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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第五十二話 春に張る理

天文十六年(一五四七年)四月。


 阿蘇の山は、ようやく白を脱ぎ始めていた。


 高みにはまだ雪が残る。だが、麓ではもう土がぬるみ、畦の草も色を戻しつつある。水を引かれた田には空が映り、門前市では冬より一段早い足音が行き交っていた。


 春である。


 田へ人を出し、蔵を開き、馬を動かし、山から下ろすものを見定める時だ。家が回っているなら、本来は手を止めてよい頃ではない。むしろ、もっとも忙しく、もっとも実りに近い時分にあたる。


 それでも、その春に、惟豊は館を発つことを決めていた。


 行き先は上方である。


 表向きは参詣と挨拶。だが、その実、朝廷および幕府筋への調整に他ならぬ。


 阿蘇はもとより大宮司家であり、天つ日嗣の流れを引く家として、朝廷筋への顔は浅くない。加えて近ごろは、幕府への献金も細うとも切らさず続けてきた。今のうちに都筋へ理を通し、肥後を治める実がどこにあるかを先に刻んでおけば、少なくとも他家が阿蘇へ露骨に干渉することはしにくくなる。


 むろん、ただで買える理ではない。


 銭も要る。物も要る。人も要る。


 この春に無理を通せば、来年は来年で、さらに重い献じ物を積まねばなるまい。だが惟豊は、それでも今だと見た。


 肥後守護の理を、少しでも阿蘇へ寄せる。


 筑後へもまた、大友に実なしという空気を薄く流しておく。


 今の阿蘇が取りに行くべきは、その二つだった。


 それを決めた翌朝、宗運のもとへ忍びが来た。


 まだ日も高くならぬうちである。


 忍びは、土埃も払わぬまま膝をつき、低く言った。


「蒲池にございます」


 宗運は顔を上げた。


「申せ」


「文の往復あり」


「相手は」


「少弐筋にございます」


 座の空気が、そこで少しだけ変わった。


 その場には惟豊、惟種、宗運、それに鍋島清房もいた。清房は最近では、もはや末席に置くだけの者ではなく、龍造寺・肥前筋の見立てを聞くためにも、こうした場へ呼ばれるようになっていた。


