第十七話 火を絶やさぬために
天文十四年(1545年)七月下旬
評定から十日あまり。
矢部の外れに新しく整えられた鍛冶場では、もう朝から鉄を打つ音がしていた。
かん、かん、かん。
火床の前でふいごが鳴り、赤くなった鉄が金床へ置かれる。打たれるたび、火花が散る。その一つ一つが、まるで家の骨を作っているように見えた。
惟種は小屋の外からその音を聞き、胸の内でひとつ頷いた。
(間に合ったな)
六月の評定で決まったことは、もう動いている。
田を肥やす。市を育てる。飴と玻璃で銭を作る。その銭で鍛冶場を整える。
言葉にしたものが、形になる。
前世ではそれがいちばん難しかった。会議で決まり、紙に書かれ、それで終わることのほうが多かった。
だがこの時代は違う。決まったことは、人が動けばすぐ形になる。
良くも悪くも。
「若君」
脇から声がした。田代 宗傳である。
「お早うございます」
「お早う。もう回っておるな」
「はい。まずは農具と金具からにございます。鍬先、釘、蝶番、留め具、馬具の修理。戦の匂いが強すぎぬよう、まずは家と田を助けるものから」
「うむ。それでよい」
鍛冶場はできた。
といっても、何もないところに突然大工房が湧いたわけではない。領内に散っていた村鍛冶、農具鍛冶、城付きの修理鍛冶、その火と腕を少しずつ寄せ集め、阿蘇家の手の内へ置いたのだ。
宗傳の仕事は相変わらず早い。
宗運が方針を決め、宗傳が人と手を繋ぎ、現場を動かす。惟種はその流れを見ながら、あらためてこの家の強みを感じていた。
火床の奥では、年嵩の鍛冶が黙って鉄を打っている。別の若い職人がふいごを踏み、その横で水桶を持つ小者が忙しく動いていた。
まだ小さい。
だが、回る鍛冶場だ。
「光永は?」
「中におります」
宗傳が目で示すと、奥から光永 惟清が板を抱えて出てきた。顔に煤をつけている。
「若君。記しを改めました」
「……お前、だいぶ馴染んでおるな」
「記すためには、見て触れねばなりませぬ」
まことにその通りだが、十三歳の少年が煤だらけで言うと妙に可笑しい。
光永は板を差し出した。そこには鍛冶場で作る品の順が書かれている。
一、農具
二、釘・金具
三、馬具・修理
四、玻璃道具
五、兵具補修
その下には、まだ細字で小さく、
――ばね細工、試み
とあった。
惟種は口元を少しだけ上げた。
「そこまで書いたか」
「宗傳殿がお許しくださいました」
「試みにございます」と宗傳がすぐ言う。「いまはまだ遊びに近い細工です」
「遊びでよい。遊びのうちに手を覚えさせる」
惟種がそう言うと、宗傳は満足そうに頷いた。
そこへ、高森 惟房と北里 政久が入ってきた。惟房はいつも通り静かで、政久はいつも通り目が光っている。
「若君、山見より戻りました」
政久の声は弾んでいた。
惟種はすぐ表情を引き締めた。
「どうだった」
「黒川の方、長陽の方、どちらも“鉄気のある石”を知る者はおります」
宗傳と惟種の目が合った。
やはり、そこか。
阿蘇郡内で後に鉄山や鉱山として名が見えるのは、黒川、長陽、永水あたりである。だが、今の時代にそれが大きく掘られているという話まではない。ならばまずは**古老と山民の知る“鉄気ある山”**を押さえるべきだった。
「誰が言っておった」
「炭焼きと猟師にございます」と政久。「赤茶けた石の出る沢筋、火に入れると匂いの違う土、そういうものは昔から知られております」
「よい拾いだ」
惟種はそう言ったが、内心はかなり高ぶっていた。
黒川、長陽、永水。
後世に鉄や鉱物の話が出るなら、少なくとも“山が死んでいる”わけではない。いま掘られていないなら、こちらが先に気づいて押さえればいい。
そこへ、低い声が入口から入った。
「そう急くな、若君」
甲斐 宗運だった。
鍛冶場の熱気の中に入ってきても、この人の声はなぜか涼しい。
「急いておるように見えますか」
「見えます」
ぴしゃりと言われ、惟種は口をつぐんだ。
宗運は鍛冶場の中を一通り見てから、打ち上がった鍬先を一つ手に取る。
「よくできておる。まずはこの火を安んじて回すのが先です」
「わかっている」
「そのうえで山を見るならよいでしょう」
宗運はそう言って、政久へ向き直った。
「黒川と長陽、他には」
「永水にも、似た話がございます。谷筋の赤土と、黒い重い砂にございます」
砂鉄か、と惟種は思った。
この時代、鉄は必ずしも岩から掘るばかりではない。川や沢から取れる重い砂、つまり砂鉄は、たたらにはむしろ扱いやすい場合もある。
宗運が言う。
「岩の鉄か、砂の鉄か、そこを見分けねばならぬな」
「見分けられますか」と宗傳。
「目利きがおればな」
そこで宗運は惟種へ視線を移した。
「若君。そなた、炉のことを少し口にしておりましたな」
きた。
惟種は慎重に頷く。
「うむ。いまの炉でも鉄は作れるが、もっと湿気を嫌うべきだな」
鍛冶たちの手が、わずかに止まった。
