第二十一話 阿蘇の鬼童
天文十四年(1545年)十月
戦は、評定の外で決まることがある。
その日、惟種が呼ばれたのは、いつもの評定の広間ではなかった。館の奥、夜の冷えた空気が障子の隙からわずかに入り込む、小さな座敷である。
中にはすでに、阿蘇 惟豊と甲斐 宗運がいた。
灯は二つ。
地図は一枚。
座敷の外には人払い。
惟種は膝を折り、深く頭を下げた。
「お呼びと伺いました」
惟豊は惟種を見た。
「境目が動いた」
その一言で十分だった。
宗運が地図の一点を押さえる。
「年貢道の渡しに手が入りました。新市へ向かう荷を止め、阿蘇へ移ろうとした百姓を脅し、二つの小村で逃散を防ぐため締めつけを強めております」
「誰だ」
惟種が問うと、宗運は淡々と答えた。
「鹿子木に通じる境目衆です。館主は中村左近。鹿子木の名をちらつかせておりますが、本家がどこまで噛んでいるかはまだ見えておりませぬ」
「だが、放置はできぬ」
惟豊の声は低い。
「はい」
宗運は頷いた。
「放っておけば、阿蘇へ流れようとする民は止まり、新市へ来る商いも痩せます。これは境目の揉め事ではありませぬ。阿蘇が大きくなり始めたことへの最初の反撃です」
惟種は地図を見た。
谷。
渡し。
林。
低い丘。
そして館。
敵のやり口は小さい。だが狙いは小さくない。
道を噛み、民を止め、阿蘇の伸びを殺す。
惟豊が言った。
「討つ」
短かった。
しかし、もう決定の声だった。
宗運も異を唱えない。
「兵は多く出します」
「どれほどだ」
「七百」
惟種は顔を上げた。
七百。
相手の倍どころか、それ以上である。
宗運は惟種の視線を受けて、静かに続けた。
「相手はせいぜい三百。二百五十を超えるかどうか。今回は勝ち戦にいたします」
惟豊がそこで惟種を見た。
「惟種。そなたも出る」
惟種は息を止めた。
考えていなかったわけではない。いつかはそうなると思っていた。だが、こうもはっきり言われると、胸の奥で何かが強く打った。
「……よろしいのですか」
宗運がすぐに言う。
「本陣より前へは出しませぬ」
「わかっておる」
惟豊は宗運を見ずに答えた。
「だが、もう見せねばならぬ。家中にも、外にも、次がいるとな」
惟種はようやく理解した。
これはただの戦ではない。
初陣であり、若君御出馬を家中へ見せるための戦なのだ。
「ただし」
惟豊の声が一段低くなる。
「これはそなたに武功を立てさせる戦ではない。戦を見せる戦だ。兵の動き、将の顔、勝つ前に何が決まるか、それを見よ」
「はい」
「そして、もしそなたの目が役立つなら、それを使え」
惟種は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その夜は、なかなか寝つけなかった。
六つにも満たぬ身で、戦に出る。
実際に槍を執るわけではない。前に出るわけでもない。だが、行くことそのものが意味を持つ。
惟種は布団の中で目を閉じながら思った。
(なら、見るしかない)
自分にできるのは、斬ることではない。
宗運が見ているものを見、宗運より少しだけ早く言葉にすることだ。
出陣の朝は、まだ暗かった。
館の庭には松明が立ち、兵が列をなし、槍の穂先が火を弾いている。馬のいななき、鎧のこすれる音、足軽の低い話し声。冷えた空気の中で、それだけが熱を持っていた。
惟種が庭へ出ると、すでに諸隊は整い始めていた。
七百余。
数は、見ればわかる。
庭いっぱいに人があふれ、門の外へまで列が伸びている。先鋒、左右備え、後詰、使番、荷持ち、馬廻り。勝つために、そして若君を安全に出すために、多くしてある。
高森 惟房が脇へ寄った。
「若君、本日は本陣付きにございます」
「わかっておる」
「本当に、でございますか」
「今日は前へ出ぬ」
惟房は黙って頷いた。
その隣では、北里 政久がやけに落ち着きなく動き回っている。嬉しいのか怖いのか、自分でもわかっていない顔だ。光永 惟清は、今日までついてくるのかと思ったが、本当にいた。板と筆まで持っている。
「お前は戦場で何を書くつもりだ」
惟種が言うと、光永は真顔で答えた。
「若君の初陣を」
「まだ何もしておらぬ」
「これからなさるやもしれませぬ」
その返しに、惟種は少しだけ笑った。
宗運が馬上で指図を飛ばしていた。
「先鋒、詰めすぎるな。右備えは山際へ。左は沢筋を見る。後詰は若君本陣に寄せろ」
声がよく通る。
宗運の言葉が動くたび、人も動く。七百が一つの生き物のように形を変えていく。
惟豊が庭へ姿を見せたのは、東の空がわずかに白んだころだった。
