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火の山の若君は、未来を夢に見る ~阿蘇家嫡流の若君、名臣甲斐宗運と乱世を切り拓く~  作者: アトラス


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第百三十話 公方御座船

 府内での会合から、数日後。


 近江より急使が入った。


 足利義藤の父、義晴の病が重いという。

 さらに、京周辺の情勢も穏やかではない。


 三好の動きは止まらず、近江にいる将軍方も、公方の帰還を求めているという報せであった。


 義藤は文を読み終えると、しばらく黙っていた。


 その顔に浮かんだものは、焦りだけではない。


 父への案じ。

 将軍としての責。

 そして、阿蘇に長く留まれぬという現実。


 惟豊は静かに言った。


「公方様。すぐに御帰還の支度を整えます」


 義藤は顔を上げた。


「世話をかける」


「阿蘇は、公方様をお迎えした以上、無事にお送りするまでが務めにございます」


 惟種も頭を下げた。


「府内より海路を使います。陸路より早く、兵の動きも読まれにくい」


「海路か」


「はい。阿蘇の水軍と新式の大船を出します」


 義藤の目が動いた。


 阿蘇の新式船。


 府内の港で見た、南蛮型の大船である。

 高い舷側を持ち、太い帆柱を立て、火器を据えるための工夫もある。


 日ノ本の船とは少し違う、重く、広く、遠くへ行くことを考えた船だった。


「兵は」


 義藤が問う。


「五百」


 惟種は答えた。


「阿蘇の常備兵です。鉄砲衆、槍、弓、水軍衆、医師、文官、兵站役を含めます」


 義藤の顔が、わずかに明るくなった。


 五百。


 大軍ではない。

 だが、ただの護衛でもない。


 阿蘇が自分を軽んじていない証であった。


     ◇


 出立の支度は、すぐに始まった。


 府内港には、阿蘇の水軍が集められた。


 旗艦となる南蛮型大船。

 それに従う中型船。

 水先、警戒、浅瀬対応のための小船。


 甲斐親英は、港で船の配置を見ていた。


「大船を中心に置く。だが、狭い瀬では小船を前へ出せ」


 水軍衆が頭を下げる。


「はっ」


「公方様の御座船は、決して孤立させるな。風が変われば、すぐ帆を落とせ。潮に逆らうな。潮を読め」


 親英の声は鋭い。


 海は、陸とは違う。


 道が見えない。

 しかも、今回通るのは瀬戸内である。


 島。

 潮。

 浅瀬。

 海賊。

 水軍。

 通行権。

 警固料。


 ただ船を出せば済む海ではない。


 惟種は、その横で港を見ていた。


 今回の責任者は惟種である。

 阿蘇の顔として、公方を送り届ける。


 水軍は親英が見る。

 陸戦と護衛は戸次鑑連が見る。

 兵站と帳面は、宗運の代理として鍋島種茂が見る。


 宗運は府内に残した。

 大友隼人も残した。


 隼人を連れ出せば、旧大友家臣の腹が揺れる。

 府内に大友の名を置いておくことは、今の府内には必要だった。


 宗運もまた、残さねばならない。


 府内はまだ完全には阿蘇のものではない。

 義武、田原、秋月。

 火種はいくらでもある。


 宗運は、出立前の惟種に言った。


「若君」


「何だ」


「公方様を無事にお送りするのが第一にございます」


「分かっている」


「途中で何かあっても、喧嘩を買いすぎませぬよう」


「売られれば買う」


「公方様を乗せている時は、買う前に値を見てください」


「……分かった」


「本当に?」


「努力する」


 宗運は深くため息をついた。


「種茂」


 宗運は、そばに控えていた種茂へ向いた。


「はっ」


「若君が海で怒り始めたら、まず数を見よ」


「数にございますか」


「そうだ。水、兵糧、火薬、矢玉、船板、帆、櫂、医薬、公方様の御身。失えば戻らぬもの、戻すのに銭がかかるものを、すぐに数えよ」


 種茂の表情が引き締まった。


「承知しました」


「銭で済むなら銭を払え。戦になれば、もっと高くつく」


「はい」


 宗運は続けた。


「若君を止める時は、情では止まらぬ。理でも時に止まらぬ。だが、損得を並べれば、少しは聞かれる」


「少し、ですか」


「少しだ」


 惟種は不満そうにしたが、反論はしなかった。


     ◇


 義藤の乗る御座船には、過度な飾りは施されなかった。


 だが、清潔で、明るく、揺れを抑える工夫があった。

 寝所も整えられ、食事を温める場所もあり、怪我や病に備える医師も乗せた。


