第五十一話 名和よりの密書
天文十六年(一五四七年)三月の末。
山の雪はもう高みへ退き、麓では土の匂いが少しずつ戻っていた。
阿蘇の館でも、冬の守りから春の差配へと手が移っている。田へ水を回す筋、門前市へ入る荷の順、番所の詰め、人足の割り振り、兵糧の蔵開け。二月の評定で定めたことが、ひとつずつ現実の手に移され始めていた。
表向きには、家はよく回っている。
だが、よく回る時ほど、外からはよく見える。
その日の昼過ぎ、宗運のもとへ急ぎの報せが入った。
「名和より使者にございます」
宗運は一瞬だけ目を細めた。
「名和、か」
「はい。急ぎの由にて」
それを聞いた時、宗運はすぐには返事をしなかった。
二月の評定で、相良・名和・蒲池、それぞれに不穏の気配があると見た。そこへ、まず名和から来た。
偶然で済ませるには、少し出来すぎている。
「若君と惟豊様へ」
「は」
「すぐ申し上げろ。客間ではなく、奥の小座敷へ通せ。供は絞らせろ」
使いが下がる。
宗運は、短く息を吐いた。
静かな家は、それだけでよい家ではない。静かなうちに何が寄ってくるかで、その家の先が決まる。
ほどなくして、小座敷に惟豊、惟種、宗運が揃った。
通された使者は、名和行興その人ではなかった。
内河義則である。
代々名和の奥で家政を支えてきた家の者という体で、若い当主が軽々しく座を誤らぬよう、常に目を光らせる役でもあった男だ。前に会った時と同じく、声は低く、姿勢も崩れない。だが、その目の奥には、前よりも一段深い疲れがあった。
礼が済む。
最初に口を開いたのは惟豊だった。
「急ぎと聞いた」
「はい」
内河義則は深く頭を下げた。
「名和家当主行興の名にて、まずは内々に申し上げるべきことがございます」
「申せ」
義則は懐から文を取り出した。
折り目の深い、短い文だった。見せるために持ってきたものではない。手の内を最小限にまとめた書き付けであることが、見ただけで分かる。
「先だって、蒲池殿より、相良殿と当家へ相談が持ちかけられました」
宗運の目がわずかに細くなる。
惟種は黙って聞いている。
「阿蘇の膨らみを、このまま見てはおけぬ。流民を吸い、市を太らせ、龍造寺を抱え、そのうえ島津とも縁を結んだ。今のうちに抑えねば、夏にはさらに重くなる――そのような趣旨にございます」
惟豊は動かなかった。
「大友の名も出たか」
「出ました」
内河義則は答える。
「豊後筋よりの内意あり、とのことで、文まで示されました」
宗運が低く言う。
「花押は」
「明らかではございませぬ」
その一言で、座の中に流れる空気が少し変わった。
予想の外ではない。
むしろ、その方が大友らしい。
「相良は何と」
今度は惟種が問うた。
義則は一瞬だけ惟種の方を見た。
幼い。だが、問うところはすでに家の芯だった。
「相良殿は、すぐには乗りませなんだ」
「ほう」
「大友が本当に動く保証がない限り、阿蘇と島津に挟まれて軽々しく兵は動かせぬ、と」
宗運が、ごく小さくうなずく。
相良晴広ならば、まずそう見る。
「名和は」
惟豊が問う。
義則は、そこでひと呼吸置いた。
「当家も、その場では同じく保留いたしました」
表向きは、である。
だが、ここへ義則が来ている時点で、それだけでは終わっていない。
「それで」
惟種が言った。
「今日ここへ来たのは、その話を知らせるためだけではあるまい」
義則は深く頭を下げた。
「若君の仰せの通りにございます」
小座敷が、そこでさらに静まる。
惟豊も、宗運も、その先を待った。
「名和は」
義則の声は低い。
「この先、阿蘇に敵対して家を保てるとは思うておりませぬ」
惟種は何も言わない。
ただ、まっすぐ見ている。
「流民は、もう止まりませぬ」
義則は言った。
「村は痩せ、田は細り、荷もまた阿蘇へ寄りつつあります。しかも阿蘇はただ吸うだけではなく、吸った者どもを食わせ、根を下ろさせておる」
その言葉に、宗運の眉がほんのわずかに動いた。
敵であれ味方であれ、そこを見抜く目はあるということだ。
「当家は、阿蘇のやり方を学びたいと願うております」
義則は頭を下げたまま続ける。
「軽税のこと。流民の受け方。田の戻し方。市の太らせ方。文字の教え方。傷病の扱い。兵の整え方――すべてを、とは申しませぬ。されど、いまの名和を立て直すには、阿蘇の理を借りねばなりますまい」
惟豊はそこで初めて、惟種へ目を向けた。
この手の話は、もはや若君を抜きにしては進まぬ。
惟種はしばらく義則を見ていた。
やがて、口を開く。
「学ぶことはできよう」
義則の背が、わずかに強ばる。
「だが」
惟種の声は静かだった。
「真似ることは難しい」
義則は顔を上げた。
「若君」
「軽税だけを写しても、回らぬ」
惟種は言う。
「人を受けるだけでも足りぬ。市だけ立てても太らぬ。田だけ戻しても続かぬ」
言葉は低い。
だが、一つ一つが明確だった。
「帳面がいる。道がいる。番所がいる。寺がいる。医がいる。兵がいる。誰に何をさせるかを知る者がいる。皆が噛んで、ようやく家は太る」
宗運が、その横で補う。
「阿蘇は一つの策で太ったのではありませぬ」
「はい」
「一つだけ盗めば足りる、と思うなら間違いです」