兵のざわめきが止む。
惟豊は惟種の前で足を止めた。
「よいか、惟種」
「はい」
「今日、そなたは阿蘇の兵に見られる。村の者にも見られる。敵にも見られる」
「はい」
「若君らしくあれ。だが、ただの童であるな」
その言葉は矛盾しているようで、よくわかる。
堂々としていろ。
だが調子に乗るな。
そういう意味だ。
「宗運の言を違えるな」
「承知いたしました」
惟豊は一歩下がり、兵へ向けて声を張った。
「若君御出馬である! 阿蘇の兵、恥をかくな!」
七百余の気配が、どっと揺れた。
その一声で、今日の戦のもう一つの意味が決まった。
若君が初めて戦場へ出る。
それ自体がもう、家中への布告である。
行軍は長かった。
山道は狭く、列は細く伸びる。先頭と最後尾では別の世界のようだ。谷を越え、林を抜け、ぬかるんだ坂を上り下りするたび、兵の足音が絶えず続く。
惟種は本陣付きの馬に乗せられていた。惟房が横、政久が前後を走り、宗運の足が見えぬ距離でついてくる。守られているのがよくわかる。
だが、見えないわけではない。
先鋒の動き。
使番の走る回数。
荷駄の遅れ。
兵の顔色。
惟豊の言った通りだ。戦は始まる前から、すでにいくつも決まっている。
昼前、本陣は小高い尾根の手前に据えられた。
前には細い谷。
谷を下ると小川。
その向こうに田。
さらに奥に雑木林。
敵の館は、その林を抜けた丘の先。
惟種はその地を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
(いやだな、この地形)
正面は狭い。
左右は林。
谷へ下れば足が鈍る。
勝つには勝てる。だが、追えば危ない。
宗運が地図を広げた。
「相手は、こちらの多さを見て退くでしょう」
「館へ籠るか」
惟房が小さく言う。
「あるいは、崩れたように見せるか」
宗運がそれに頷いた。
惟種は黙って谷を見た。
逃げるにしては、逃げ道が整いすぎている。
林が近すぎる。
退き筋が一つにまとまりすぎている。
惟種は口を開いた。
「追わぬ方がよい」
宗運が横目で見る。
「理由を」
「退く形が、整いすぎております。崩れて逃げるなら、もっと散る。あれは誘っております」
宗運は空と地を一度見てから、わずかに頷いた。
「……わたくしも、そのつもりで見ておりました」
やはりそうか、と惟種は思った。
だが次の一言は、自分が先に言えた。
「林に伏せがいる」
「政久」
「はっ!」
「山の耳を連れろ。右の林へ三十、さらに奥へ二十。左の沢にも二十。足を潜めて見よ」
使番が走る。
兵が散る。
惟種はさらに空を見た。
風が変わっている。朝より重い。山の向こうに低い雲がたまり、湿った匂いが谷へ降りてきていた。
「宗運」
「はい」
「雨が来る」
宗運が空を見上げる。
「……早いか」
「昼まで持たぬかもしれぬ。谷へ入れば足を取られる」
「ならば、なおさら追わせませぬ」
その時、前方から使番が駆け戻った。
「右手の林、敵影あり!」
本陣の空気が一変する。
「数は!」
「三十、四十、さらに奥にも気配あり!」
宗運の声が飛ぶ。
「正面、押しすぎるな! 退くように見せよ! 右へ回した兵で林の口を叩け!」
阿蘇方先鋒は、押し気味だった足をわずかに緩めた。相手はそれを見て、機が来たと思ったのだろう。
林から伏兵が躍り出た。
叫び声。
土を蹴る音。
槍の先が濡れた葉を払って光る。
だが、その横腹へ、宗運が先に回していた兵が刺さる。
ぶつかる。
崩れる。
伏兵の勢いが、一瞬で鈍る。
正面の敵も合わせて押し返そうとしたが、阿蘇方は乱れない。兵数が違う。しかも伏兵が潰れた時点で、敵の勝ち筋は半ば消えていた。
惟種は本陣の後ろからその動きを見ていた。
人が倒れる。
泥が跳ねる。
雨の前の風に旗が鳴る。
その時、ぽつ、と一滴落ちた。
次の瞬間には、もう早かった。
山の雨だった。
細く降り始めたかと思えば、すぐに地を濡らし、谷の土を重くし、小川の水を濁らせる。
敵は退こうとした。
だが足元が悪くなり、退き筋が詰まる。
阿蘇方は追いすぎず、道だけを断つ。
宗運の声がまた飛ぶ。
「左も回せ! 退き道を切れ! 館へ戻すな!」
惟種は地図で見た細道を思い出した。
谷の北。
沢沿い。
獣道のような抜け道。
「宗運!」
「はい!」
「館裏へ抜ける細道がある! 沢沿いだ!」
宗運は一瞬でそれを理解した。
「政久!」
「はっ!」
「山の耳を連れろ! 館裏へ回れ! 逃げる敵を止めよ!」
政久はそのまま走った。
雨の中を、人が流れる。
館へ逃げる敵。
