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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百三十七話 裁きの旗

 府内へ入った三つの旗は、戦場の空気を変えた。


 阿蘇の旗。


 公方の御旗。


 禁裏より賜った白き御旗。


 その三つが港に立った時、府内で起きていた兵乱は、ただの反阿蘇ではなくなった。


 阿蘇を嫌う者たちの戦ではない。


 九州静謐を乱す者たちの戦になった。


     ◇


 惟種は、船を下りるとすぐに命じた。


「文を出せ」


 種茂が筆と板を用意する。


 親英は港を押さえ、戸次鑑連は旧大友の者たちを集める。


 宗運は、疲れた顔で惟種の前に出た。


 その顔を見た瞬間、惟種は少しだけ身構えた。


 説教が来る。


 そう思った。


 だが、宗運はまだ何も言わなかった。


「若君」


「何だ」


「まずは火を消します」


「うむ」


「説教は、その後にございます」


「……やはりあるのか」


「当然です」


 惟種は何も言えなかった。


 宗運は静かに続けた。


「ですが、今はそれどころではございませぬ」


 その通りだった。


 府内は持ちこたえている。

 だが、完全に静まったわけではない。


 義武は隼人を幽閉した。

 伊東は府内へ迫った。

 秋月は北より圧をかけた。

 有馬、大村の残党も集まっている。


 火は多い。


 だが、燃え広がってはいない。


 ならば、消せる。


     ◇


 惟種は、府内館の庭に三つの旗を立てた。


 阿蘇の旗。

 公方の御旗。

 朝廷の白き御旗。


 その前に、降伏勧告の文が置かれる。


 庭には、阿蘇の者だけではない。


 吉弘鑑理。

 吉岡長増。

 臼杵鑑速。

 旧大友の重臣たちもいた。


 彼らは、三つの旗を見ていた。


 ただの布ではない。


 これから阿蘇が下す裁きの形を決める旗である。


 惟種は言った。


「朝廷の御沙汰、公方様の御教書、そして阿蘇の名において告げる」


 声は高くない。


 だが、庭に集まった者たちの耳へまっすぐ届いた。


「兵を捨て、民を乱さず、首謀者を差し出す者は残す」


 旧大友の者たちが息を呑む。


「所領も、名も、働き次第で改めて見る。阿蘇は、降る者をむやみに斬る家ではない」


 そこで、惟種の声が冷えた。


「だが、隼人を幽閉した者。民へ火を放った者。降伏の道を知りながら兵を集めた者。朝廷と公方様の御沙汰に背き、なお九州を乱す者は斬る」


 沈黙。


「これは阿蘇の私戦ではない」


 惟種は、三つの旗を見上げた。


「九州静謐を乱す者への討伐である」


 その文は、すぐに各所へ送られた。


 義武方へ。

 秋月へ。

 伊東方へ。

 有馬、大村の残党へ。

 肥前の龍造寺筋へ。

 南の島津と肝付の境へ。


 ただの脅しではない。


 降る道を示す文であり、同時に逃げ道を塞ぐ文でもあった。


     ◇


 最初に折れたのは、秋月であった。


 秋月方の使者は、夜を待たず府内へ入った。


 馬は泥にまみれ、使者の顔色は悪かった。

 だが、その判断は早い。


「秋月は、兵を引きます」


 使者は深く頭を下げた。


「此度は義武様よりの文に応じ、兵を出しました。されど、隼人様が幽閉されたこと、公方様の御教書ならびに朝廷の御旗が府内へ入ったことを知り、これ以上の加担に理なしと判断いたしました」


