第十六話 評定の端
銭は、道を開く。
田を直し、市を育て、鍛冶場を起こし、その先で兵を整える。
頭の中ではずっと繋がっている。
だが今日は、その先を夢見る日ではなかった。
今日は、初めて評定の端へ座る日だ。
庭へ面した広間の前で、高森 惟房が足を止めた。
「若君、ここより先は」
「うむ。わかっておる。今日は聞くのが役目だ」
そう答えたものの、胸の内は少しだけ重かった。
会社の会議室を思い出す。部長級がずらりと並び、その端に課長が一人、妙な資料を抱えて座る。発言の順を誤れば詰められ、黙っていても無能と思われる。
(戦国も、たぶん本質はそんなに変わらん)
違うのは、失敗した時の重さだけだ。
障子の向こうから低い声が重なっていた。家中の主だった者が、すでに集まっている。
惟房が静かに障子を開けた。
中の空気が、ふっとこちらへ流れてくる。
惟種は一歩、敷居をまたいだ。
上座には父、阿蘇 惟豊がいた。その右に甲斐 宗運。左には田代 快尊と、その少し後ろに田代 宗傳。さらに合志伊勢守、黒仁田豊後守、ほか数名の一門や城持ちの者たちが座している。
視線が集まった。
正面から、横から、値踏みするように。
狐憑き。神意。夢を見る若君。飴と玻璃を生んだ童。
噂はもう、家中の隅まで回っている。
惟種は黙って父へ頭を下げた。
惟豊が頷く。
「座れ、惟種。今日は端でよい。よく聞け」
「は」
用意された末席へ座る。
思っていたより近い。部屋の端といっても、声はすべて届く距離だった。むしろ、逃げ場のない席だ。
惟豊は一座を見渡した。
「始めよう。今日は二つ。ひとつは家中の守りと境目のこと。いまひとつは、近ごろ生まれた銭の使い道だ」
そこで、わずかに間を置く。
「後のことには、惟種にも聞かせる」
広間の空気が、目に見えぬほどわずかに揺れた。
快尊が咳払いを一つした。
「では、まず境目より」
声は低く、無駄がない。惟種は、ああこの人が現場を束ねてきた声なのだなと思った。
「相良とは、今は角を立てぬままに収まっております。名和もまた、表向きは静かです。ただし、静かというだけで、心まで同じではありませぬ」
合志伊勢守が続けた。
「名和は西を押さえ、宇土の方へも目を配っておりましょう。和したとはいえ、利があれば動く相手。気を許すべきではありませぬ」
宗運が静かに言う。
「許す者などおらぬ。だが、いま敵を増やす理もない」
短い一言で場が締まる。
惟種は心の中で整理した。
(いまの阿蘇は、相良と名和を敵に回さず、大友を見ている。島津はまだ遠い。だが遠いからこそ、先に道を作る価値がある)
黒仁田が口を開いた。
「大友の圧は、すぐにでも強まるやもしれませぬ。肥後に手を入れる名目は、いくらでも立ちましょう。菊池のこと、隈本のこと、境の揉め事――」
「うむ」
惟豊が頷く。
「大友は、正面から噛みつくより、“鎮める”顔で来る。そこが厄介よ」
惟種は思わず父を見た。
その言い方が、あまりに自分の考えと近かったからだ。
大友はただの悪役ではない。肥後へ介入する理屈を持って来る。だからこそ厄介で、だからこそ迎え撃つ形を整えねばならない。
快尊が畳の上に指を置くようにして言った。
「城、鹿子木、赤星、隈部――北と西の国衆は、皆それぞれ腹に一物あります。いま阿蘇が強く出れば寄る者もおりましょうが、早すぎれば、かえって大友の口実になりまする」
田代宗傳が、隣から少し身を乗り出した。
「ゆえに、いまは富を増やし、兵糧を増やし、人をつなぐ時かと」
宗運が宗傳へ目を向けたあと、惟豊へ返した。
「評定の筋としても同じにございます。争う前に、家を太らせるべき時です」
惟豊は満足げでもなく、不満げでもなく、ただ当然のこととして頷いた。
「よい。では銭の使い道へ移る」
ここで、広間の空気が少しだけ変わった。
境目の話は、誰もがいつもの顔で聞いていた。だが銭の話になると、身を乗り出す者が増える。戦国は結局、飯と金だ。
惟豊が惟種の方を見た。
「惟種。そなたの考えを、まず短く言え」
きた。
惟種は息をひとつだけ整えた。
「は。銭は、まず田と市に入れるべきにございます」
一座の目が寄る。
