第二十二話 勝ちの匂い
天文十四年(1545年)十月
戦は終わった。
だが、阿蘇家の仕事はそこから始まった。
夜半まで降った雨が上がり、朝の空は高く抜けていた。昨日まで槍が交わり、人が倒れ、怒号と泥と血にまみれていた境目の館は、今は妙に静かだった。
静かなのは、もう勝敗が動かぬからだ。
惟種は、朝の冷えた空気の中で館跡を見ていた。
主屋は半ば焼かれ、土塀は崩れ、門は打ち割られている。だが全部を灰にしたわけではない。蔵は残し、納屋も使えるものはそのまま残してある。宗運は、壊すところと残すところをきっちり分けていた。
武士の拠点としての館は消す。
だが田と蔵と道は、これから阿蘇のものとして回す。
勝った後に、何を残すか。
そこに宗運の戦があるのだと、惟種は昨日より少しだけよくわかった。
「若君」
宗傳が帳面を抱えてやってきた。戦場まで来て帳面か、と思ったが、今はもうそれが不思議ではない。
「どうなった」
「館主以下、主だった武士はほぼ片付きました。逃げた者もおりますが、勢にはなりませぬ。百姓はそのまま使えます。田も今年の分は荒れずに済みそうです」
「蔵は」
「開きました。米、麦、縄、油、鉄の小片、農具。思っていたより溜め込んでおりました」
惟種は鼻を鳴らした。
「民を縛る領主ほど、まず蔵を太らせる」
「まことに」
宗傳はそこで少し声を低くした。
「文も出ました」
「惟前か」
「それらしき筋がございます。あからさまではありませぬが、“前の御屋形様”の名が見えます」
惟種は頷いた。
やはりつながっていた。
この小館を落としたことは、ただの境目掃除ではない。
阿蘇家の古い裂け目を、ひとつ塞ぐ意味もある。
館の前庭では、阿蘇の足軽たちが縛られた武士を分けていた。主だった与党、槍を取った者、密書に名のある者。それ以外の者。宗運の足が一つ一つ見ている。
百姓は、まだ怯えた目でそれを見ている。
惟種は、その視線の重さを感じた。
昨日までは、この館主がこの地の“顔”だった。
今日からは阿蘇がその顔になる。
ならば、最初の言葉が大事だ。
「村の者を呼べ」
惟種が言うと、宗傳はすぐに使番へ目をやった。
ほどなくして、近隣の庄屋や年寄が三、四人、恐る恐る連れてこられた。館跡の泥を避けるように歩き、何度も頭を下げる。まだ、誰に向かってどう振る舞うべきか決めかねている顔だった。
惟種は一歩前へ出た。惟房が脇につく。
「聞け」
大声ではない。だが、はっきり通る声で言った。
「この地は、これより阿蘇のものとなる」
庄屋たちは息を呑む。
「田は守る。百姓は作れ。鍛冶は打て。新市へ荷を出す者は守る」
顔が少しずつ上がる。
「ただし、道を荒らす者、百姓を縛る者、阿蘇へ刃を向ける者は許さぬ」
惟種は館の崩れた門を振り返った。
「それが、これだ」
泥に膝をつかされた館主の一党が、まだ見える位置にいる。
見せしめである。
だが、ただ脅すためだけではない。
阿蘇へ来れば、助かる。
阿蘇へ刃を向ければ、潰れる。
その二つを一緒に見せるための見せしめだ。
庄屋の一人が、震える声で言った。
「……年貢は」
「取る」
惟種は即答した。
そこで嘘をついてはいけない。
「だが道を通わせる。田を守る。勝手に火をかけ、橋を切り、人を縛るまねはさせぬ。阿蘇へ来る者を妨げる者も許さぬ」
宗傳が横で、少しだけ満足そうな顔をした。
たぶん、これがちょうどいいのだろう。
甘すぎず、怖すぎず。
現実を言いながら、向こうよりはマシだとわからせる。
庄屋たちは深く頭を下げた。
「……ありがたきことにございます」
それでよかった。
この一言が出れば、村はもう半分阿蘇のものだ。
戦の噂は早かった。
館跡から戻る前に、もう隣村の者が見に来ていた。橋の袂には、荷を背負った商人が立ち止まり、田の畔には女たちが集まり、子どもまで遠巻きに阿蘇の旗を見ている。
噂は、事実より早く走る。
若君御出馬。
鹿子木方の境目衆を破る。
伏兵を見抜く。
雨を読む。
館落つ。
そして兵の中から出たあの名も、もう消えなかった。
「阿蘇の鬼童」
最初は、昨日の戦場で言い出した足軽の冗談のようなものだった。
だが冗談は、使いやすいほど広がる。
政久が嬉しそうに戻ってきたのは、昼を少し回ったころだった。
「若君!」
「何だ」
「もう下の村では、その名で話しております!」
「何をだ」
「阿蘇の鬼童にございます。『童のくせに空を読んだ』『伏兵を読んだ』『鬼のように先を見た』と」
惟種は眉をひそめた。
「……妙な名だ」
「ですが強いにございます」
「強すぎる」
「強い方がようございます」
政久はまるで自分の異名をもらったみたいな顔をしている。惟房はそういう浮ついた顔をしないが、それでも否定はしなかった。