それを遮る阿蘇の兵。
正面から押す主力。
横を抉る別働。
やがて館の方から、ひときわ大きな崩れの声が上がった。
館裏へ抜けようとした敵が、政久たちにぶつかったのだろう。
もう終わりだ、と惟種は思った。
相手は小勢だった。
最初から兵数で負けている。
そこへ伏兵を見抜かれ、雨に足を取られ、退き道まで断たれた。
勝負は決した。
館の門が破られた時には、雨はかなり本降りだった。
阿蘇方はなおも整然としていた。
押し勝つが、崩れぬ。
欲張って深追いせず、逃げ道だけを潰す。
宗運の戦だった。
惟種が初めて前へ出たのは、館がほぼ落ちた後だった。
もちろん本当に前線ではない。惟房と足が張りつき、宗運の許しが出た位置までだ。
それでも、兵たちには十分だった。
若君が、雨の中を館前まで来た。
そしてその直前に、伏兵と雨を読み、細道を言い当てた。
その事実は、もう戦場で話になり始めていた。
「若君が読まれたぞ」
「鬼のように先を見た」
「童とは思えぬ」
「阿蘇の鬼童だ」
最初に誰が言ったのかはわからない。
だが、その言葉は妙に戦場へ馴染んだ。
鬼童。
幼いのに、読む。
童なのに、怖いほど先を言い当てる。
惟種はその呼び声をはっきり聞いたわけではなかった。
だが、兵たちの目がもう前とは違うことはわかった。
ただの若君を見る目ではない。
何かよくわからぬものを持つ若君を見る目だった。
宗運が馬を寄せてきた。
「勝ちました」
「見ればわかる」
惟種が言うと、宗運は雨を払って続けた。
「若君の読みも、よく働きました」
「宗運も気づいていた」
「ええ。ですが、先に言葉にしたのは若君です」
その一言が重かった。
あとで家中に残るのは、たぶんその形だ。
宗運が勝たせた。
だが若君は、その戦の急所を読んだ。
惟豊が館前へ来たのは、戦が完全に結してからだった。
当主みずから前へ出る必要はない。だが、若君の初陣の勝ちを見届けるには来る。
惟豊は崩れた館、縛られた敵、泥にまみれた兵、そして惟種を見た。
「どうだった」
惟種は少し考えた。
「勝つ前に、だいたい勝ち負けは決まっているのですね」
惟豊は黙った。
「地と、道と、腹と、空で」
宗運が、そこで小さく頷いた。
「よく見られました」
惟豊はわずかに口元を動かした。
「初陣としては、上出来だ」
そのあとだった。
少し離れたところで、討ち取りを終えた足軽の一人が、仲間に向かって言った。
「見たか。若君は鬼のように先を読まれたぞ」
「鬼童だな、ありゃあ」
「阿蘇の鬼童よ」
その声は大きくはなかった。
だが雨音の中で、不思議によく通った。
惟豊が一瞬だけそちらへ目をやり、宗運も聞いていた。
宗運は何も言わず、惟種を見た。
惟種は少しだけ苦笑した。
「妙な名がついたな」
「戦場の名など、そのようなものです」
宗運が答える。
「ですが、悪くはありませぬ」
惟豊も低く言った。
「怖れられる名は、時に守りになる」
惟種は、雨の向こうの兵たちを見た。
鬼童。
いずれ、それはもっと大きな異名へ変わるかもしれない。
だが今日は、それで十分だった。
この日、阿蘇の若君は初めて戦場へ出た。
そして、槍でなく目で勝ちに寄与した。
そのことが、まずは兵の口から広がる。
戦場で立つ名は、評定で決める官位より、ずっと早く人の腹に落ちる。
惟種は、濡れた空を見上げた。
勝ち戦だった。
だからこそ、自分はここへ連れてこられた。
だが勝ち戦を、より確かな勝ちにしたのは自分の目だった。
それは、これから先の自信になる。
そして危うさにもなる。
鬼童。
その名は守りにもなり、標的の印にもなる。
だが、それでいいのだろう。
もう、自分はただの子ではない。
館の処分、村の取り込み、道の回復はその日のうちに始まった。
宗運の指図は早く、百姓と職人は保護され、武士と与党は縛られ、館は武士の拠点として残さぬよう壊されていく。
勝ったあとに、どう太るか。
それが大事なのだと、惟種はこの日初めて本当に理解した。
帰り道、惟房がぽつりと呟いた。
「若君」
「うむ」
「もう兵は、あなたをただの若君とは見ませぬ」
惟種は前を見たまま答えた。
「それでよいのか、まだわからぬ」
「わからずとも、そうなりました」
その通りだった。
山道を戻る阿蘇の列は、来た時よりずっと静かで、ずっと太く見えた。
その中ほどで、幼い若君が馬に揺られている。
兵はもう、あの子をただの童とは見ていない。
噂は今夜のうちに村へ下り、明日には館へ届き、やがて境目の向こうへも流れるだろう。
阿蘇の鬼童。
その名とともに。




