第百十九話 色のついた火種
天文十八年(一五四九年)八月。
豊後、府内館。
「……加世に会いたい」
政所で帳面を眺めていた惟種は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
大友家との戦は終わり、府内の統治も少しずつ落ち着いてきた。阿蘇から送り込まれた文官たちも働き、町の復興は順調に進んでいる。
だからといって、肥後へ帰れるわけではない。港の修復も、商人への対応も、旧大友家臣団の再編もまだ残っている。
それは分かっているのだが。
「……イチャイチャしたい」
惟種は深くため息をついた。
「いつまで府内くんだりにおらにゃならんのだ……」
阿蘇へ戻れば、加世に会える。一緒に話すだけでも、帳面ばかり眺めているより遥かに楽しい。
とはいえ、以前に比べれば余裕ができたのも確かだった。
有馬や大村との戦はまだ続いているが、阿蘇にとって目下最大の脅威だった大友家は、もはや敵ではない。
(……正直、ここまで早く大友が降るとは思っていなかったな)
これまで惟種は、戦と統治に追われ続けてきた。作りたいものがなかったわけではない。未来の知識から思いつくものはいくらでもあったが、軍備や領地の統治を優先しなければならず、急ぎでないものは後回しにしてきたのである。
(……これからは、少しくらい好きなことをしてもよいだろう)
もちろん、遊んで暮らせるわけではない。それでも、戦へ向けていた人や銭の一部を、これからは民の暮らしを良くするために回せる。
「……さて、何から始めようか」
便利な道具でもいいし、新しい食べ物を作るのも面白そうだ。子供たちが楽しく学べるものも増やしたい。
考え始めれば、やりたいことはいくらでも浮かんでくる。
だが、最初に思い浮かんだのは、国のための大がかりなものではなかった。
「……せめて、加世に土産の一つくらい送りたいものだが」
着物や飾り物でもよいが、どうせなら加世自身が楽しめるものを贈りたい。
「絵……とか?」
墨だけでは寂しいし、小さな子供には筆も扱いづらい。
そこで、以前阿蘇で試作させていたものを思い出した。
「……そうだ!」
蝋と顔料を混ぜ、赤や青、黄、緑などの色をつけて棒状に固めたもの。
(……クレヨンだ!)
思いついた時に試しで作らせたものの、忙しさに紛れて放置していた。幸い、試作品の一部は府内へ持ってきている。
加世に渡せば、きっと喜ぶだろう。どんな絵を描くのか想像するだけでも楽しかった。
「……万満丸に使わせてみるか」
加世と歳も近い。子供の手でも使いやすいか試すにはちょうどよかった。
惟種は近くにいた新吉郎を呼び、万満丸と一緒に試し書きをしてみるよう言いつけた。
◇
昼過ぎ。
府内館の縁側では、万満丸が薄く削った板へ絵を描いていた。そばには新吉郎が座り、時折その手元を覗き込んでいる。
「そこは、もう少し下でございます」
「ここか」
「はい。港はこちらでございます。旗は、もっと館に近く」
「旗は二つあった」
「はい。大友の旗と、阿蘇の旗でございます」
万満丸はうなずき、手にした棒を握り直した。
筆でも墨でもない。指ほどの長さをした、色のついた蝋の棒だった。
板の上には、青い海と黒い焼け跡、黄色い米俵、赤い火、緑の田、そして二つの旗が描かれている。
「これは、米」
「はい」
「これは、海」
「よく描けております」
その時、廊を歩いてきた宗運が足を止めた。
最初は子供の遊びだと思ったのだろう。しかし、板の上の絵を見た途端、目つきが変わった。
決して正確な絵ではない。道は曲がり、館は妙に大きく、港の形もおかしい。
それでも、文字を読まなくても、色によって何が描かれているのか見分けることができる。
宗運はしばらく板を見つめたあと、新吉郎へ声をかけた。
「新吉郎」
「は、はい」
「それは何だ」
「あ、これは若君が……」
「若君が?」
宗運の声が、妙に静かになった。
新吉郎は本能的に、まずいと思った。
「その、今日見たものを描かせろと仰せになりまして……。色を塗れる蝋の棒を作ったから、試しに使ってみろと……」
宗運は万満丸から赤い棒を借りた。
軽く、墨を磨る必要もない。小さな子供でも握ることができ、そのまま板へ色をつけられる。
宗運は何度か棒と板を見比べた。
なるほど、これは便利だ。
文字を読めぬ者でも、色と形なら理解できる。危険な場所を赤で示し、水路を青で引けば、地図や普請の指図も分かりやすくなるだろう。
軍議にも使える。
だが、便利なのはこちらだけとは限らない。
宗運は赤い棒を見つめたまま、しばらく考え込んだ。
「……若君は、いずこに」
「奥の政所に……」
「分かった」
声を荒らげることもなく、宗運は赤い棒を手に静かに歩き出した。
その背中を見て、新吉郎はかえって不安になった。
万満丸が、そっと袖を引く。
「新吉郎」
