表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/31

第二十二話 勝ちの匂い

天文十四年(1545年)十月


 戦は終わった。


 だが、阿蘇家の仕事はそこから始まった。


 夜半まで降った雨が上がり、朝の空は高く抜けていた。昨日まで槍が交わり、人が倒れ、怒号と泥と血にまみれていた境目の館は、今は妙に静かだった。


 静かなのは、もう勝敗が動かぬからだ。


 惟種は、朝の冷えた空気の中で館跡を見ていた。


 主屋は半ば焼かれ、土塀は崩れ、門は打ち割られている。だが全部を灰にしたわけではない。蔵は残し、納屋も使えるものはそのまま残してある。宗運は、壊すところと残すところをきっちり分けていた。


 武士の拠点としての館は消す。

 だが田と蔵と道は、これから阿蘇のものとして回す。


 勝った後に、何を残すか。

 そこに宗運の戦があるのだと、惟種は昨日より少しだけよくわかった。


「若君」


 宗傳が帳面を抱えてやってきた。戦場まで来て帳面か、と思ったが、今はもうそれが不思議ではない。


「どうなった」


「館主以下、主だった武士はほぼ片付きました。逃げた者もおりますが、勢にはなりませぬ。百姓はそのまま使えます。田も今年の分は荒れずに済みそうです」


「蔵は」


「開きました。米、麦、縄、油、鉄の小片、農具。思っていたより溜め込んでおりました」


 惟種は鼻を鳴らした。


「民を縛る領主ほど、まず蔵を太らせる」


「まことに」


 宗傳はそこで少し声を低くした。


「文も出ました」


「惟前か」


「それらしき筋がございます。あからさまではありませぬが、“前の御屋形様”の名が見えます」


 惟種は頷いた。


 やはりつながっていた。


 この小館を落としたことは、ただの境目掃除ではない。

 阿蘇家の古い裂け目を、ひとつ塞ぐ意味もある。


 館の前庭では、阿蘇の足軽たちが縛られた武士を分けていた。主だった与党、槍を取った者、密書に名のある者。それ以外の者。宗運の足が一つ一つ見ている。


 百姓は、まだ怯えた目でそれを見ている。


 惟種は、その視線の重さを感じた。


 昨日までは、この館主がこの地の“顔”だった。

 今日からは阿蘇がその顔になる。

 ならば、最初の言葉が大事だ。


「村の者を呼べ」


 惟種が言うと、宗傳はすぐに使番へ目をやった。


 ほどなくして、近隣の庄屋や年寄が三、四人、恐る恐る連れてこられた。館跡の泥を避けるように歩き、何度も頭を下げる。まだ、誰に向かってどう振る舞うべきか決めかねている顔だった。