 惟豊が、低く問う。


「確かか」


「はい。人の動きも荷の動きも、ただの挨拶ではありませぬ」


 忍びは答える。


「文だけならまだ紛れもありましょう。されど、馬の替えが早うございます。宿を取る顔も、荷を受ける顔も、同じ筋に見えませぬ」


 宗運が短くうなずく。


「兵へ繋がる文だな」


「おそらくは」


 惟種は黙っていた。


 少弐。


 その名を聞いた時、胸の内にある別の重さが、ひとつだけ形を取る。


 龍造寺家兼に約したこと。

 龍造寺を龍造寺として復させること。

 その先を阻むものとして、いずれ必ず越えねばならぬ家。


 いま、蒲池がそこへ手を伸ばしている。


 ならばそれは、ただ阿蘇を嫌っているだけではない。阿蘇の後ろで育ち始めた龍造寺の未来まで、まとめて折りに来ようとしているのだ。


 惟豊が言った。


「順だな」


「はい」


 宗運が答える。


「まずは問うておくべきにございましょう」


 問うべき相手は二つある。


 蒲池と、大友である。


 名和より届いた密書が真であれば、蒲池は三家の理を外で曲げようとした。そのうえ大友の名まで曖昧に使うたのであれば、今度は大友の側にも信を問わねばならぬ。


 惟種が、そこで口を開いた。


「蒲池へは、真意を問え」


「はい」


「なぜ外で人を集めようとしたか。三家の理をどう考えるか。境目を再び乱す気があるのか。そこを一つずつ問う」


「は」


 宗運はすぐに応じる。


「大友には」


 今度は惟豊が続けた。


「大友の裁きの名が、外でどう使われたかを問う」


 声は低い。

 だが、重い。


「三家の座で定めた理を、こちらは違えておらぬ。ならば、大友の名が外で軽く使われたなら、それは阿蘇だけの話では済まぬ」


 宗運が深く頭を下げる。


「しかと」


 惟種は、そこでさらに一言足した。


「相良にも、ひとつ出せ」


 惟豊が目を向ける。


「探るのか」


「うむ」


 惟種はうなずく。


「詰問ではない。こちらは理を違えぬ、そちらも違えぬと見ている――そういう文だ」


 清房が、そこで小さく息を吐いた。


「相良には、それが一番効きましょうな」


「腹を見せぬ者には、腹を見せぬまま逃げ場を残してやる方が動く」


 惟種の返しは早い。


 清房は、その言葉を聞いてわずかに目を細めた。


「若君は、敵を追い詰める時と、逃げ道を残す時の差をよう御存じだ」


「知らねば家は取れぬ」


 それで話は決まった。


 蒲池へは詰問。

 大友へは信を問う文。

 相良へは、柔らかい探り。


 名和については、いまはまだ返しを急がぬ。


 あちらはすでに、こちらへ寄る道を自ら見せてきた。軽々しく抱えればかえって崩れる。まずは目の前の火種に順をつけ、そのあとで改めて重く受けるべき話だった。


 使者が立つ。


 蒲池へ向かった者には、文だけでなく口上も持たせた。曖昧な返しを許さぬためである。


 大友へ向かった者には、礼を欠かさぬよう念入りに言い含めた。あちらはまだ切る相手ではない。だが、信は問う。理を問う。そこを違えれば、惟豊がこの春に都筋へ走る意味が薄れる。


 相良へは、あえて軽い文となった。


 乱れを好まぬ家と見ている。

 こちらもまた、軽挙はせぬ。

 もし耳に入ることあらば、知らせてほしい。


 そこまでである。


 返答は、すぐには来なかった。


 先に動いたのは惟豊である。


 四月の半ば、まだ朝霧の残るうちに、惟豊は上方へと館を発った。


 人数は絞った。

 だが、護衛は薄くない。


 騎馬だけではない。山も道も分かる者、文を預かる者、都筋の礼を知る者、途中の宿を押さえる者。表向きは参詣と挨拶であっても、その実は阿蘇の理を運ぶ旅である。軽くしてよいはずがなかった。