「はい」
「宗運殿は、怒っておるのか」
新吉郎は遠ざかる背中を見た。
「……たぶん、かなり」
◇
惟種は政所で帳面を眺めていた。
そろそろ一息つこうかと思ったところで障子が開き、宗運が入ってくる。
「若君。これは何ですか」
差し出された赤い蝋の棒を見て、惟種は軽くうなずいた。
「色を塗れる蝋の棒だが……見て分からんか?」
あまりに気のない返答に、宗運のこめかみがぴくりと動いた。
「……いつ作ったのです」
「少し前だ。阿蘇でな! 蝋と顔料を扱える者が、たまたまそなたの手の者におったから、少し借りたぞ!」
惟種は悪びれもせずに答えた。
宗運は絶句した。
そして、にこりとも笑わずに口を開いた。
「わたくしの手の者を使って、わたくしに黙って作らせたのですか」
「いや、黙ってというか……」
「若君」
「はい」
「答えなされ」
「……まあ、黙って作らせたといえば、そうなるな」
宗運が深く息を吸った。
「何のために」
惟種は少し黙り、やがて視線を逸らしたまま答えた。
「……加世に」
「はい?」
「加世にやろうと思ってな……ぽっ」
惟種は、わざとらしく頬を染めてみせた。
宗運が一瞬、言葉を失った。
「絵を描けたら喜ぶだろう。墨だけでは寂しいし、筆は小さい子には難しい。これなら握るだけで描けるのだ」
「……『ぽっ』ではありませぬが、それで?」
「驚かせようと思ったのだ。惚れた女のためさ……」
「いちいち格好つけなくてよろしい。それで、わたくしに黙って?」
「そなたに言えば、加世にばれる可能性もあるし、大げさにするであろう」
「当たり前です。これは大げさに扱うべきものにございます」
惟種が眉を寄せた。
「そうか? 子供の絵道具だぞ?」
「違います」
「いや、絵の道具だろう。そりゃ朝廷や幕府に献上すれば、珍しがって喜ぶかもしれんが……」
「絵にも使える道具にございます」
宗運は赤い棒を畳へ置いた。
「文字を読めぬ者にも、色と形ならば伝えられます。危険な場所を赤で示し、水路を青で引く。それだけでも地図や普請の指図は、今より遥かに分かりやすくなりましょう。軍議にも使えます」
「……なるほど! さすが宗運だ! じゃ!」
惟種は感心した勢いのまま立ち上がり、宗運の脇をすり抜けようとした。
これから説教が始まりそうな気配を察したのである。
「お待ちくだされ。『じゃ』ではありませぬ!」
宗運は、すかさず呼び止めた。
「それに、感心している場合ではございませぬ。便利ということは、敵の手に渡っても同じように便利だということでございます」
惟種は観念して座り直した。
「城の見取りや兵の配置、道筋なども、色を分ければ分かりやすく示せましょう。文字を知らぬ兵にも命を伝えやすくなりますが、それは敵も同じです」
惟種は改めて赤い棒を見た。
加世に絵を描いてもらえれば、それでよかった。
だが、言われてみれば確かに使い道は多い。宗運がここまで気にするのも分からなくはなかった。
「……悪かった。そこまでは考えておらなんだ」
「それが困るのです」
「……はい」
惟種は、素直に説教を受けることにした。
◇
「何本作りました」
「試しを含めて、三十ほど」
「……多いですなぁ」
「多いか?」
「はい。関わった者すべてに口止めをするとなると、厄介ですぞ」
「惚れた女に喜んでもらおうと思ってな……」
「若君。いちいち格好つけなくてよろしいと申したではありませぬか。それに、加世様への贈り物と国を動かす道具を、同じ箱に入れないでください」
「……はい」
その後も宗運は、使った材料や作らせた職人、誰がこの棒を見たのかを一つずつ確認していった。
幸い、まだ知る者は多くない。
「まず製法は阿蘇の内に留めます。政所や軍議、学び処などで試し、本当に何へ使えるのかを見極めましょう。蝋と顔料で作れる以上、長く隠し通すことは難しいでしょうから、民へ広めるかはその後で決めればよろしいかと」
「うむ。それなら異存はない」
「絵の道具として使えるのであれば、子供の学びにも役立つでしょう。職人が下絵を描くにも便利かもしれませぬ」
「加世も喜ぶな」
「若君」
「……すまぬ。続けてくれ」
宗運が一度、深く息を吐いた。
「いずれ売ることも考えてよいでしょう。ただし、使い方も危険も分からぬうちから、むやみに広めるのはおやめください」
「分かった」
宗運は試し書きの板を惟種の前へ置き、赤で丸を描いて、その横へ青い線を引いた。
「こうして色を分ければ、文字を読めぬ者にも意味を伝えられます。しかし、敵も同じことができるのです。便利なものほど、こちらだけが得をするとは限りませぬ」
惟種は板と赤い棒を見比べ、素直にうなずいた。
「……肝に銘じよう」
宗運はそこで惟種を見た。
「では今後、若君がこのようなものを作ろうとなさる時には、どうされるのですか?」
「分かった。まず宗運に相談する」