 惟種は一歩前へ出た。惟房が脇につく。


「聞け」


 大声ではない。だが、はっきり通る声で言った。


「この地は、これより阿蘇のものとなる」


 庄屋たちは息を呑む。


「田は守る。百姓は作れ。鍛冶は打て。新市へ荷を出す者は守る」


 顔が少しずつ上がる。


「ただし、道を荒らす者、百姓を縛る者、阿蘇へ刃を向ける者は許さぬ」


 惟種は館の崩れた門を振り返った。


「それが、これだ」


 泥に膝をつかされた館主の一党が、まだ見える位置にいる。


 見せしめである。

 だが、ただ脅すためだけではない。


 阿蘇へ来れば、助かる。

 阿蘇へ刃を向ければ、潰れる。

 その二つを一緒に見せるための見せしめだ。


 庄屋の一人が、震える声で言った。


「……年貢は」


「取る」


 惟種は即答した。


 そこで嘘をついてはいけない。


「だが道を通わせる。田を守る。勝手に火をかけ、橋を切り、人を縛るまねはさせぬ。阿蘇へ来る者を妨げる者も許さぬ」


 宗傳が横で、少しだけ満足そうな顔をした。


 たぶん、これがちょうどいいのだろう。

 甘すぎず、怖すぎず。

 現実を言いながら、向こうよりはマシだとわからせる。


 庄屋たちは深く頭を下げた。


「……ありがたきことにございます」


 それでよかった。

 この一言が出れば、村はもう半分阿蘇のものだ。


 戦の噂は早かった。


 館跡から戻る前に、もう隣村の者が見に来ていた。橋の袂には、荷を背負った商人が立ち止まり、田の畔には女たちが集まり、子どもまで遠巻きに阿蘇の旗を見ている。


 噂は、事実より早く走る。


 若君御出馬。

 鹿子木方の境目衆を破る。

 伏兵を見抜く。

 雨を読む。

 館落つ。


 そして兵の中から出たあの名も、もう消えなかった。


「阿蘇の鬼童」


 最初は、昨日の戦場で言い出した足軽の冗談のようなものだった。


 だが冗談は、使いやすいほど広がる。


 政久が嬉しそうに戻ってきたのは、昼を少し回ったころだった。


「若君!」


「何だ」


「もう下の村では、その名で話しております!」


「何をだ」


「阿蘇の鬼童にございます。『童のくせに空を読んだ』『伏兵を読んだ』『鬼のように先を見た』と」


 惟種は眉をひそめた。


「……妙な名だ」


「ですが強いにございます」


「強すぎる」


「強い方がようございます」


 政久はまるで自分の異名をもらったみたいな顔をしている。惟房はそういう浮ついた顔をしないが、それでも否定はしなかった。


「兵は怖れます」と惟房が短く言う。


「味方もか」


「味方ほど」


 惟種は少しだけ黙った。


 それはわかる気がした。敵ならいずれ戦えばよい。だが味方は、これから長く見る。幼いのに妙に読める若君というのは、近くにいる分だけ不気味だろう。


 宗運がやってきたのは、その時だった。


「もう広がりましたか」


「ええ」と政久。「早うございます」


 宗運は惟種を見た。


「悪い名ではありませぬ」


「嬉しくはない」


「嬉しがるものでもございませぬ。ですが、使えます」


 惟種は宗運の顔を見返した。


「使う、か」


「若君がただの童ではない、と内外に示すにはちょうどよろしい」


 宗運はそう言って、そこで少しだけ声を落とした。


「ただし、名が立つほど狙われもいたします」


「そこは前から同じだ」


「今はもっと、でございます」


 惟種は黙って頷いた。


 鬼童。

 兵のあいだで立った名が、村へ下り、商人の口に乗り、いずれ境目を越える。

 島津の耳に入ってもおかしくはない。

 大友や鹿子木の耳に入れば、なおさらだ。


 だがそれでよいとも思う。


 いまの阿蘇は、隠れて太る段を少し越え始めている。

 ある程度は見せねばならない。


 館を落とした効果は、思っていたより早く目に見えた。


 その日の夕刻までに、逃散したいと申し出る家が五つ。

 翌日には十。

 三日後には、家ごと移りたいという者が十数軒に増えた。


 百姓だけではない。

 桶を作る者。

 縄を綯う者。

 鍛冶の下働きをしたことのある若者。

 荷を担ぐ馬借まがいの者までいる。


 皆、口を揃えて言うことは少しずつ違う。

 だが根は同じだった。


 阿蘇へ行った方が、生きやすそうだ。


 惟種はその報せを聞いた時、胸の奥で静かに熱くなるのを感じた。


 戦で勝つだけでは駄目だ。

 その勝ちが、人の移動と暮らしの変化に結びついて、初めて国が太る。


 宗傳が帳面を抱えて戻ってきたのは、その三日目の夕方だった。


「若君」


「どう出た」


「人が寄っております。村の口も増えます。田の振り替えも進みそうです」


「よい」


「ただし、急に取り込みすぎると揉めます。元からいた者が不満を持つやもしれませぬ」


 そこだ。


 惟種はうなずいた。


「わかっておる。新しく来た者にすぐ良い地ばかりやれば、もともとの者が腐る」


「はい」


「橋を直し、道を通し、田は少しずつ振る。まずは役を軽くして、冬を越えさせる。村の争いを裁ける者も置く」


「承知いたしました」


 宗傳は少し顔を上げた。


「若君」


「うむ」


「この戦、勝ったのは宗運殿にございます。ですが、太るのは若君のやり方です」


 惟種は少しだけ笑った。


「宗運に言えば嫌がられるぞ」


「表では申しませぬ」


 宗傳らしい答えだった。


 その夜、惟豊・宗運・惟種の三人は、また小座敷で向かい合った。


 前回は、暗殺の危険と島津への糸の話だった。

 今夜は、その糸へ何を乗せるかが話になる。


 惟豊が先に口を開いた。


「勝ったな」


「はい」


 宗運が答える。


「館は潰し、田は残し、人は吸えます」


 惟豊は頷いた。


「噂も広がっておるようだな」


 そこで惟豊の目が惟種へ向く。


「鬼童、か」


 惟種は顔をしかめた。


「妙な名です」


「兵の口から立つ名は、妙なものの方が長う残る」


 惟豊はそう言って、小さく笑った。


 宗運が言葉を継ぐ。


「島津の耳にも、いずれ落ちましょう」


 惟種は宗運を見た。


「そこまで行くか」


「行きます。いま門前に入る商人は、南にも繋がっております。阿蘇の若君が、戦で目を利かせ、田を太らせ、市を立てているとなれば、面白がられもいたしましょう」


 惟豊が低く言う。


「ならば、今のうちにこちらから形を作る」


 惟種はその言葉を聞き、胸の中で頷いた。


 戦後処理は、戦の終わりではない。

 次の外交の始まりでもある。


 宗運が板図を広げる。


「まずは、噂が先に行く。次に品を通す。最後に言葉を入れる」


 惟種は少しだけ口元を上げた。


「順が良い」


「若君のやり方にございますから」


 宗運の声は静かだった。


「伊集院あたりなら、こちらの話を値踏みできましょう」


 惟種はそこで少し目を細めた。


 島津の中で、ただの武辺ではなく、政の匂いもある重鎮。

 初めの相手として、それはたしかに悪くない。


 惟豊が言う。


「では、次は南へ糸を伸ばす。だがその前に、勝ちの匂いをもう少し領内へ回せ」


「はい」


 惟種は答えた。


 鬼童の名も、落とした館も、流れ込む民も、すべてが次の札になる。


 戦の勝ちを、ただの一勝で終わらせぬ。

 それがいまの阿蘇に必要なことだった。


 灯の揺れる小座敷の中で、惟種は静かに思う。


 田が太り、

 市が立ち、

 兵が勝ち、

 名が立つ。


 次は、言葉で南を動かす番だ。


 十月の夜は深く、館の外では風が木々を揺らしていた。

 その風はもう、肥後の中だけを回る風ではない気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