり、兵の腹であり、文の重さでもある。
「昨年の見立ては二十万石に迫る勢い、と申し上げました」
宗傳が板に手を置く。
「本年は二十八万石見込みと見ておりました」
そこまでは、すでに座の者たちの頭にある。
「されど」
一拍置く。
「筑後と名和を取り込み、今や帳面の上では四十万石に届く勢いにございます」
ざわり、と空気が動いた。
大きな声は上がらない。
だが、息の漏れる音だけで十分だった。
四十万。
その響きは、家中にとってもまだ重い。
夢ではない。
もう、ただの山家でもない。
高森惟房が思わず小さく言った。
「四十、か」
「もっとも」
宗傳はすぐに続けた。
「取ったばかりの地を含みますれば、実りはまだそこまで参りませぬ。筑後の戻りはこれからにございます。されど、勢いとしてはそこまで来ております」
鍋島清房が、その板を見ながら低く言った。
「石高だけなら、もう九州でも軽く見られる家ではありませぬな」
誰も、それを否定しない。
惟豊がそこで口を開いた。
「石高だけなら、だ」
短く、重い言葉だった。
「格も、名分も、外聞も、まだ一足で並ぶものではない」
「は」
「だが、それでも四十万に届く勢いまで来たことは、忘れるな。家は太った」
その言葉を受けて、座の中にいる者らもあらためて背を正した。
惟豊はこういう時、浮き足立つことを許さぬ。
だからこそ、この家はここまで来たのだと分かる。
宗運が次の板を出した。
「次に、外向きにございます」
今度は地図ではない。
文と印の流れが分かる板である。
「大内とは、浅うございますが、文が通い始めました」
何人かが顔を上げる。
「深くは寄りませぬ」
惟種が言った。
「寄ると飲まれる」
「はい」
宗運が受ける。
「されど、文の筋を持つのは利にございます。大内にとっても、阿蘇がただの山家ではないと知れ始めておりましょう」
惟豊が黙って聞く。
大内は遠い。
だが遠いからこそ、格と文の橋にはなる。
深く寄れば巻き込まれる。
浅く結び、必要な時にだけ使う。
それが今の阿蘇の筋だった。
「大友は」
惟豊が問う。
宗運が別の文を取り上げた。
「相変わらずにございます」
「警戒しておるか」
「はい。露骨に兵を動かすには至らずとも、文の端々、行き来する者どもの顔、裏からの誘い――いずれも、こちらを軽く見ておりませぬ」
惟種はその言葉を聞きながら、先の大友の座を思い出していた。
鬼童。
阿蘇。
次代。
あちらもまた、こちらを見ている。
「大友の調略は」
甲斐宗運が問う。
「いくつか来ております」
宗運は落ち着いて答えた。
「されど、今のところは撥ねております。こちらの筋が通り、家中が割れておらぬゆえにございます」
清房が小さく息を吐く。
「家中が割れておらぬ、か」
「うむ」
惟種は言った。
「だから今は、まだ入れぬ」
それだけで十分だった。
今の阿蘇の強さは、城でも石高でもなく、家中がまだ一つの筋で回っていることにある。
宗運が、今度はさらに西の方へ指を移した。
「相良は様子見にございます」
その言葉には、どこか苦みがあった。
「祝いは送る。礼も欠かさぬ。されど、当主はなお出て参りませぬ」
「らしいな」
惟豊が言う。
「はい」
宗運は頷く。
「阿蘇を敵に回す利は薄いと見ております。だが名和のように、今すぐ臣従するほどには追い込まれておらぬ。ゆえに、動かぬ」
「それで終わりか」
惟豊が問う。
「終わりませぬ」
宗運の目が、わずかに細くなる。
「探っております」
座の何人かが顔を上げた。
「何をだ」
「阿蘇のやり方を、にございます」
惟種は黙っていた。
やはりそう来たか、とだけ思う。
「商人筋、寺筋、流れてきた百姓、鍛冶、荷運び――そうしたところから、こちらの軽税、市の立て方、村の戻し方を拾わせております」
北里が低く笑う。
「厭らしい」
「相良らしゅうございます」
宗運は平らに言った。
「まだ寄らぬ。だが、見ぬふりもせぬ」
それは、よい当主の選び方でもあった。
敵ではない。
味方でもない。
だが、こちらを学び始めた。
それだけで、周りがこの家をどう見始めているかが知れる。
そして最後に、宗運は板の上の北を示した。
「少弐にございます」
座の空気がまた変わる。
家宗の目が静かに細くなる。
石井兼清の肩が、ほんのわずかに強ばる。
この話が、やがて自分たちの話になることを、誰よりもよく知っているからだ。
「こちらの文は、すでに幾つかの国衆へ入っております」
宗運が言った。
「露骨に動く者はまだおりませぬ。されど、心の揺れは出ております」
「誰が」
惟豊が問う。
「今ここで名を広く申すべきではございませぬ」
宗運は答える。
「ただ、協力を求めてくる者が出始めております。城より先に、人の方が揺れておる」
家宗が、そこで初めて口を開いた。
「旧き縁が、まだ残っております」
「うむ」
惟種が短く答える。
「少弐は、今年はこちらへ大きくは出ますまい」
宗運が言う。
「だが来年、決戦を覚悟しておるように見受けられます。大友の裏の手も、うっすらと見える」
「兵か」
「そこまでは」
