第五十九話 名を残す願い
天文十六年(一五四七年)八月の末。
夏の終わりは、涼しくなる前がいちばん重い。
風は吹く。
空も少し高くなる。
だが、土にこもった熱だけは、そう簡単には抜けぬ。
名和行興は、その熱を足の裏に感じながら阿蘇の館へ入った。
供は多くない。
大仰な出迎えを求めて来たのではないからだ。
それでも、こうしてあらためて阿蘇の中枢へ呼ばれるということが、どれほど重いことかはよく分かっていた。
表向きの用向きなら、いくらでも軽く言える。
此度の働きへの礼。
今後の境目の相談。
あるいは、筑後の後始末についての申し合わせ。
そういう顔で来ることもできた。
だが、行興はもう、その程度の言葉で済ませる気はなかった。
ここへ来る道すがら、何度も胸の内で言葉を組み立てた。
どう言えば軽くならぬか。
どう言えば、ただ命惜しさに頭を下げたように聞こえぬか。
どう言えば、名和の名を残したまま、それでも阿蘇の下へ入る理が立つか。
だが、いくら組み立てても、最後には同じところへ戻る。
――言わねばならぬ。
それだけだった。
館の中は、外より少しだけ涼しい。
板敷きはよく拭かれ、奥へ進むごとに人の動きが静かになる。
この家は、騒がぬ。
賑わっておっても、どこか芯が静かだ。
その静けさが、行興にはいつも少し怖かった。
ただ強い家ではない。
勝ってもなお、騒ぎで形を崩さぬ家だ。
そこが阿蘇の厄介さであり、恐ろしさだった。
通された座は、広すぎぬ一間だった。
上座に惟豊。
その少し下に惟種。
宗運も、少し離れて座している。
必要な者だけがいる。
だからこそ、逃げ場がない。
名和行興は畳へ手をつき、深く頭を下げた。
「此度は、お呼び立てにあずかり、恐れ入ります」
惟豊の声は低かった。
「よく来た」
それだけで、座の空気は十分に引き締まる。
「面を上げよ」
行興はゆっくりと顔を上げた。
惟豊は、しばらくその顔を見ていた。
値踏みするような露骨さはない。
だが、ただ礼を受けて終わる顔でもない。
「此度は、よう働いた」
惟豊が言った。
行興は一瞬、何のことかと思った。
戦で三百を出したことか。
蒲池の動きを流したことか。
阿蘇へ寄ると腹を決めたことそのものか。
だが惟豊は、そのどれとも言わなかった。
「軽々しく兵を動かさず、見るところを見て、決めるべきところで決めた」
行興は黙って聞いていた。
「それは口で申すほど軽くはない」
惟豊の声は重い。
「周りが騒ぐ時に、すぐ騒がぬこと。勢いへ流されず、家を残す道を選ぶこと。あれは若い当主には、なかなかできぬ」
行興はその言葉を、すぐには受け取れなかった。
褒められている。
それは分かる。
だが、胸の内では別の声がする。
――違う。
――立派だったからではない。
――怖かったからだ。
阿蘇が怖かった。
島津の影も怖かった。
大友の文が曖昧で、蒲池の焦りばかりが先に立っていることも怖かった。
そして何より、家を傾けることが怖かった。
行興は、しばらくしてようやく言った。
「……恐れながら」
「何だ」
「見えておっただけにございます」
惟豊は何も言わない。
「阿蘇に逆らう先が、細ってゆくのが見えておりました。ゆえに、動けなんだ」
その声は、自分でも思っていたより低かった。
「それでも、動かなんだのは、家を残したかったからにございます」
惟豊は小さく頷いた。
「それでよい」
行興は顔を上げた。
「よい、にございますか」
「当主とは、家を残す者だ」
惟豊は言った。
「勇ましく死ぬ者ではない」
その言葉は、行興の胸へまっすぐ落ちた。
阿蘇の当主は、こういう時に変な飾りを言わぬ。
そこがありがたくもあり、苦しくもあった。
惟豊が続けた。
「それで、そちらでも少しこちらのやり方を試したと聞く」
行興の肩が、わずかに動いた。
やはり、そこへ来る。
「……はい」
「どうであった」
その問いは静かだった。
静かだが、逃げようのない問いでもあった。
行興はすぐには答えなかった。
頭の中へ、宇土の村々の景色が戻る。
年貢を少し軽くした。
雑多な取り立てを一つ二つやめた。
流れていた者を、いくらか呼び戻した。
市へ出る荷の口も、少しだけ広げた。
それだけだった。
阿蘇の真似と呼ぶにも足りぬほど、ほんの一部である。
だが、それでも違った。
村の顔つきが変わった。
前より人が逃げぬ。
荷が止まりにくい。
百姓の返事が、わずかに柔らかくなる。
それが、行興には衝撃だった。
