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第二十三話 南へ伸びる糸

天文十四年(1545年)十月


 朝の空気は、もう秋の深みに入っていた。


 矢部の館の奥、惟豊の座敷には、宗運と惟種が呼ばれていた。障子の外には人払いがあり、いつもの評定よりさらに静かで、さらに狭い。こういう時の話は、もう表へ出す前の骨の話だ。


 阿蘇あそ 惟豊これとよは、二人が座るのを見てから言った。


「宗運。南の糸、今が伸ばしどきか」


 甲斐かい 宗運そううんは、迷いなく頷いた。


「はい。いまならば、ただの願いではなく、札を持って出られます」


 惟豊の目が、惟種へ向く。


「惟種。そなたは、島津へ何を見せる」


 惟種は少し考えた。


 島津と結びたい。

 それは前から思っている。

 だが、こちらが何を差し出せるかを言葉にできなければ、ただの片思いだ。


「三つにございます」


「申せ」


「ひとつ。阿蘇はただの神家ではなく、田を太らせ、市を育てる家になりつつあること」


 惟豊は黙って聞く。


「ふたつ。こちらは大友にただ押されるだけの家ではなく、境目を潰し、人も地も吸える家だということ」


 宗運がほんの少しだけ口元を動かした。


「みっつ。私は、島津を今の勢いでなく、これからの家風で見ていること」


 惟豊が低く言う。


「そこが肝か」


「はい」


 惟種は頷いた。


「島津は、これから先に大きくなる家です。だから今のうちに糸を結ぶ値がある。そのことを、宗運の口で伝えてほしい」


 宗運が静かに問う。


「どこまで申します」


「全部は要りませぬ。だが、私は島津をただの南の有力者とは見ていない、と」


「家風の話も」


「入れてください」


 惟種は宗運を見た。


「家をまとめること。教えを持つこと。戦ぶりに癖があること。そういう家だと、私は見ている」


 惟豊が小さく息を吐いた。


「童の口から出ると奇妙な話だが、そなたが言うと奇妙で済まぬのが難儀よ」


「難儀にございます」と宗運も淡々と重ねる。「ですが、使えます」


 惟豊は頷く。


「品はどうする」


 惟種はそこはすぐ答えた。


「玻璃にございます」


「飴ではなくか」


「飴は広く売るもの。玻璃は上へ持っていくものです。南へ渡すなら、珍しさと値打ちが見えるものがよい」


 宗運がうっすら笑う。


「若君は、売り分けをよう心得ておられる」


「覚えた」


 惟豊が言う。


「よい。宗運、そなたが行け」


「承知」


「若君は行かせぬ」


「承知しております」


 宗運は即答した。


「ですが、若君の言葉は持って参ります」


 惟豊はそこで、惟種をまっすぐ見た。


「次の評定より、そなたはもっと近くへ座る。だが今はまだ、自ら外へ出てよい時ではない」


「はい」


「ゆえに、今は宗運に行かせる。宗運」


「はい」


「まとめて来い」


 短かった。


 だが、それで十分だった。


 宗運は一つ頭を下げた。


「問題なく」


 その言い方に、惟種は少しだけ笑いそうになった。

 宗運は、ほんとうにそのつもりなのだろう。

 話を壊さず、こちらを安くせず、相手に借りも作りすぎず、それでいて糸だけは確かに通して帰る。


 この人ならやる。


 会う場所は、阿蘇でも薩摩でもなかった。


 人吉筋からさらに南へ下った、山と川にはさまれた小さな寺院の脇である。戦の匂いも、交易の匂いも、僧の出入りも不自然ではない。誰がここを選んだのかは、互いに言わない。だが、双方とも悪くない場所だとわかっている。


 宗運は、供を絞っていた。


 表の供は少ない。

 だが見えぬところには、足がいる。

 惟種へ明かした“耳”と“足”の使い方を、いま実際に見ている気がした。


 同行したのは、田代たしろ 宗傳そうでんと、使番二人、それに物持ちの小者。箱は一つだけだ。中には玻璃玉と、細工の整った小さな玻璃器が納められている。


 宗運は馬から下りる前に、宗傳へだけ低く言った。


「今日の相手は、言葉の早い人でしょう」


「伊集院、にございますから」


「ええ。若い武辺者ではない」


「ゆえに、こちらの“先”を見るかと」


 宗運は頷いた。


 そう。今日の相手は、島津方の重鎮、伊集院忠朗いじゅういん ただあき

 伊集院忠朗は、島津忠良・貴久父子に仕えた伊集院氏の重臣である。後世、孫の伊集院忠棟が「祖父忠朗は伊作島津家無二の重臣であった」と評されるほど、その存在は島津家中で重かった。天文18年(1549年)の黒川崎の戦いでは、子の忠倉とともに出陣し、暴風に乗じた奇襲で肝付兼演を破ったと伝わる。さらに天文23年(1554年)の岩剣城攻めでは、忠朗の進言によって島津軍が鉄砲を本格的に実戦投入したという。武辺一途の将ではない。戦の流れを読み、新しい武器の利を見抜き、功ののちには家老として政務を取り仕切った、沈着で老獪な宿老として描ける人物である。永禄4年(1561年)には、肝付兼続との宴席で巧みに相手を挑発し、のちの戦端を開いたという逸話も残る。表で吠える豪将というより、静かに火を入れ、主家を勝たせるために一手を置く――伊集院忠朗とは、そういう渋みを帯びた戦国武将である。


