第三十五話 夏の急報
天文十五年(1546年)九月
稲の穂は、もう重く垂れていた。
夏の熱はまだ残っている。だが風の底には、わずかに秋の硬さが混じり始めている。田では刈り入れの段取りが進み、市には荷が満ち、山も鍛冶場も止まってはいない。
その、止まっていない最中に報せは来た。
昼を少し回ったころだった。
門を叩く音が、館の空気を一気に変えた。
ただの使いの足ではない。
急ぎの足だ。
惟種が廊下へ出た時には、宗運がすでに受け取っていた。泥のついた脚絆、荒い息、汗に濡れた額。走り役の若侍は、膝をついてもまだ肩で呼吸をしている。
「申せ」
宗運の声は低い。
「筑後筋にて動きあり。蒲池の兵、龍造寺を先に立てて南へ押し出す気配にございます」
やはり、と惟種は思った。
県境の練兵。
兵の増え。
市に集まる人と物。
それを見て、向こうが勝手に怖がった。
惟種は胸の内で、静かに息を吐いた。
史実にはない揺れ方だ。
だが、起きた以上は受けるしかない。
「数は」
宗運が問う。
「龍造寺方、三百。蒲池より添えとして百ほど。合わせて四百ほどと見ます」
惟種の目が少しだけ細くなる。
龍造寺は三百。
蒲池が百。
まさしく“様子見の支え”だ。
本気で立てるつもりなら、もっと出す。
本気で守るつもりでも、もっと出す。
これは前へ出させて、見ている数だ。
「先手は龍造寺か」
「はっ」
「蒲池は」
「後ろに控え、道と退き筋を押さえる形にございます」
宗運の口元が、ほんのわずかに動いた。
「よい」
それは喜んだのではない。
敵の腹が、想定通りだったという意味の“よい”だ。
惟種はその横顔を見ながら思う。
この人は本当に、戦の前ほど静かになる。
「惟豊様へ」
宗運が言うと、もう別の使いが走っていた。
緊急評定は、日が傾く前に開かれた。
いつもの評定より、人が少ない。
だが、その分だけ濃い。
上座に惟豊。
その脇に宗運。
惟種は、もう端ではなかった。
田代宗傳、一門衆、城と道を預かる者、山と市に関わる者。
必要な者だけが呼ばれている。
ざわめきの中、惟豊が座に着くと、それはぴたりと止んだ。
「申せ」
短い。
宗運が前へ出た。
「龍造寺三百。蒲池添え百。合わせて四百ほどが動きます」
場の空気が、すっと冷える。
遠い話ではない。
もう、こちらへ向く兵の数として出たのだ。
「狙いは」
一門の一人が問う。
「阿蘇の底を測ること。おそらく蒲池は本気で龍造寺を立てる気ではありませぬ」
宗運は淡々としている。
「龍造寺を先に当て、こちらの兵の形と応じ方を見たいのでしょう」
「ならば龍造寺は」
「半ば使われております」
その言葉に、座の中の何人かが顔をしかめた。
使われる兵は弱い。
だが、追い詰められている兵は別の意味で怖い。
惟豊が惟種を見た。
「どう見る」
「受けて勝てます」
惟種は言った。
はっきりと。
「だが、追い崩すより先に、形を崩さぬことが要ります」
宗運が横から言葉を継ぐ。
「兵はすでに春から組んでおります。常備の核は三百五十。夏の終わりまでに四百近くまで整えておりました。そこへ収穫を見越した追加動員を乗せます」
宗傳が板を出した。
「総動員は八百。
出陣六百五十。
留守百五十にて見ます」
その数字に、座が小さく動いた。
大きい。
だが無理ではない。
それが今の阿蘇だ。
「留守は私が残ろう」
宗傳ではない。
惟豊自身が先に言った。
「宗運が出るなら、家の重しは館に要る」
誰も異を唱えない。
それが最も自然だからだ。
「田代宗傳」
「はっ」
「留守居を補佐せよ。兵站、伝令、門前、市、山、全部の帳面を握れ」
「承知いたしました」
「光永」
外に控えていた少年が呼ばれて入る。
「記しを止めるな。出した兵、残す兵、火薬、矢、米、すべて書け」
「はっ」
惟種は、その流れを聞きながら、父が城代として残る形がもっとも強いと改めて思った。
宗運が出る。
惟種も出る。
ならば惟豊が城を押さえる。
家の形として、それ以上のものはない。
「出陣兵の内訳を」
惟豊。
宗運が答えた。
「槍・近接二百八十。弓百四十。試製鉄砲二十。足軽・側備え百三十。荷駄・普請・予備八十」
「鉄砲は二十でよいのか」