 惟種は門の前まで出た。


 宗運も、清房も、その後ろにいる。


 惟豊は馬上から、惟種を見た。


「留守を預ける」


「はい」


「兵のことはおぬしが見よ」


「はい」


「家の理を飛ばすな。だが、手遅れにもなるな」


「承知しております」


 惟豊は、そこで宗運を見た。


「宗運」


「は」


「若君を繋げ」


「はっ」


「清房」


 鍋島清房が深く頭を下げる。


「は」


「肥前筋の見立ては、そなたがよく見ておけ」


「承る」


 惟豊はそれでよしとした。


「戻りは、早くて六月の初めだ」


 それは約束ではない。

 目安である。


 上方へ向かう道は長い。都筋の話は、こちらが急いだところで急には片づかぬ。銭を積み、顔を繋ぎ、理を置いてくるには、それだけの間が要る。


「それまで、家を痩せさせるな」


「はい」


 惟豊は、そこでようやく馬首を巡らせた。


 春の光の中を、列はゆっくりと館を離れていく。


 惟種は、その背を見送った。


 父がいない。


 それはこの家にとって、思っている以上に大きい。惟種が兵を見、宗運が実務を回しても、表の顔、名で受ける重さ、外へ出る理――そこにはやはり惟豊の存在が要る。


 だが、だからこそ今出る意味がある。


 阿蘇が大きくなりすぎる前に、都筋に手を打つ。

 阿蘇が手を伸ばす前に、他家が軽々しく手を伸ばせぬ形を先に作る。


 その役は、惟豊にしか負えなかった。


 館へ戻ると、宗運が低く言った。


「危うい時に出られましたな」


「うむ」


 惟種は短く答える。


「だが、出ねばならぬ時でもある」


「はい」


「父上が不在のうちに、こちらが崩れれば終わりだ」


「崩しませぬ」


 宗運の返しは早い。


 そのとき、廊下の向こうから使いの足音が近づいた。


「蒲池より、返書にございます」


 早くはない。

 だが、遅すぎるほどでもない。


 宗運が文を受け取り、惟種へ目を向ける。


「開けよ」


 文面は、予想を越えるものではなかった。


 知らぬ。

 誤解である。

 そのような企てはない。

 近ごろ家中にも出入りが多く、誰が何を言いふらしたか分からぬ。

 もう少し内を確かめたうえで、あらためて申し開きたい。


 つまり、否認と引き延ばしである。


 惟種は最後まで読み、宗運へ渡した。


「薄いな」


「はい」


 宗運も短く答える。


「否定はしておる。だが、どこも切れておりませぬ」


「時間を稼いでおるだけか」


「おそらくは」


 清房が、その横で低く言った。


「少弐と文を交わしておるなら、なおさらすぐには切れませぬな」


 惟種は、うなずいた。


 そこへ、さらに別の使いが来た。


「大友より、返書にございます」


 今度は宗運ではなく、惟種が自ら受け取った。


 大友の文は、蒲池より整っている。


 だが整っているぶん、なお冷たい。


 阿蘇の疑念は承った。

 大友の名が外で軽々しく使われたなら遺憾である。

 ただし、事の真偽はなお内を確かめるべきにて、今しばし返答を待たれたい。

 そちらもまた、軽挙あるまじきこと。


 惟種は、そこで小さく笑った。


「見事に、何も申しておらぬ」


 宗運が受け取り、読み終えて言う。


「はい。否定もせず、認めもせず」


「大友らしい」


 清房の声には、わずかな苦みがあった。


 大友は深入りせぬ。

 だが、名だけは汚したくない。


 だから内を確かめるという。

 それは真に確かめるというより、今しばし阿蘇も蒲池も動くな、と言っているのに等しい。


 さらに日を置いて、相良からも返しが来た。


 こちらはもっと短い。


 相良家もまた乱れを好まぬ。

 近ごろ境目にさまざまな噂があることは承知している。

 されど、当家はいま軽々しく腹を見せるつもりはない。

 何か耳に入ることあらば、その時は知らせよう。


 それだけだった。


 だが、それで十分でもあった。


 相良はまだどちらへも倒れていない。

 ただ、阿蘇にだけは「こちらを敵と決めるな」と言ってきている。


 惟種は三つの返書を並べた。


 蒲池は引き延ばす。

 豊後は理を掲げたまま、なお内を確かめるという。

 相良は何も約さず、何も違えぬ顔を見せる。


 返しは違う。


 だが、その違いのすべてが、今はまだ刃へ届かぬ。


 それがかえって、春の空気を重くしていた。


 宗運が言った。


「誰もまだ決めておりませぬな」


「いや」


 惟種は答えた。


「決めておる」


「何を、にございますか」


「すぐには表へ出ぬ、ということをだ」


 宗運はそこで、ようやく小さく息を吐いた。


「なるほど」


「表へ出ぬまま、夏までに形を整えるつもりだろう」


「蒲池と少弐、にございますか」


「おそらくは」


 清房が、黙ってその言葉を聞いていた。


 龍造寺の家を再興させる。

 そう若君は言った。

 ならば、それを折るために少弐が動く筋もまた、よく分かる。


「では、こちらは」


 宗運が問う。


「繋ぐ」


 惟種は言った。


「父上が戻るまで、この家を乱さぬ。兵を崩さぬ。番所を締める。荷を止めぬ。名和には急ぎの返しをせぬ。だが、忘れたとも思わせぬ」


「はい」


「蒲池は、もう一度問う」


 惟種の声が、そこで少しだけ低くなった。


「ただし今度は、誤解だの内を確かめるだのでは済まぬようにな」


 宗運が深くうなずく。


「返答次第では」


「うむ」


 惟種は、豊後からの文を見下ろしたまま言った。


「問われるのは蒲池だけでは済まぬ」


 小座敷が、しんと静まった。


 大友の裁きの名を外でどう使うたか。

 三家の理をどこでどう曲げたか。

 もしそこまで踏みにじっているなら、今度は大友の理そのものが、阿蘇の前で問われることになる。


 春はもう深い。


 だが、その深さの下で、まだ誰も兵を挙げてはいない。


 それでも、刃になる前のものは、すでに土の下で伸び始めていた。

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