 惟種は、使者を見た。


「早いな」


「早くなければ、家が残りませぬ」


 使者は正直だった。


「秋月は、阿蘇と戦いたいわけではございませぬ。まして朝廷、公方様の御沙汰に背きたいわけでもございませぬ」


「ならば、なぜ動いた」


「阿蘇の若君が京にあり、府内が割れると思ったからにございます」


 庭が静まった。


 使者は、額を畳につけた。


「読み違えました」


 惟種は、その一言を聞いた。


 秋月の判断は利である。

 義ではない。


 だが、今この場で必要なのは、無駄な血を流させないことだった。


「兵を引け」


「はっ」


「義武方へ米も兵も出すな。逃げる者を匿うな。首謀者が秋月へ逃げ込めば、捕らえて差し出せ」


「承知いたしました」


「従うなら、秋月の名は残す」


 使者は深く頭を下げた。


「ありがたき御裁定にございます」


 こうして、北の火は大きくならぬまま萎んだ。


 理由は明らかだった。


 秋月は、阿蘇に勝てぬと見たからだけではない。


 阿蘇と戦えば、朝廷と幕府の御沙汰に背くことになると悟ったからである。


 家を残す者は、そこで退く。


     ◇


 義武方の崩れは、さらに早かった。


 大友義武は、大友の名を掲げていた。


 だが、隼人を幽閉した時点で、その名は軽くなっていた。


 吉弘鑑理は、義武のもとへ最後の文を送った。


 隼人様を解き放て。

 兵を解け。

 阿蘇の前に出て、裁きを受けよ。

 今なら、大友の名は残る。

 隼人様を害すれば、大友の名はそこで死ぬ。


 吉岡長増も、同じく文を送った。


 義武様。

 それは大友再興ではございませぬ。

 大友の名を私物にする謀反にございます。

 隼人様に罪はなく、阿蘇はその名を残すと申しております。

 ここで抗えば、大友を滅ぼすのは阿蘇ではなく、貴方様でございます。


 臼杵鑑速は、兵を動かした。


 ただし、義武を助けるためではない。


 義武方へ流れかけた旧臣たちを止めるためである。


「大友の名で民を焼くな」


 臼杵は、そう言った。


「それをすれば、もはや大友の臣ではない」


 義武の陣は、日に日に薄くなった。


 理由は明らかだった。


 義武に従えば、大友を守るのではなく、隼人を幽閉した逆臣に従うことになる。


 しかも、朝廷と幕府の旗を掲げた阿蘇が戻ってきた。


 ここで義武に殉じれば、家ごと逆賊になる。


 家を残したい者は、去った。

 旧恩に揺れる者も、吉弘や吉岡の文で踏みとどまった。

 所領欲しさの者だけが残った。


 その数は、驚くほど少なかった。


     ◇


 大友義武が捕らえられたのは、戦場ではなかった。


 逃げようとした途中である。


 府内の外れ、古い寺の裏手で、義武は近習に囲まれていた。


 だが、その近習のうち二人が、夜半に阿蘇へ通じた。


 理由は簡単であった。


 隼人を殺す命が出たからである。


 義武は追い詰められていた。


 阿蘇が戻った。

 秋月が引いた。

 吉弘たちは動かない。

 伊東も府内を落とせない。


 ならば、隼人を殺し、大友の名を自分だけのものにする。


 そう考えた。


 その瞬間、近習たちは義武を見限った。


 隼人を害せば、大友は終わる。


 それが分かったからである。


 阿蘇兵が寺を囲んだ時、ほとんど戦いは起こらなかった。


 義武は叫んだ。


「我こそ大友の血ぞ!」


 だが、誰も続かなかった。


 戸次鑑連が、輿に乗ったまま進み出た。


 その目は、氷のように冷たかった。


「大友の血を申されるなら、なぜ隼人様を縛った」


 義武は言葉を失った。


 戸次は続けた。


「なぜ、民を戦へ巻き込んだ。なぜ、大友の名を使い、己の兵を集めた」


「鑑連、貴様……」


「某は大友の臣にございます」


 戸次の声は揺れない。


「されど、貴方様の臣ではございませぬ」


 義武はそこで崩れた。


 縄を打たれる時も、まともな抵抗はなかった。


 大友義武の反乱は、戦ではなく、名分の崩壊で終わった。


     ◇


 隼人は、ほどなく救い出された。


 幼い顔は青ざめていた。

 だが、大きな傷はない。


 吉岡長増が、声を詰まらせて頭を下げた。


「隼人様……」


 隼人は、何も分かっていないようで、それでも何かが恐ろしかったことだけは分かっていた。


 惟種は、膝をついて目線を合わせた。


「怖かったか」


 隼人は、小さく頷いた。


「そうか」


 惟種は、声を柔らかくした。


「もうよい。お前に罪はない」


 戸次が深く頭を下げた。


 吉弘も、吉岡も、臼杵も、同じく頭を下げた。


 惟種は立ち上がり、彼らを見た。


「大友の名は残す」