宗運は首を振る。
「むしろ米、銭、武具。兵を出さず、後ろから火を保たせる形かと」
惟豊が小さく鼻を鳴らした。
「大友らしい」
「はい」
「大内は」
「少弐より使者が出ております」
清房の目が動く。
「助けを乞うためではあるまいな」
「おそらく」
宗運は答えた。
「少なくとも、まだ少弐は健在していると示すためにございましょう。大内にとっても、肥前の火が完全に消えぬ方が利と見る向きはありましょうが、今さら少弐を立てるほどの厚みはありますまい」
惟種は黙ってそれを聞いた。
少弐は折れかけている。
だが、まだ折れてはいない。
だからこそ、来年が重い。
宗傳が、そこで別の板へ手を移した。
「内のことに戻ります」
話題が変わっても、座の重さは軽くならなかった。
「産育方の取り決めが、ようやく村に根づき始めております」
惟豊が目を向ける。
「どうだ」
「まだ大きくは申せませぬ。されど、村によっては、生まれてすぐ落ちる子が目に見えて減ってきております」
座の中で、その言葉を軽く聞く者はいない。
戦の手柄のように華やかなものではない。
だが、人の数が減らぬということが、あとでどれだけ国を変えるかを、この家はもう知り始めていた。
「産婆役も、少しずつ定まりました」
宗傳は続ける。
「母乳の足りぬ家へのつなぎも、方の方から動くようになっております。煮た水と粥を使えというお触れも、村々で通り始めました」
宗運が補う。
「難しい薬ではありませぬ。手と水と乳と休み。だが、その四つが揃うだけで、やはり違う」
惟種は何も言わなかった。
ここは、言わぬ方がよいところだ。
宗傳がさらに言った。
「寺子屋と書付の習いも、前より広がっております。町では札を読める者、村では帳面をつけられる者が増え始めました」
「どれほどだ」
惟豊が問う。
「まだ誰でも、とは参りませぬ」
「うむ」
「されど、兵の荷駄、蔵の札、村の割り付け、そのいずれにも違いが出ております」
つまり、国の足が少しずつ速くなっているのだ。
ここまで聞いて、座の中には確かな手応えがあった。
筑後は戻り始めた。
名和は素直に組み込まれた。
石高は四十万石に届く勢い。
大内とは浅く結び始めた。
大友の調略は撥ねている。
相良は学び始めた。
少弐は来年へ備えている。
産育方も寺子屋も、じわじわと根づいてきた。
これだけ積めば、誰でも少し気が大きくなる。
だからこそ、惟豊はそこで長く黙った。
その沈黙だけで、座の空気が少しずつ変わってゆく。
皆もまた、それを感じて姿勢を正す。
やがて惟豊が言った。
「よう積んだ」
低い声だった。
「ここまで来たことは、偶然ではない」
誰も口を挟まない。
「惟種の先見、宗運の差配、宗傳らの帳面、北里と田代の働き、家中の武、村の戻り、市の伸び――皆が噛んでおる」
惟種は父の横顔を見ていた。
褒めている。
だが、ここで終わる父ではないことも知っている。
「だが」
惟豊の声が、そこで一段重くなる。
座の中の誰もが、その先を待った。
「うまく行っていると思うな」
広間が静まり返る。
「うまく行くのが当たり前ではない」
その一言は、板の上の数字よりも強く響いた。
「勝ちが続けば、人は気が緩む。家が太れば、そのぶん綻びもまた大きくなる」
惟豊は座を見渡した。
「今の阿蘇は、こければ前より大きくこける」
誰も、息を抜かない。
「筑後はまだ立て直しの途中だ。名和も、下ったばかりだ。少弐は来年を見ておる。大友はなおこちらを嫌う。相良は静かに見ておる。大内もまた、文が通ったからといって安堵する相手ではない」
それは、今日まで評定の上に並んだものを、もう一度別の形で置き直す言葉でもあった。
「ゆえに」
惟豊は言った。
「気を引き締めよ」
「はっ」
声が揃う。
「うまく行くのは、うまく行くように人が動いておるからだ。止まれば崩れる。緩めば入られる。ここから先ほど、足元を見ろ」
「はっ」
再び声が揃った。
それで評定は終わった。
人が立つ。
板が下がる。
文箱が閉じられる。
だが、誰の顔にも、先ほどまでのわずかな浮きはもうない。
北里は筑後の冬を思い、
田代は蔵と年の実りを思い、
宗運は少弐と大友と相良の腹を思い、
家宗と清房は、まだ旗になっておらぬ龍造寺の先を思っていた。
惟種は最後まで座に残った。
四十万石。
そこへ届く勢い。
遠いようでいて、もう板の上にはある数字だ。
だが、数字があるから国ができるのではない。
数字の裏にある田と人と文と飯が回って、初めて家は太る。
父の言葉は重かった。
だが、その重さがあるから、まだこの家はまっすぐ歩ける。
惟種は、片づけられてゆく板の向こうをしばらく見ていた。
勝ちの先は、まだ長い。
だからこそ、気を引き締めねばならぬ。
秋の評定は終わった。
だが、それは一区切りであって、安堵ではなかった。
太った家には、太った家の重さがある。
その重さに押し潰されぬようにすることこそ、これからの阿蘇に要る仕事だった。
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