義則は黙って聞いている。
惟種は続けた。
「本当に取り入れるなら、当家の者が入る」
それは小さな声だった。
だが、義則には十分だった。
「土の癖を見、人の癖を見、どこを先に変え、どこを後に回すかを見ねばならぬ。外から文だけ渡して済む話ではない」
義則の目が、わずかに沈む。
その重さを、すでに理解していたのだろう。
「若君」
「何だ」
「それは」
義則は、言葉を選んだ。
「当家へ、阿蘇の者を入れるということにございますか」
「そうだ」
惟種は言った。
「役人も、寺も、医も、兵も、見に入るだろう。そうなれば、もはや境目の友として助言を交わすだけでは済まぬ」
義則は何も言わない。
惟種がさらに言った。
「名和もまた、当家の内へ半ば入ることになる」
それが、婉曲な言い方でしかないことは、座にいる誰もが分かっていた。
それはすなわち、本格的な従属、あるいは臣従へ近づくということだ。
義則はゆっくりと息を吐いた。
「それでも」
声は低い。
「痩せて滅ぶよりは、ましかと存じます」
惟豊の目が、そこでほんのわずかに細くなる。
軽い使者ではない。
家の内をそのまま運んで来ている。
「行興殿も、同じお考えか」
惟豊が問うた。
義則はうなずいた。
「いまここで、従属を願うとまでは申せませぬ」
そこは一線だ。
「されど」
義則は続ける。
「阿蘇に敵対して家を削るより、阿蘇へ寄って家を残す方が理に適うのではないか――そのように、殿は見ておられます」
宗運がそこで言った。
「戦があれば」
「は」
「名和はどう動く」
義則は、今度は迷わなかった。
「阿蘇へ馳せ参じる用意がございます」
惟種は、そこで初めて少しだけ目を細めた。
「口だけではあるまいな」
「口だけではございませぬ」
義則は答えた。
「だからこそ、こうして先に文を持って参りました」
密告と従属相談。
それを一つの文脈に乗せてきたのだ。
宗運が低く問う。
「相良は」
「静観にございます」
義則は答える。
「少なくとも、今は腹を見せませぬ。阿蘇にも、蒲池にも、どちらにも道を残しておるように見えました」
「晴広らしいな」
惟種がぽつりと言った。
義則はその言葉に何も足さない。
相良を売りに来たわけではないのだ。
「よい」
惟豊が言った。
「そなたの文と口上、たしかに承った」
義則が深く頭を下げる。
「ありがたく」
「ただし、今この場で名和のことまで決めはせぬ」
惟豊の声は低い。
「まずは、目の前のことを片付ける」
義則は、そこでようやく少しだけ顔を上げた。
「蒲池、にございますか」
「そうだ」
今度は惟種が答えた。
「名和の申し出は、軽くはない。ゆえに軽く返せぬ。だが、その前に、蒲池へ問わねばならぬことがある」
義則は黙って聞いている。
「これがまことなら、乱そうとしたのは境目だけでは済まぬ」
惟種の声は低い。
「三家の座で定めた理まで踏み荒らそうとしたことになる」
宗運が、そのあとを継ぐ。
「しかも、大友の名を曖昧に使うたとあれば、問われるのは蒲池だけでは済みませぬ」
義則はその重みをよく知っていた。
だからこそ、今日ここへ来たのだ。
話はそこで一度切れた。
義則はその日、館の内に泊め置かれることとなった。名和へすぐ返すには、逆に早すぎる。返す文の形もまだ定め切ってはいない。
人が下がり、座が静かになったあと、宗運が低く言った。
「名和は、だいぶ腹を括っておりますな」
「うむ」
惟豊が答える。
「括らねば痩せるところまで来ている、ということだ」
惟種は、義則が置いていった文を見ていた。
字は整っている。
だが、その整いの奥に、切羽詰まった家の息遣いがある。
「受けるおつもりですか」
宗運が問う。
「いずれは受ける」
惟種は言った。
「だが、今すぐ軽く受ければ、名和は理だけを貰うて崩れる」
「はい」
「当家の形は、形だけ写しても立たぬ」
惟種は文を畳んだ。
「人を入れねばならぬ。人を入れるなら、もうただの隣付き合いでは済まぬ」
惟豊が静かにうなずく。
「急がぬことだ」
「うむ」
「寄ってくる家を、ただ嬉しがって抱えるな。抱えれば、その分だけ責も増える」
「分かっております」
そこへ宗運が、別の文箱を引いた。
「では先に、こちらですな」
「蒲池か」
「はい」
宗運はうなずく。
「問うべきことは一つではありますまい」
惟種は、そこで初めてはっきりと言った。
「蒲池へ使者を立てねばならぬな」
宗運が応じる。
「は」
「何の真意か」
「なぜ三家の理を外で曲げたか」
「大友の名をどう使うたか」
「境目を再び乱す気があるのか」
惟種がひとつずつ置いてゆく。
惟豊は、その言葉の終わりを受けて静かに言った。
「返答次第では――問われるのは蒲池だけでは済まぬ」
小座敷が、しんと静まった。
三家の座で定めたこと。
大友の名で裁かれたこと。
その筋目まで弄んだのであれば、話はもう境目一つの乱れでは終わらない。
宗運が低く言う。
「大友の裁きそのものが問われることになりますな」
「そうだ」
惟豊は短く答えた。
春は近い。
だが、芽吹くものばかりではない。
土の下では、刃になるものもまた、静かに形を取り始めていた。