「兵は怖れます」と惟房が短く言う。
「味方もか」
「味方ほど」
惟種は少しだけ黙った。
それはわかる気がした。敵ならいずれ戦えばよい。だが味方は、これから長く見る。幼いのに妙に読める若君というのは、近くにいる分だけ不気味だろう。
宗運がやってきたのは、その時だった。
「もう広がりましたか」
「ええ」と政久。「早うございます」
宗運は惟種を見た。
「悪い名ではありませぬ」
「嬉しくはない」
「嬉しがるものでもございませぬ。ですが、使えます」
惟種は宗運の顔を見返した。
「使う、か」
「若君がただの童ではない、と内外に示すにはちょうどよろしい」
宗運はそう言って、そこで少しだけ声を落とした。
「ただし、名が立つほど狙われもいたします」
「そこは前から同じだ」
「今はもっと、でございます」
惟種は黙って頷いた。
鬼童。
兵のあいだで立った名が、村へ下り、商人の口に乗り、いずれ境目を越える。
島津の耳に入ってもおかしくはない。
大友や鹿子木の耳に入れば、なおさらだ。
だがそれでよいとも思う。
いまの阿蘇は、隠れて太る段を少し越え始めている。
ある程度は見せねばならない。
館を落とした効果は、思っていたより早く目に見えた。
その日の夕刻までに、逃散したいと申し出る家が五つ。
翌日には十。
三日後には、家ごと移りたいという者が十数軒に増えた。
百姓だけではない。
桶を作る者。
縄を綯う者。
鍛冶の下働きをしたことのある若者。
荷を担ぐ馬借まがいの者までいる。
皆、口を揃えて言うことは少しずつ違う。
だが根は同じだった。
阿蘇へ行った方が、生きやすそうだ。
惟種はその報せを聞いた時、胸の奥で静かに熱くなるのを感じた。
戦で勝つだけでは駄目だ。
その勝ちが、人の移動と暮らしの変化に結びついて、初めて国が太る。
宗傳が帳面を抱えて戻ってきたのは、その三日目の夕方だった。
「若君」
「どう出た」
「人が寄っております。村の口も増えます。田の振り替えも進みそうです」
「よい」
「ただし、急に取り込みすぎると揉めます。元からいた者が不満を持つやもしれませぬ」
そこだ。
惟種はうなずいた。
「わかっておる。新しく来た者にすぐ良い地ばかりやれば、もともとの者が腐る」
「はい」
「橋を直し、道を通し、田は少しずつ振る。まずは役を軽くして、冬を越えさせる。村の争いを裁ける者も置く」
「承知いたしました」
宗傳は少し顔を上げた。
「若君」
「うむ」
「この戦、勝ったのは宗運殿にございます。ですが、太るのは若君のやり方です」
惟種は少しだけ笑った。
「宗運に言えば嫌がられるぞ」
「表では申しませぬ」
宗傳らしい答えだった。
その夜、惟豊・宗運・惟種の三人は、また小座敷で向かい合った。
前回は、暗殺の危険と島津への糸の話だった。
今夜は、その糸へ何を乗せるかが話になる。
惟豊が先に口を開いた。
「勝ったな」
「はい」
宗運が答える。
「館は潰し、田は残し、人は吸えます」
惟豊は頷いた。
「噂も広がっておるようだな」
そこで惟豊の目が惟種へ向く。
「鬼童、か」
惟種は顔をしかめた。
「妙な名です」
「兵の口から立つ名は、妙なものの方が長う残る」
惟豊はそう言って、小さく笑った。
宗運が言葉を継ぐ。
「島津の耳にも、いずれ落ちましょう」
惟種は宗運を見た。
「そこまで行くか」
「行きます。いま門前に入る商人は、南にも繋がっております。阿蘇の若君が、戦で目を利かせ、田を太らせ、市を立てているとなれば、面白がられもいたしましょう」
惟豊が低く言う。
「ならば、今のうちにこちらから形を作る」
惟種はその言葉を聞き、胸の中で頷いた。
戦後処理は、戦の終わりではない。
次の外交の始まりでもある。
宗運が板図を広げる。
「まずは、噂が先に行く。次に品を通す。最後に言葉を入れる」
惟種は少しだけ口元を上げた。
「順が良い」
「若君のやり方にございますから」
宗運の声は静かだった。
「伊集院あたりなら、こちらの話を値踏みできましょう」
惟種はそこで少し目を細めた。
島津の中で、ただの武辺ではなく、政の匂いもある重鎮。
初めの相手として、それはたしかに悪くない。
惟豊が言う。
「では、次は南へ糸を伸ばす。だがその前に、勝ちの匂いをもう少し領内へ回せ」
「はい」
惟種は答えた。
鬼童の名も、落とした館も、流れ込む民も、すべてが次の札になる。
戦の勝ちを、ただの一勝で終わらせぬ。
それがいまの阿蘇に必要なことだった。
灯の揺れる小座敷の中で、惟種は静かに思う。
田が太り、
市が立ち、
兵が勝ち、
名が立つ。
次は、言葉で南を動かす番だ。
十月の夜は深く、館の外では風が木々を揺らしていた。
その風はもう、肥後の中だけを回る風ではない気がした。