「田を整えれば、飯が増えます。市を育てれば、銭が巡ります。水飴は広く売れます。玻璃は上へ売れます。その二つで生まれた銭を、鍛冶場へ入れとうございます」
快尊が眉を動かす。
「鍛冶場」
「はい」
惟種は頷いた。
「槍や太刀だけではありませぬ。農具、金具、馬具、釘、修理。玻璃に使う道具もまた、鍛冶が要ります。鍛冶場が整えば、家の動きそのものが速くなります」
宗傳が、少しだけ口元を和らげた。
たぶん、前に相談した時と同じだと思ったのだろう。
黒仁田が問う。
「兵はどうする、若君。銭を作るばかりでは、押し寄せる敵は退かぬ」
「退かぬゆえに、急がぬのです」
言ってから、惟種は内心で(言い方、強かったか)と思った。
だが、惟豊も宗運も止めなかった。
ならば続ける。
「いま兵へ一度に銭を入れれば、その年は強う見えましょう。されど翌年、飯が足りねば続きませぬ。鍛冶場は、兵のためでもあり、田のためでもあり、市のためでもあります」
宗運が、そこで初めて口を添えた。
「さらに言えば、鍛冶場は人を抱える器でもある。職人は銭を生み、道具は田を助ける。若君の言いたいのは、そこであろう」
「は」
助け舟だった。
宗運は惟種をまっすぐ見ず、場全体へ向けて言う。
「兵を整えるにも、まず地を整えねばならぬ。いまの阿蘇は、そこを急ぐべきです」
合志伊勢守が腕を組む。
「鍛冶場を起こすとして、鉄はどう集めます」
「山から拾える分には限りがあります、買う分も出ましょう」と宗傳。
「買う先を持たねばならぬな」と快尊。
惟種は、その一言に心の奥がぴくりと動くのを感じた。
買う先。
南。
まだ、今ここで鉄砲だの島津だのと、前へ出しすぎるべきではない。だが、まったく触れぬのも損だ。
惟種は慎重に口を開いた。
「南の方には、新しき火器の話もあるとか」
何人かが顔を上げた。
宗運の目が、わずかに細くなる。
「ほう」
「噂ほどのことにございます。されど、火を継ぐ筒があるなら、それを扱うにも鍛冶が要りましょう。今すぐ欲しいと申すのではありませぬ。ただ、南に通う道は、細くとも持っておいた方が良いかと」
沈黙。
早すぎたか、と思いかけたところで、黒仁田が鼻で笑った。
「童らしからぬことを申す」
棘はあったが、全否定ではない。
快尊が宗運へ目を向ける。
「島津筋に、ということか」
宗運は答えを急がなかった。数拍おいてから言った。
「いま縁を結ぶ、という話ではない。されど、南をよく知ることに損はない」
惟豊も同じだった。
「阿蘇は北西も西も東も見ねばならぬ。南だけ目を閉じる道理はない」
その一言で、この話題は“若君の夢言”ではなくなった。
惟種は胸の奥で、ほっと小さく息をついた。
(これでいい。今は匂わせるだけでいい)
宗傳が話を戻す。
「鍛冶場は、まず小さく始めるべきでしょう。飴と玻璃の利が続くか見極めつつ、農具と金具を先に打たせる。馬具、修理、その次に兵具」
「ばね、という話もありましたな」
合志の声に、惟種は少しだけ身を固くした。
宗傳め、そこまで上げていたか。
だが宗運が平然と受けた。
「細工としては面白い。いずれ仕掛けに化けるやもしれぬ。今は職人の手を慣らすものと見ればよい」
快尊が低くうなる。
「若君の夢は、妙に先が長い」
「長くなければ家は保てませぬ」
惟種は自分でも驚くほど自然にそう言っていた。
広間が静まる。
しまった、と思った時にはもう遅い。
だが惟豊が、すぐには叱らなかった。
「続けよ」
促され、惟種は腹を決めた。
「いま阿蘇が欲しいのは、一年勝つ強さではなく、十年保つ強さにございます。田が荒れ、市が痩せ、人が逃げる家は、どれほど槍があろうと弱うなります。逆に、飯があり、銭があり、人が集まる家は、あとから兵も強くできます」
言いながら、自分の中の会社員の感覚が滲むのがわかった。
目先の数字を整えるだけでは組織は死ぬ。採算の取れる仕組みを作らねば、現場は擦り切れる。
戦国の家も同じだ。
ただ、こちらは潰れた時に首が飛ぶだけで。
黒仁田が今度は真顔で問う。
「では若君、いまの阿蘇の敵は誰と見る」
これは試しだ。
惟種は少し考えてから答えた。
「敵、と決めてしまえば、敵は増えます」
場がしんとした。