 その一言で、重臣たちの肩がわずかに落ちた。


「だが、義武は斬る」


 惟種の声は、静かだった。


「隼人を幽閉し、大友の名を私物にし、民を乱した。許す理由がない」


 誰も異を唱えなかった。


 むしろ、戸次が静かに言った。


「それが、理にございます」


 義武の処断は、その日のうちに決まった。


 大友は残す。

 隼人は残す。

 忠を保った重臣も残す。


 だが、大友の名を食った者は斬る。


 それが阿蘇の裁きだった。


     ◇


 伊東方の崩れは、義武捕縛の報せとともに始まった。


 伊東勢は、府内を落とせなかった。


 宗運が守り、阿蘇の常備兵が支え、大筒と鉄砲が前を削った。

 秋月は引いた。

 義武は捕らえられた。

 有馬、大村の残党も、兵糧を失いつつあった。


 さらに、阿蘇惟種が三つの旗を掲げて戻った。


 この時点で、伊東勢に勝ち筋は消えていた。


 それでも伊東の将は退けなかった。


 退けば、伊東家中で責を問われる。

 進めば、阿蘇に撃たれる。

 残れば、逆賊である。


 袋の中であった。


 最初に裏切ったのは、伊東方に従っていた小国衆だった。


 彼らは、阿蘇へ文を送った。


 伊東に従って兵を出したのは、圧によりやむを得ず。

 民を焼く意図はなく、朝廷と公方様の御沙汰に背く心もなし。

 兵を引き、首謀の者を差し出す。


 惟種は、その文を読んで言った。


「首謀者を差し出すなら残す」


 宗運が頷いた。


「見せしめは」


「必要な者だけだ」


 惟種は答えた。


「全て斬れば、次は誰も降れなくなる」


「承知しました」


 そして伊東方の陣は、内側から裂けた。


 国衆は逃げた。

 兵糧係が蔵の鍵を持って阿蘇へ走った。

 道案内が消えた。

 夜番が門を開けた。


 伊東の将は、夜明け前に捕らえられた。


 自らの家臣によってである。


 理由は単純だった。


 これ以上従えば、一族郎党が逆賊になる。


 それだけである。


 伊東勢の兵は、武器を捨てさせられた。


 民へ火を放った者。

 乱妨を行った者。

 降伏勧告の後も抵抗した者。


 それらは選び出された。


 首謀者は斬首。

 従っただけの兵は、所領へ戻す前に誓紙を書かせた。


 伊東の侵攻は、戦場で敗れたというより、家中から売られて終わった。


     ◇


 有馬、大村の残党は、さらに哀れだった。


 主を失い、帰る城も乏しく、義武の旗と秋月の呼びかけに寄った者たちである。


 彼らは、府内が燃えれば混乱に紛れて旧領へ戻れると思っていた。

 阿蘇の兵が散れば、肥前も揺れると思っていた。


 だが、府内は燃えなかった。

 秋月は降った。

 義武は捕らえられた。

 龍造寺隆信も孤立しているという。


 残党たちは、最後まで一つにまとまれなかった。


 ある者は逃げた。

 ある者は伊東方に紛れた。

 ある者は山へ入った。


 惟種は命じた。


「降る者は縛って連れてこい。火付け、乱妨、村を荒らした者は斬れ。逃げて山賊になる者は、見つけ次第討て」


 甘い処置ではない。


 だが、理由は明らかだった。


 彼らはすでに一度、降伏の道を拒み、残党として民を乱す道を選んでいる。


 ここで見逃せば、また別の村が焼ける。


 惟種はそれを許さなかった。


     ◇


 府内の火は、消えた。


 見える火は。


 義武は捕らえられた。

 隼人は救い出された。

 秋月は退いた。

 伊東勢は崩れた。

 有馬、大村の残党も散り始めた。


 だが、町には焼け跡が残っている。


 家を失った者がいる。

 逃げる途中で怪我をした者がいる。

 戻らぬ者もいる。


 戦には勝った。


 だが、国は痩せた。


 惟種は、府内館の庭に立つ三つの旗を見上げた。


 ありがたい旗だった。


 同時に、重い旗だった。


 これを掲げた以上、阿蘇はただ敵を討てばよい家ではない。


 降る者を残す。

 民を焼く者を斬る。

 家を残し、国を戻す。


 それが裁きである。


 宗運が、横に立った。


「若君」


「何だ」


「府内の火は、ひとまず消えました」


「南と肥前は」


「まだ燃えております」


 惟種は頷いた。


 裁きの旗は、府内だけで終わるものではない。


 火は、まだ九州の南と肥前に残っている。


 惟種は、静かに言った。


「続けるぞ」


 宗運は深く頭を下げた。


「承知しております」


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― 新着の感想 ―
まだ隆信に付いている者たちがいるのか愚かだ。
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