第三十八話 拾う手、切る口
戦の熱は、勝った側にもまだ残っていた。
火薬の匂いは薄れ始めている。だが、白煙の名残は低く漂い、踏み荒らされた土には血と泥が混じっていた。倒れたまま動かぬ者、うめきながら運ばれる者、槍を杖にようやく立つ者。戦が終わったといっても、それは刃を交え終えたというだけのことだった。
阿蘇の陣では、追い討ちより先に水が運ばれていた。
惟種は宗運の傍らで、その様子を見ていた。
阿蘇の兵だけではない。龍造寺の兵にも水が配られ、傷を負った者には布が当てられている。深手の者は分けられ、軽傷はその場で洗い、焼けた皮膚には油が塗られていく。手当ての手つきには慣れが足りぬ者も多いが、それでも「捨てぬ」という方針だけははっきりしていた。
「若君」
宗運が低く言った。
「主立った者は押さえております」
「家兼殿は」
「おられます。鍋島清房、龍造寺家宗、百武賢兼も、いずれもいまは兵を抑える側へ回っております」
惟種は短くうなずいた。
第三十七話で槍は伏せられた。だが、槍を下ろしただけで、すぐに心まで下るわけではない。いま必要なのは、降した敵を再び暴れさせぬことと、同時に、暴れさせぬ理を与えることだった。
「兵の様子は」
「まだ固うございます」
宗運は答えた。
「こちらの兵も、向こうの兵もです。勝ったばかりの兵に情けを覚えさせるのは易しくありませぬ。負けたばかりの兵に頭を下げさせるのも同じです」
「なら、先に見せる」
「何を」
「阿蘇は、殺し切るために戦ったのではないと」
宗運は、わずかに目を細めた。
「ようございます」
そこへ高森惟房が戻ってきた。鎧の袖に血が付いているが、自分の血ではないらしい。
「若君、火薬で焼かれた者が幾人かおります。龍造寺の兵にも」
「水で冷やしたか」
「はい。だが、まだ手足をばたつかせる者もおります」
「押さえつけるな。二人で支えろ。布は濡らして替え続けろ」
「承知」
高森が駆け戻る。
北里政久もすぐ後ろから現れた。こちらは顔に煤が付いている。
「若君、龍造寺の兵、逃げ散った者を少しずつ集めております。ただ、蒲池の旗が引いたと皆知っておるようで……空気が、だいぶ悪いです」
「悪い方がよい」
惟種が言うと、北里はきょとんとした。
「よい、ですか」
「蒲池へ戻る道が、あちらから閉じたのだと兵の腹に落ちる。なら、こちらが拾う意味が出る」
宗運がその横で補った。
「恨みの行き先が定まれば、逆に扱いやすうなる」
北里はまだ半分わかっていない顔だったが、それでも「は」とだけ言って走っていった。
少し離れたところで、鍋島清房がそのやり取りを見ていた。
土と汗で汚れてはいるが、目だけは冴えている。戦の最中より、むしろ今の方がよく働いているようにも見えた。
「若君」
清房が進み出る。
「申せ」
「敵兵まで拾われますか」
惟種は清房を見た。
「捨てれば賊になる」
「拾えば」
「借りになる」
清房はしばらく黙ったあと、苦く息を吐いた。
「まこと、筋は通っておる」
その横で龍造寺家兼も、疲れ切った顔で立っていた。老いてなお姿勢は崩れていないが、さすがに戦のあとだ。肩に、長い年月の重みがそのまま乗って見えた。
「若君」
「うむ」
「先ほどの言葉、偽りではありますまいな」
「家を残す話か」
「そうだ」
惟種はうなずいた。
「偽りではない」
「ならば」
家兼は後ろを振り返った。龍造寺の兵が、まだ疑いの色を顔に残しながらも、少しずつ槍をまとめ始めている。百武賢兼が荒っぽく声を張り、家宗は唇を噛みながらも兵を抑えていた。
「まずは兵を助けていただきたい」
「そのために水を回している」
惟種は答えた。
「阿蘇の兵も、龍造寺の兵も、傷は同じように痛む」
百武が、それを聞いてわずかに顔をしかめた。情けを施されるようで面白くないのだろう。だが、否定もしない。否定できるだけの足場が、もう蒲池の側にはないと分かっているからだ。
そのとき、陣の外側で急ぎの声が上がった。
馬のいななき。使番の呼ばわり。足音は乱れてはいないが、明らかに早い。
北里がまた駆け込んでくる。
「若君、使者!」
「どこからだ」
「蒲池より!」
場の空気が、ぴたりと止まった。
百武の顔に露骨な怒りが走る。家宗も同じだ。家兼は目を閉じず、ただ静かに待った。鍋島清房だけが、まるで「来たか」と言いたげな顔をした。
宗運が命じる。
「通せ」
やがて、一人の使者が泥にまみれた姿で進み出た。供は少ない。急ぎの使いだ。
使者は額を地へ擦りつけるようにして言った。
「蒲池殿より、急ぎ申し入れにございます」
宗運は無言で先を促す。
「此度の働き、蒲池家は関知いたしておりませぬ」
その一言で、百武が一歩踏み出した。
「ぬかせ!」
怒声に使者がびくりと身を縮める。
「龍造寺を前へ立てたのは誰だ! 後ろに旗を立てておいて、知らぬで済むか!」
家宗も鋭く言った。
「勝手にやった、だと? ならばあの後詰の旗は何だった!」
使者は青ざめたまま言葉を継ごうとする。
「龍造寺方が、ことを早めたものと――」