武辺の一人が問う。
「よい」
今度は惟種が答えた。
「数で勝つのでなく、見せるためではなく、効かせるために使う」
場が静かになる。
「森羅衆はまだ完成しておらぬ。だが、だからこそ今は二十でよい。
揃った二十の方が、浮ついた五十よりはるかに強い」
宗運が頷く。
「若君の試し組も、そこに付けます」
「高森らか」
「はい」
「前へ出しすぎるな」
「心得ております」
惟豊が、そのやりとりを聞いて低く言った。
「今度の戦は、敵を潰すことだけを考えるな」
皆が顔を上げる。
「龍造寺が三百。蒲池が百。
その数の出し方そのものが、もう敵の腹を示しておる。
ならば、見よ。
誰が本気で来ており、誰が見ているだけかを」
惟種は、その言葉に小さく頷いた。
父ももう、そこまで見ている。
今回の勝ちは、首の数ではない。
龍造寺と蒲池の間に何があるかを、戦で決めることだ。
「追うべきは」
惟種が言った。
「蒲池ではない。まず前の龍造寺を崩し、後ろの蒲池を迷わせる」
宗運が静かに継いだ。
「そうなれば、後詰は後詰のまま動けなくなります」
「うむ」
「そして龍造寺側には、“見捨てられた”形が残る」
場が一段、静かになった。
誰もその先を口にしない。
だが、皆わかっている。
その形は、戦のあとに大きな意味を持つ。
「出陣は」
惟豊。
「明朝では遅い」
宗運は答えた。
「今夜のうちに触れを回し、夜明け前に動きます」
「田は」
別の者が口を挟む。
「収穫前だぞ」
「だからこそ急ぐのです」
宗運が切った。
「長引かせれば田が死ぬ。短く受けて、短く決める」
惟種はその言葉を聞きながら、自分の中で陣の形を組み始めていた。
前に龍造寺三百。
後ろに蒲池百。
こちら六百五十。
多い。
だが多すぎない。
ちょうど、“阿蘇が大きくなった”と見せるにはよい数だ。
「県境での練兵が、ようやく本当の意味を持ちますな」
宗傳が小さく言った。
惟種はそれに答えず、ただ少しだけ目を伏せた。
あの時、自分は備えのつもりだった。
大友だけを見ていたわけではない。
だが、まさかこの形で波が返るとは思わなかった。
いや。
思っていなかったわけではない。
ただ、本当に来ると決まると話は違う。
惟豊が最後に立った。
「よい。出る者は出よ。残る者は残れ。
家を空にするな。
兵を崩すな。
そして――」
ここで一度、惟種を見る。
「惟種」
「はい」
「今回は、宗運の横でよく見よ。
見るだけではない。
おぬしの理を、兵へ落とせ」
「承知いたしました」
惟豊は頷いた。
「ゆけ」
評定が解かれると、館は一気に夜の戦支度へ変わった。
足音。
鎧の擦れる音。
蔵の戸が開く音。
馬のいななき。
炊き出しの湯気。
伝令の走る影。
夏の夜は重い。
だが、その重さの中で兵はよく動いた。
春から組み始めていた常備兵の骨が、ここで生きる。
号令が通る。
持ち場がわかる。
槍も弓も、ただ集めただけではない。
惟種は宗運と並んで、庭先の動きを見ていた。
「三百五十が骨になっていると、違うものだな」
「違います」
宗運は答える。
「急に集めた兵では、今夜の動きにはなりませぬ」
「五百まで見えるか」
「秋が深まる前なら」
「よい」
惟種は、庭の向こうで鉄砲二十挺が運ばれていくのを見た。
島津から貰った1挺で試行錯誤を繰り返して作った試作品。
惟種の前世の知識があったからこそ、短い期間で20挺は作れた。
だが、まだ少ない。
だが、少ないからこそ目立つ。
少ないからこそ、使いどころを誤れない。
「若君」
「うむ」
「今夜は寝られませぬぞ」
「最初からそのつもりだ」
宗運が、ほんのわずかに笑った。
「それでよろしい」
夜空に星は見えていたが、夏の湿りで輪郭が少し滲んでいた。
明日の戦で、どれだけの血が流れるかはまだわからない。
だが一つだけ、惟種にはわかっていた。
この出陣は、ただの迎撃ではない。
阿蘇が兵の形を持った家であることを、初めて戦で示す出陣だ。
そして、龍造寺と蒲池の間にある歪みを、初めて外へ剥き出しにする戦でもある。
夜はまだ深くならない。
けれど館の中では、もう夜明け前のような緊張が張り始めていた。