今まで当たり前と思っていた治め方の方が、当たり前ではなかったのだと、嫌でも分かったからである。
行興はゆっくりと言った。
「……違いました」
惟豊は黙って聞いている。
惟種もまた、一言も挟まぬ。
「思うていたより、ずっと違いました」
行興は続けた。
「少し軽くしただけにございます。少し、取り立てを緩め、少し、荷の口を広げ、少し、戻ってきた者を追わぬようにした」
自分で言いながら、胸の奥が重くなる。
「それだけで、村の顔つきが変わりました」
静かな間が落ちる。
「逃げると思うていた者が残りました。どうせ駄目だと思うていた田に、人が戻りました。市へも、少しずつ物が戻り始めました」
行興の指先が、膝の上でわずかに強ばる。
「……あまりに違うので、正直、恐ろしゅうございました」
その言葉に、宗運の目が少しだけ細くなる。
「恐ろしい、か」
惟豊が問う。
「はい」
行興は答えた。
「当家が今まで、どれほど民の息を詰まらせていたかが見えてしまいました」
言ってしまえば簡単だった。
だが、その言葉は名和の当主として、自分の家のこれまでを自分で裁くようなものでもあった。
「それに」
行興は少し息を継いだ。
「分かってしまったのです」
「何がだ」
「よいと分かっただけでは、できぬということです」
惟豊の眉が、ごくわずかに動く。
行興は、そこでもう引き返せぬと知った。
「取り立てを軽くするだけでは足りませぬ。村だけでも足りませぬ。市、道、蔵、文、兵、寺、人――全部が噛み合って、ようやく回る」
その声に、少しずつ熱が混じる。
「当家も真似てみました。ですが、真似は真似にございました」
胸が痛む。
自分の家を卑下したいわけではない。
だが、そこを誤魔化せば今日ここへ来た意味がなくなる。
「村は少し息をつきます。されど、その先が続かぬ。軽くすれば蔵が苦しくなる。蔵が苦しくなれば兵が痩せる。兵が痩せれば、また重く取らねばならぬ」
行興は俯きかけた顔を、無理に上げた。
「この家のやり方は、ひとつだけ抜き取って真似できるものではありませなんだ」
惟種が、その時はじめて口を開いた。
「そうだ」
行興はその短い一言を受けた。
責める声ではない。
だが、甘やかす声でもない。
「ゆえに」
行興は言葉を続けた。
「当家には、もう分かってしまいました」
喉が、わずかに詰まる。
「この先、半端に御家へ寄っておるだけでは、いずれ潰れます」
座がしんと静まる。
「阿蘇の後ろに隠れて、ただ命を長らえるだけでは、家は細るばかりにございます」
それは、ほとんど告白に近かった。
相良のように最後まで損得で距離を測るほど、名和は器用ではない。
蒲池のように意地を張るほど、もう余力もない。
ならばどうするか。
ここで線を越えるしかない。
行興は深く頭を下げた。
「願わくば」
声が少し震えた。
だが、それでも止めなかった。
「当家、正式に阿蘇家へ臣従致したく存じます」
その一言を出すまでに、自分がどれほど時間をかけたか、行興自身がいちばんよく知っていた。
名和は名和として立つ。
そう思ってきた。
どこかへ寄るにしても、最後の最後で膝までは折るまいと、心のどこかでは思っていた。
だが、それは結局、家を守る理ではなく、ただの見栄でしかなかったのではないか。
そう考え始めてからの夜は長かった。
父の名。
先祖の名。
宇土の地。
名和という家がこの先も続くのか、それとも自分の代で痩せ細って消えるのか。
考えるたび、胸の内で何かが軋んだ。
臣従とは、ただ頭を下げることではない。
君臣の筋を認めることだ。
家の形を、自分の手で変えることだ。
それを分かっていて、なお言うのだから、軽いはずがなかった。
「起請文も出します」
行興は顔を上げぬまま言った。
「必要とあらば、人も差し出します。所領のことも、安堵を賜る形にて構いませぬ」
そこまで言って、初めて少しだけ言葉が止まった。
いちばん言いにくいところが、まだ残っている。
行興は唇を湿らせた。
「ただし――」
惟豊が静かに言う。
「申せ」
行興は額を畳につけたまま、絞るように言った。
「名和の名だけは、どうかお残し下され」
その一言に、これまでのすべてが詰まっていた。
家を守るために臣従する。
だが、家の名まで消えては意味がない。
阿蘇の下へ入る。
それでも、名和の名で民を治め、名和の名でこの先を繋ぎたい。
そこだけは、どうしても譲れなかった。
「家が細ろうとも、名だけは守る」
そういう痩せた意地ではない。
逆だった。