「黙れ」
今度は家兼の声だった。
老いた声だが、よく通る。その一言で百武も家宗も押しとどまった。
惟種は、使者をじっと見た。
「蒲池殿は、本当に関知せぬと申されるのだな」
「は、はい」
「龍造寺が勝手に兵を進めたと」
「そのように……」
惟種は小さく頷いた。
「よく分かった」
使者の顔に、一瞬だけ安堵が浮かぶ。
だが次の言葉で、その安堵はすぐ消えた。
「ならば龍造寺を返す先は、もはや蒲池ではあるまい」
使者は目を見開いた。
宗運が、その理をそのまま言葉にする。
「蒲池殿が関知なき由、しかと承りました。ならば此度の戦の始末に、蒲池殿が龍造寺の身柄を論ずる筋もございませぬな」
「い、いや、その――」
「違うか」
宗運の声は静かだった。
「知らぬと申される。勝手にやったと申される。であれば、巻き込まれたのは阿蘇であり、拾うのも阿蘇です」
鍋島清房が低く言った。
「……はっきりしましたな」
それは使者に向けた言葉ではなかった。龍造寺の家中へ向けた確認だった。
家兼もまた、ゆっくり息を吐いた。
「庇護ではなかった、か」
百武が悔しそうに顔を背ける。家宗は歯を食いしばっている。
惟種は、そこで一つだけはっきりさせた。
「伝えよ」
使者が震えながら顔を上げる。
「阿蘇は攻められた側だ。そのうえで兵を討ち捨てず、戦を鎮め、傷を拾っている」
「は……」
「蒲池殿が関知せずと申されるなら、なおさら龍造寺は阿蘇預かりでよい」
使者は完全に返す言葉を失った。
宗運が畳みかける。
「そして、阿蘇よりあらためて問いに参る。関知せぬと仰せなら、その証も立てていただこう」
使者はようやく「承ります」とだけ言い、退いていった。
その背を見送りながら、百武が吐き捨てるように言う。
「ようもまあ、あそこまで切れるものよ」
「切らねば、自分が巻かれるからだ」
清房が答えた。
「むしろ、あれでよい。迷われる方が厄介だ」
家兼は何も言わない。ただ、その沈黙がすでに十分な答えだった。龍造寺にとって、蒲池へ戻る道は今ここで完全に閉じた。
宗運はすぐに実務へ移った。
「家兼殿」
「うむ」
「兵を解きます。まず怪我人を分け、一門と重臣は別にお移りいただく。兵はそのままにはせぬ。混ぜすぎもせぬ。段を分けて預かる」
「よかろう」
「起請文も後でいただきます。いまはまず、勝手な離散を止める」
家兼はうなずいた。
「清房」
「は」
「百武と家宗を抑えよ。今は怒りより先に、家を残す」
「承知」
清房の返答は短かった。
惟種は宗運の横顔を見た。もう次の段へ移っている。龍造寺をどう抱えるか。蒲池へどのような形で問いを立てるか。さらにその先、誰がこの混乱に口を出してくるかまで、すでに数えている顔だった。
「宗運」
「はい」
「蒲池へ向かう支度は見せる」
「実際に踏み込みますか」
「まだだ」
惟種は答えた。
「だが、向かうつもりであると相手に見せる必要はある」
「蒲池を揺らすため」
「それもある」
「ほかには」
惟種は、血と煙の残る野の向こうを見た。
「大友に考える間を与えぬためだ」
宗運の目が細くなる。
「来ますか」
「来る」
惟種は言った。
「蒲池が自分で収められぬとなれば、大友は秩序の顔をして口を出す」
宗運は、そこで小さくうなずいた。
「ならば先に形を作るべきですな」
「うむ。龍造寺を拾った事実を固める。手当てをし、兵を分け、身柄を預かり、蒲池が切ったという言を押さえる」
「そのうえで、大友を迎える」
「そうだ」
少し離れたところで、光永惟清が筆を走らせていた。傷の数、預かった者の名、使者の言葉。戦のあとに残るのは血だけではない。記しもまた、後の理になる。
高森が戻ってくる。
「若君、向こうの兵のうち、こちらに頭を下げる者も出始めました」
「早いな」
「蒲池の使者の言を聞いて、腹が決まったのでしょう」
惟種は頷いた。
「それでよい」
戦は終わった。
だが、本当に終わったのは、龍造寺と蒲池のつながりの方だったのかもしれない。
家兼は、その遠ざかる使者の背を見たあとで、静かに言った。
「若君」
「うむ」
「阿蘇は、敵を減らすのでなく、敵の行き先を消しておるのだな」
惟種は少しだけ考えた。
「敵の行き先がなくなれば、あとは選ばせるだけだ」
家兼は苦く笑った。
「まこと、童ではない」
惟種は答えなかった。
ただ、袖の中で小さく拳を握った。
龍造寺は阿蘇へ流れた。蒲池は自ら切った。ならば次に来るのは、もっと大きな手だ。豊後から伸びてくる秩序の手。裁きを装い、戦後を縛ろうとする手。
その手と斬り結ぶ前に、こちらは座の上の形を整えねばならない。
陽は少しずつ傾き始めていた。
手当ての水音はまだ続く。うめき声も消えない。だが、その中で阿蘇の陣はもう次の戦を始めていた。槍ではない。言葉と理の戦だ。
宗運が静かに頭を垂れる。
「若君。次の場は、野ではありませぬな」
惟種はうなずいた。
「うむ。次は座の上だ」
その声は幼い。
だが、もう誰ひとり、それを幼いだけの声とは思わなかった。