(これ以上がみがみ言われたくないからな)
惟種がそんなことを考えていると、宗運が何かを察したように、ぎろりと睨んできた。
「……何だ?」
「いえ。きちんとお分かりいただけたのであれば結構にございます」
「うむ。もちろんだとも」
惟種は何食わぬ顔で答えた。
宗運はしばらくその顔を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「それと、加世への土産も相談した方がよいのか?」
「特にです」
「なぜだ」
「若君が加世様へ何か贈ろうとなさる時ほど、とんでもないものが混じる気がいたします」
惟種は反論しようとしたが、今回に限っては何も言えなかった。
その後も、材料の安全性や保管方法、作った職人の扱いなどについてしばらく念を押され、ようやく宗運の話は終わった。
◇
宗運が去ったあと、惟種は畳に残された色蝋の棒を眺めていた。
赤、青、黄、黒、白、緑。
加世なら何を描くだろう。花かもしれないし、阿蘇の山かもしれない。母の着物や、自分の顔を妙な色で描くかもしれない。
そう考えて作らせた。
ただ、それだけだった。
(……まさか、クレヨン一つでここまで叱られるとはなぁ)
惟種は深くため息をついた。
とはいえ、宗運の言うことにも納得はできる。使い道を考え始めれば、確かに面白い道具だった。
学び処で使うのもよいし、工事の指図にも使える。絵が描きやすくなるのであれば、ほかにも試してみたいことがある。
(……なるほど。ならば次はもう少し……)
そこまで考えて、惟種は慌てて首を振った。
(……いや、まず宗運に相談せねばな)
先ほど散々叱られたばかりである。
「若君」
障子の外から遠慮がちな声がした。
「……新吉郎か」
「はい」
「入れ」
新吉郎がそっと入ってきた。
手には、万満丸が描いた板を持っている。
青い海に黒い焼け跡、黄色い米俵、赤い火、緑の田、そして二つの旗。線は曲がり、旗は大きすぎ、米俵はほとんど丸だった。
「万満丸が描いたのか」
「はい」
「楽しそうだったか?」
「とても」
惟種は少し息を吐いた。
「そうか」
新吉郎は惟種の顔を見て、少し迷ったあとに口を開いた。
「加世様も、きっと喜ばれますよ」
「そう思うか?」
「はい。万満丸様もあれほど楽しそうでしたから、加世様もきっと気に入られると思います」
惟種の表情が少し緩んだ。
「そう……だな」
新吉郎はそこで一度黙り、遠慮がちに続けた。
「ただ、宗運様には先に言った方がよかったと思います」
惟種は、じとりと新吉郎を見る。
「お前まで言うか」
「すみません。でも、今日の宗運様は本当に怖かったので……」
「わしも怖かった」
新吉郎は笑いそうになり、慌てて口を押さえた。
惟種は万満丸の絵をもう一度見た。
「これは残しておけ。あとで宗運にも見せよう」
「また怒られませぬか?」
「今度は怒られぬ。……ようにする」
新吉郎は、何も言わなかった。
◇
その夜。
色蝋の棒は小箱へ収められ、製作に関わった職人や製法についても、宗運の管理下へ置かれることになった。
ただ、その中から淡い赤を一本だけ、惟種は別に包んだ。
加世へ贈るためである。
宗運はそれを見つけ、しばらく黙っていた。
「一本だけにございますぞ」
「けち臭い爺だな」
「……若君」
「分かっておる。一つだけだろう」
「使う場所も、見る者も限ってください。加世様が喜ばれたからといって、すぐ次を増やさぬように」
「…………」
宗運が目を細めた。
「今の間は何です?」
「何でもない」
宗運は深いため息をついた。
そして、ふと嫌なことに気づく。
これまで若君が新しいものを作らなかったのではない。戦と政に追われ、作る暇がなかっただけなのではないか。
田の改良も、鉄砲も、大筒も、船も、医療も、教育も、思えばこの少年は昔から次々と新しいものを持ち出してきた。
しかも、そのどれもが阿蘇に大きな変化をもたらし、実現するたびに宗運を忙しくさせてきたのである。
そして今、目下最大の敵だった大友家はもう敵ではない。
以前よりも、若君が好きなことへ取り組む余裕は増えているはずだった。
宗運は傍らの惟種を見た。
当の本人は、加世へ贈る赤い棒を包みながら、実に楽しそうな顔をしている。
今も何か新しいことを考えているのではないか。
そう思った途端、宗運の胸に嫌な予感が広がった。
「……何やら、嫌な予感がいたしますな」
「む? 何がだ?」
「いえ。何でもございませぬ」
宗運はもう一度ため息をついた。
大友との戦が終われば、少しは仕事も減ると思っていた。
しかし、どうやらそう簡単にはいかないらしい。
少し離れた廊では、新吉郎が万満丸の描いた絵を抱えて二人のやり取りを眺めていた。
「若君のそばって、本当に退屈しないな」
少し考え、さらに声を落とした。
「……怒られる時は、そばにいない方がいいけど」