 寺の脇へ入ると、相手はすでに来ていた。


 人数は阿蘇側と同じく絞ってある。

 先頭に立つ男は、年の頃三十をいくつか越えたあたりか。体格は大きすぎず、目だけが静かに鋭い。着ているものも過不足なく、派手さはないが安くもない。


 宗運は一目でわかった。


 この男は、言葉を無駄にせぬ。


 相手もこちらを見て、同じことを思ったのかもしれない。


「伊集院忠朗にございます」


 先にそう名乗った。


 宗運も礼を返す。


「阿蘇家家老、甲斐宗運にございます」


 型通りの挨拶は短い。僧が間に入り、座が整えられる。秋の空は高く、風は冷たいが強くはない。こういう日は、かえって相手の目つきや呼吸がよく見える。


 忠朗が先に言った。


「阿蘇の若君は、出てはおられぬか」


 いきなりそこか、と宗傳は内心で思ったが、宗運は微動だにしない。


「まだ若うございます」


「ですが、名は先に聞こえております」


 忠朗の声は平らだった。


「鬼童、とか」


 宗運はそこでわずかに口元を動かした。


「戦場の名など、兵が勝手につけるもの」


「勝手につけるには、よくできた名だ」


 忠朗はそう言って、宗運の目を見た。


 試している。

 この若君を、阿蘇がどう売るつもりか。

 いや、それ以前に、この噂を阿蘇がどう扱うのかを。


 宗運は、少しだけ間を取ってから答えた。


「名ばかりが先に走っても困ります。されど、見るべきもののある若君にございます」


 忠朗はそれ以上は追わなかった。


 まずは形を見たのだろう。


「本日は、どのようなご用向きで」


 僧が間を繋ぐように問うと、宗運が答えた。


「南へ伸びる道は、一つではございませぬ。商いの道も、言葉の道も、敵意なきことを確かめる道もございましょう」


 忠朗はうっすら笑った。


「まことに、家老殿らしい入り方ですな。つまり今日は、誓紙を交わすためではなく、互いの器を量るための場と」


「その通りにございます」


 宗運は即座に言う。


「阿蘇は近ごろ、田を整え、市を立て、鍛冶を育てつつあります。境目を荒らす者も一つ潰しました。飢えぬ家、揺らがぬ家として見ていただきたい」


 忠朗の目が少し細くなる。


 そこへ宗傳が、持ってきた箱を静かに開けた。


 玻璃玉が、光を受けて静かに透く。


 忠朗は無言でそれを見た。


 指先で一つ持ち上げる。

 重さを確かめ、向こうの光へ透かし、また置いた。


「……阿蘇には、こういうものを作る若君がいるのですか」


 宗運は答える。


「はい」


「飴もそうだと聞いている」


「はい」


「鍛冶も」


「はい」


 忠朗は少しだけ息を吐いた。


「すると、阿蘇の若君は、ただ戦場で目の利く童ではないのだな」


 宗運は、ここで惟種の言葉を置く時だと判断した。


「若君は、国を太らせる順を知っております」


「順」


「田を整え、市を育て、銭を作り、その銭で鍛冶を育てる。その先で兵を整える、と」


 忠朗は黙った。


 その沈黙が、むしろ大きかった。


 ただの奇矯な若君の思いつきとしては、重すぎる。

 しかも実際に収穫と市と戦で結果が出ている。

 忠朗の頭の中で、阿蘇の値が上がる音がしたようにさえ見えた。


「その若君は、島津をどう見ておられる」


 来た、と宗運は思った。


 ここで安く褒めれば終わる。

 だが、持ってきた一番大事なものは、まさにそこだった。


「若君は、島津を今の勢いだけで見てはおりませぬ」


「ほう」


「これからの家風で見ておられます」


 忠朗の目が、はっきりと宗運へ向いた。


「家風」


「はい。家をまとめる力。教えを持つこと。戦ぶりに癖があること。島津はそういう家になる、と」


 忠朗はしばらく黙った。


 風が寺の前庭を撫でる。

 葉が一枚落ちた。

 その沈黙の後で、忠朗はごく静かに言った。


「若君は、誰を見てそのように申される」


「島津忠良殿にございます」


 忠朗の目に、初めてはっきりした光が走った。


 宗運は続けた。


「いずれ、家中へ行き渡る短い教えを持ち、戦にもまた島津らしい癖が立つやもしれぬ――若君はそう見ております」


 忠朗は玻璃玉をもう一度手に取った。


「……面白い」


 声は小さい。だが、その小ささが本音だった。


「阿蘇の若君は、我らの今ではなく先を見ると」


「はい」


「そこまで見ておるなら、なぜこちらへ寄る」


 宗運はそこも用意していた。


「強くなる家と、早くから縁を結ぶ価値を知るからにございます」


 忠朗は、そこで初めてわずかに笑った。


 笑った、といっても口の端が少し動いた程度だ。