「いまは相良と名和を敵にせぬことが肝要かと。大友はやがて口を出してきましょう。されど、こちらから争いの形を作るべきではありませぬ。阿蘇はまず、肥後で“話を通すと得な家”になるべきです」
宗運の目が、初めてわずかに笑った。
快尊は腕を組んだまま、深く息を吐いた。
「なるほど。争いに勝つより前に、争いの場そのものを選ぶということか」
「は」
惟豊が低く言った。
「惟種」
「は」
「そなた、今日は聞く役目であったな」
しまった、と惟種は思った。
言いすぎた。
だが、惟豊の口元にはかすかな笑みがあった。
「だが、よい。よく見ておる」
広間の空気が、少しだけ緩んだ。
そこで宗運が話を締めにかかった。
「では評定の結を申し上げます。第一、相良・名和とは和を保ち、境目は騒がせぬ。第二、北西の国衆は見張りを強め、軽々しく刺激せぬ。第三、水飴と玻璃の利は、田・市・鍛冶場へ回す。第四、鍛冶場は小さく始め、農具・金具・修理を先とする。第五、南方の新しき武器と流れについて、密かに耳を立てる」
惟豊が頷く。
「異存あるか」
誰も口を開かなかった。
合意、である。
惟種は胸の内でその重みを噛みしめた。
自分が夢見た線が、たしかに一本、家の方針に混じった。
まだ細い。すぐ折れるかもしれぬ。
だが、入った。
評定が解かれ、面々が立ってゆく。去り際、黒仁田が惟種の前で足を止めた。
「若君」
「はい」
「先を見すぎる童は、足元を掬われますぞ」
声は冷たいが、目はそこまで冷えていなかった。
惟種は頭を下げた。
「気をつけまする」
黒仁田はふっと鼻を鳴らし、そのまま出ていった。
次に快尊が近づいてくる。
「鍛冶場、始めるなら人の手当てが要る。夢だけでは回らぬぞ」
「は。そこを学びたく」
「ならば宗傳を困らせすぎるな」
そう言って、快尊は宗傳の肩を軽く叩いた。
宗傳は苦笑する。
「もう十分困っております」
「まだ序の口にございます」
惟種が言うと、宗傳は珍しく声を出して笑った。
人が減り、最後に惟豊と宗運だけが残った。
惟種は座り直し、ふたりへ向き直る。
惟豊が先に口を開く。
「どうだった、初めての評定は」
「息が詰まりました」
「そうであろうな」
「皆、目が怖うございました」
惟豊はふっと笑った。
「今日はまだ、ましな方だ」
宗運が腕を組んだまま言う。
「よく耐えました。言いすぎたところもありましたが、外しはしておりませぬ」
「言いすぎたか?」
「少し」
少し、で済んだ。
惟種は胸をなで下ろした。
惟豊はしばらく黙ってから言った。
「惟種。そなたの申した“阿蘇に話を通すと得な家になる”という言葉、あれは忘れるな」
「は」
「ただし、そのためには威だけでは足りぬ。利が要る。筋も要る。時には位も要る」
朝廷への献金、官位、幕府との縁。
まだ名は出さぬが、父もそこまで見ている。
惟種は深く頷いた。
「ゆえに、まず鍛冶場ですな」と宗運が言う。
ただ、宗運は重い表情で、
「それと――」
宗運が、ほんの少し声を落とした。
「南の話。あれは今後、私を先に通していただきたい」
惟種は宗運を見た。
厳しいが、拒絶ではない。
むしろ、拾っている。
「承知した」
惟種と宗運のやり取りを見ていた惟豊が立ち上がる。
「今日はもうよい。惟種、評定は学ぶ場だ。次も座れ」
そう言い残して去っていく背中を見送りながら、惟種はゆっくり息を吐いた。
畳の匂い。置かれた茶の冷めた香り。さっきまで家の行く先が話されていた部屋の静けさ。
(入ったな)
まだ端だ。
まだ聞く役だ。
だが端に座る者は、いつか盤の全体を見る。
鍛冶場を起こす。
南への細い道を探る。
大友が“鎮める顔”で来る前に、肥後で阿蘇の値を上げる。
その先に、朝廷も幕府もある。
遠い。
遠いが、もう夢の話ではない。
宗傳が障子際で待っていた。
「若君」
「うむ」
「さっそくですが、鍛冶場の件、誰にどこまで話すか、詰めましょう」
惟種は思わず笑った。
「休ませてはくれぬのか」
「評定は終わりましたが、仕事はこれからにございます」
(ああ、そこは前世と変わらんのか)
けれど、不思議と嫌ではなかった。
家が前へ進む音がしたからだ。
惟種は立ち上がる。
「参ろう、宗傳。今度は、鉄の話だ」
障子の向こうには、五月の光が広がっていた。