職人の前で、童が炉の話をする。
そりゃ止まる。
惟種は続けた。
「火は、風と土と乾きで変わる。地が湿っておれば熱が逃げる。炉床の下に石と砂利を敷き、水の逃げ道を作れば、火はもっと安定するはずだ」
宗傳がすぐに聞く。
「炉の下に、でございますか」
「うむ。地べたに直接置くより、乾いた床を作る。できれば炭灰も敷きたい。炉の周りも、風が乱れぬよう囲いたい」
宗運は黙って聞いていた。
惟種はさらに言葉を選ぶ。
「それと、土だ。炉に使う土は選ぶべきだ。粘りがありすぎても、なさすぎても良くない。焼けて崩れぬ土が要る。それから炭も、あまり細かすぎると火の回りが悪い」
鍛冶の親方が、そこで初めて口を開いた。
「若君は、鍛冶の生まれではありますまい」
「違う」
「なのに、妙に筋の良いことを申される」
疑っているのか、感心しているのか、どちらともつかない顔だった。
惟種は少しだけ笑った。
「夢で見たのだ」
親方は黙った。
この家では、もうそれである程度通る。便利なのか危ういのか、自分でも時々わからなくなる。
宗運が場をまとめるように言った。
「若君の言うことは、すぐにすべて試す必要はない。だが、炉床の湿気抜き、土の選り分け、炭の粒の揃え、これらは理にかなっております」
宗傳も頷く。
「まずは小さく試しましょう。いまある鍛冶場の横に、試し炉を一つ」
「それがよい」
惟種は少しだけ身を乗り出した。
「大きく変える必要はない。いきなり別の製鉄法に飛ぶのではなく、今あるやり方を“少し良くする”だけでよい」
そう、そこが大事だ。
ここでいきなり近代高炉の発想を持ち込んでも、人も技も資材も追いつかない。だが、炉床の排水、防湿、送風の安定、原料の選別――そういう改善は効く。
宗運は静かに笑った。
「ようやく、そなたも急ぎ方を覚えてきたようですな」
「急がぬのではない。急ぎ方を変えるのだ」
「それでよろしい」
政久が堪えきれぬ様子で言う。
「では、山はどういたします」
「見る」
宗運が即答した。
「ただし“大鉱山が見つかった”顔はするな。まずは山見、次に試し掘り、その次に炭焼き場とのつなぎだ」
惟種は頷く。
それが正しい。
いきなり鉄山だ金山だと騒げば、周りが嗅ぎつける。相良も名和も、北西の国衆も、大友も、耳は早い。
今は静かに、だ。
宗傳が板をもう一枚広げた。阿蘇谷から外輪へ向かう道筋、長陽の山、黒川の谷、永水のあたりが簡単に描かれている。
「まず三手に分けます。ひとつ、鍛冶場を安定させる。ひとつ、炭山を押さえる。ひとつ、鉄気ある山を探る」
「よい」
惟種は地図を見下ろした。
黒川。長陽。永水。
後世に名が残るなら、この時代にも山はそこにある。掘る技と組織が足りないだけだ。
ならば作ればいい。
鍛冶場を。炭山を。山見の網を。いずれは鉄の流れそのものを。
親方が、火床から目を離さずに言った。
「若君。山で鉄が見つかっても、炉が悪ければ無駄になりますぞ」
「知っておる。だから炉も直す」
「人が悪ければ、もっと無駄になります」
惟種はそこで小さく息を呑んだ。
その通りだ。
炉だけでもだめ。山だけでもだめ。人が要る。
村下にあたる目利き、鍛冶の親方、炭焼き、運び手、山に詳しい猟師や杣。全部がつながって初めて鉄になる。
宗運が、その言葉を受けるように言った。
「ゆえに、これは鉱山だけの話ではありませぬ。家の仕組みの話です」
「うむ」
惟種は強く頷いた。
「鍛冶場は火を作る場ではない。火を絶やさぬ仕組みを作る場だ」
宗傳の目が、わずかに細くなった。
「それ、いただいてもよろしいですかな」
「何にだ」
「惟豊様への言上に」
「勝手に使え」
宗傳が笑う。珍しいことだ。
惟房が入口から外を見やった。
「誰か来ます」
少しして、阿蘇 惟豊の側近が現れた。
「宗運様、宗傳殿、惟種様。惟豊様より」
その場の全員が少し姿勢を正す。
「“鍛冶場が立ったなら、次は山の話を持って来い”とのことにございます」
惟種は思わず宗運を見た。
父は、もう先を読んでいる。
宗運は苦くも愉快そうにも見える顔で言った。
「聞いておられたようですな」
「壁に耳でもついておるのではないか」
「当主とはそういうものです」
惟種は苦笑したが、胸の奥は熱かった。
鍛冶場を作る。山を見る。炉を改める。炭を押さえる。
まだ何一つ大きな成果はない。だが、全部がつながっている。
そこへ光永が、煤だらけの指で板の端に新しく書き込んだ。
一、鍛冶場
二、炭山
三、山見
四、試し炉
惟種はそれを見て、ゆっくり頷いた。
「よし。次は山だ」
宗運が言う。
「その前に、今日の火を見届けましょう」
親方がちょうど、赤く焼けた鍬先を金床に置いたところだった。
かん。
最初の一打。
それは田のための鉄だった。
だが惟種には、その音が阿蘇の山へ打ち込まれた最初の楔のように聞こえた。
かん、かん、かん。
六月の終わり、鍛冶場の音は、次の山へと続いていった。