 だが十分だった。


「正直だ」


「阿蘇は今、大友にただ押されるだけの家ではありませぬ。肥後で軽く扱わぬ方がよい家になりつつある。島津にとっても、無縁でいるよりは、糸を通しておく方が得かと」


 忠朗は宗運をしばらく見た。


 まるで槍先で探るような視線だった。

 阿蘇はどこまで本気か。

 どこまで持つか。

 若君は本物か。

 宗運はどこまでまとめてきたか。


 そしてやがて、忠朗は言った。


「島津にとって阿蘇は、今すぐ刃を向ける相手ではありませぬ」


 宗傳は心の中で、ひとつ息をついた。

 まずそこが出るなら上出来だ。


「ただし」と忠朗は続ける。「結ぶに足るかは、今の噂だけでは決めきれませぬ」


「当然にございます」


 宗運は即座に受けた。


「ゆえに今は、敵意なきことと、将来の縁を確かめるまで」


 忠朗は頷いた。


「よろしい。では本日はそこまでに致しましょう」


 僧がわずかに肩の力を抜く。


 だが忠朗は、そこで話を終わらせなかった。


「一つだけ、若君へお伝えいただきたい」


 宗運は目で続きを促した。


「島津は、先を読む者を好みます。だが、先を読みすぎる者はまた、時に恐ろしくもある」


 宗運は少しだけ笑った。


「若君も、そう申されましょう」


「でしょうな」


 忠朗は玻璃の小器を箱へ戻した。


「今日はこれを預かる。代わりに、南の土産を後日送ろう」


「ありがたく」


「それと」


 忠朗はほんのわずかに声を低くした。


「いずれ、若君ご本人にもお目にかかりたいものです」


 宗運はそこでは頷かず、否定もせずに答えた。


「その時が来れば」


 うまくまとめた。

 宗傳は横でそう思った。


 食いつかせ、だが差し出しすぎない。

 糸を通し、借りを作りすぎない。

 まさに惟豊の言った通り、まとめてきた。


 帰りの山道で、宗傳はとうとう口を開いた。


「……見事にございました」


 宗運は前を見たまま言う。


「まだ何も決まっておりませぬ」


「ですが、糸は通りました」


「ええ」


「伊集院殿は、若君を高く見ましたな」


 宗運はそこで初めて少しだけ笑った。


「高くも見たし、危うくも見たでしょう」


「それでよいので」


「それでよいのです」


 宗運は短く言った。


「強いと思わせねば意味がない。だが、出しすぎれば欲しがられる。今はそのあわいで止めるのがよろしい」


 館へ戻ったのは、その二日後だった。


 惟種は宗運の帰りを待っていた。

 表向きは平静を装っていたが、正直なところ、かなり気になっていた。


 小座敷で顔を合わせるなり、惟種は聞いた。


「どうだった」


 宗運は座る前に答えた。


「問題なく、まとめて参りました」


 惟種は思わず笑いそうになった。


「本当にそう言うのだな」


「他に何と申します」


 宗傳が横で、かすかに苦笑した。


 宗運は座につくと、順を追って話した。

 伊集院忠朗が来たこと。

 玻璃を見せたこと。

 惟種の言葉をどう伝えたか。

 そして、忠朗がどう反応したか。


 惟種は黙って聞いた。


「島津は、若君を面白いと見ました」


 宗運が言う。


「ですが同時に、恐ろしくも見たでしょう」


 惟種は小さく息を吐いた。


「そこまで行ったか」


「行きました」


「ならよい」


「はい。よいにございます」


 惟豊がそこで口を開いた。


「結べそうか」


 宗運は即答しなかった。


「今すぐ重い盟を結ぶところまでは参りませぬ。ですが、敵意なきこと、将来の縁、商いの道。そのあたりは十分にございます」


 惟豊は頷いた。


「よし」


 惟種はそこで、ようやく肩の力を抜いた。


 まずは第一歩だ。

 まだ婚姻も、軍事同盟も、誓紙もない。

 だが、島津は阿蘇を見た。

 しかも“ただの神家”ではなく、“先を見る若君のいる家”として。


 それで十分だ。


 宗運が最後に言った。


「若君」


「うむ」


「次にお会いになる時は、たぶんもう隠れては済みませぬ」


 惟種は宗運を見た。


「その時は」


「その時は、若君ご自身が言葉で勝っていただきます」


 惟種はゆっくり頷いた。


「ならば、さらに仕込まねばならぬな」


 田も。

 市も。

 鍛冶も。

 山も。

 そして、言葉も。


 秋の終わりの風が、障子の向こうで静かに鳴っていた。

 阿蘇から南へ伸びた糸は、まだ細い。

 だが確かに、切れずにつながっていた。

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