名を残すためにこそ、ここで臣従するのだ。
行興は、その思いのすべてを、その短い願いへ押し込めた。
座は長く静まっていた。
誰も、すぐには口を開かぬ。
惟豊は名和行興を見ていた。
若い。
まだ若い。
だが、若いからこそ、ここまでの言葉を口にするのがどれほど苦しかったかも分かった。
負けたから降るのではない。
見たから降るのだ。
理が分かったから、自分で線を越えに来たのだ。
それは、戦で打ち負かして膝を折らせるより、ある意味では重い。
惟豊が、ようやく口を開いた。
「名を残したいと思うのは、当たり前だ」
行興の肩が、ほんの少し動く。
「名を捨てた者に、家は守れぬ」
その声は低く、揺らがなかった。
「ならば名和の名は残せ」
行興は思わず顔を上げた。
惟豊の顔に、安い情けはない。
だが、軽く切り捨てる冷たさもなかった。
「そのうえで、阿蘇の下で働け」
重い一言だった。
「御家の名を掲げるのではない。名和の名で働き、その働きで阿蘇に応えよ」
行興の喉が鳴った。
「は……」
「臣従とは、命だけ助かればよいということではない」
惟豊は言う。
「家を残し、名を残し、そのうえで君臣の筋を違えぬことだ」
「はっ」
「その覚悟があるなら、受けよう」
行興は、そこでようやく息を吐いた。
安堵ではない。
軽くなるのでもない。
むしろ逆だった。
自分で言い、自分で願い、それが受け入れられたことで、ようやく重さが本当の重さになった。
もう引き返せぬ。
名和はこれで、阿蘇の下へ入る。
それを決めたのは、他でもない自分だ。
胸の奥に、熱いものがゆっくり沈んだ。
惟種が、その時はじめて行興へ目を向けた。
「名和殿」
「は」
「名を残したいのなら、名だけ残すな」
行興は息を呑む。
「家を太らせよ」
短い。
だが、その一言は鋭く胸へ入った。
「阿蘇の下へ入るのは、細るためではない」
惟種は言う。
「ここから先、名和の名で人を食わせ、田を戻し、城を痩せさせぬなら、その名は残る」
行興は深く頭を下げた。
「肝に銘じます」
宗運が、静かに言葉を添えた。
「起請文の形はこちらで整えましょう」
「ありがたく」
「ただし、文を出して終わりではありませぬ」
「はい」
「村の立て直しも、市の口も、兵の置き方も、これから実際に回していただきます」
「承知しております」
行興の声は、もう先ほどより揺れていなかった。
覚悟とは、決める前がいちばん重い。
決めてしまえば、その重さは仕事になる。
惟豊が最後に言った。
「よい」
それで話は決まった。
名和は正式に阿蘇へ臣従する。
名和の名は残す。
だが、名だけ残して中身のない家にすることは許されぬ。
働き、太らせ、家を続ける。
それが、これからの筋になった。
座を辞したあと、行興はしばらく廊の端で立ち止まった。
外ではまだ蝉が鳴いている。
陽は高いままなのに、どこかもう夏の盛りではない。
その半端な熱が、妙に胸に沁みた。
内河義則が、少し離れたところで待っていた。
顔を見れば、だいたいのことは察しているらしい。
「殿」
行興は、すぐには答えなかった。
「……申した」
「はい」
「臣従を願うと」
義則は黙って頭を下げた。
それだけで十分だった。
慰めも、励ましも要らぬ。
今はそんなものをかけられれば、かえって胸が軋んだろう。
行興は庭を見た。
名和の名を残したい。
そのために、阿蘇へ臣従した。
言葉にしてしまえば、それだけのことだ。
だが、そこへ至るまでに捨てたもの、呑み込んだもの、見ぬふりをやめたものは少なくない。
悔しさがないわけではなかった。
阿蘇が羨ましくないわけでもなかった。
自分の家だけで、あのように国を太らせられぬことが、苦くないはずもない。
それでも。
それでも、家を残すのなら、この道しかなかった。
行興は静かに言った。
「負けたからではない」
義則が顔を上げる。
「見たからだ」
その声は小さい。
だが、自分へ言い聞かせるには十分だった。
「見てしまったのだ。どちらが先へ続く家かを」
義則は何も言わない。
「ならば、我らも続く方へ入る」
行興はそう言って、ようやく足を動かした。
臣従は終わりではない。
むしろ、ここから先の方が長い。
名を残すと願った以上、その名を軽くすることは許されぬ。
阿蘇の下で学び、働き、家を太らせねばならぬ。
その重さを胸に抱えながら、名和行興は館を後にした。
夏の終わりの熱は、まだ地に残っている。
だが、その熱の下で、名和の行く道はもう定まっていた。