 義藤は、甲板へ出て船を見た。


「これは、日ノ本の船とは違うな」


 惟種が答える。


「南蛮船を参考に、阿蘇で直したものにございます」


「直した?」


「そのままでは、日ノ本の海には合いませぬ。特に瀬戸内では、大きすぎる船は扱いにくい」


 親英が少し頭を下げた。


「大船は強うございますが、万能ではございませぬ」


「万能ではない、か」


 義藤は少し笑った。


「阿蘇の者は、何でもできるように見えたが」


 惟種は首を振った。


「できぬことの方が多うございます。だから、学びます」


 義藤はその言葉を聞き、少し目を細めた。


 この若君は、大きなことを言う。

 九州を鎮め、天下の先を見ているような目をする。


 だが、できぬことを、できぬとも言う。


 そこが、不思議と信じられた。


     ◇


 船団は府内を発った。


 春の海は穏やかに見えた。

 だが、親英の顔は緩まない。


 潮を読み、風を見て、船を並べる。

 大船は堂々としているが、動きは重い。

 中型船と小船が周りを固め、前方を探る。


 戸次鑑連は、御座船の側にいた。


 傷の身であっても、その存在は重い。

 将軍の護衛として、これほど頼もしい者も少ない。


 種茂は帳面を抱え、兵糧、水、薬、火薬、矢玉の数を確認していた。


 陸なら、道がある。

 村がある。

 蔵がある。

 水場が見える。


 だが海は違う。


 船が揺れれば荷も揺れる。

 水が足りなければ、すぐ困る。

 火薬は湿る。

 風が変われば予定も変わる。

 潮が悪ければ、一刻が半日になる。


 種茂は、帳面の余白に小さく印をつけた。


「陸の帳とは、勝手が違いすぎますな……」


 親英がちらりと見た。


「それを知るだけでも、今回の価値はある」


「はい」


 種茂は素直に頷いた。


「海では、荷一つ動かすにも潮の顔色を見ねばならぬのですね」


「そうだ。海は、こちらの都合では動かぬ」


「肝に銘じます」


 種茂は、また帳面へ目を落とした。


 水一樽。

 米一俵。

 火薬一包。

 船板一枚。


 陸ではただの数でも、海の上では命の数になる。


 そのことが、少しずつ分かり始めていた。


     ◇


 数日後、船団は瀬戸内へ入った。


 海の色が変わったわけではない。

 だが、空気が変わった。


 島が増える。

 潮が複雑になる。

 見えぬ流れが船腹を押す。

 岬の向こうから、いつ船が現れるか分からない。


 親英の目は、さらに鋭くなった。


「ここからが本番だ」


 その言葉通り、昼過ぎ、前方の小船から合図が上がった。


 島影より、複数の船が現れた。


 小早。

 関船。

 海に慣れた船影。


 阿蘇の水軍衆がざわつく。


 親英が低く言った。


「村上か」


 やがて、相手の船から使者が来た。


 能島村上方を名乗る者である。


 使者は礼を取った。

 だが、その態度は低くなかった。


「この海を通られるなら、村上へ筋を通していただきたい」


 親英の眉が動く。


 惟種は静かに問う。


「筋とは」


「警固料にございます」


 空気が冷えた。


 使者は続ける。


「瀬戸内には瀬戸内の法がございます。我らが水先を出し、海を守る。ゆえに、この海を通る者は村上へ礼を尽くす。それが筋にございます」


 惟種は、使者を見た。


「この船に、どなたが乗っておられるか知っているか」


「公方様と伺っております」


「知っていて止めるか」


「公方様であればこそ、なおさら警固が要りましょう」


 使者の声は変わらなかった。


「海で何かあれば、それこそ一大事。我らが水先を出し、道を示す。それに対する礼を求めるのは、無礼ではございませぬ」


 惟種の目が冷えた。


「守ると言いながら、まず止めて銭を求めるか」


「海で筋を通すとは、そういうことにございます」


 惟種の手が、膝の上で強く握られた。


「阿蘇の船を止めるだけなら、まだよい」


 声が低くなる。


「だが、今この船には公方様が乗っておられる。その御座船を止め、銭を求めるとは、公方様をないがしろにするにも程がある」


 使者の顔が少し硬くなった。


「若君、我らは公方様へ無礼を働くつもりは」


「ならば道を開け」


 惟種は言った。


「公方様を無事にお送りすることが、今の阿蘇の務めだ。そこへ銭を求めて道を塞ぐ。それを無礼と言わず何と言う」


 使者は黙った。


 だが、引かない。


 その背後には、村上の船がある。

 島影には、さらに船が潜んでいるかもしれない。


 親英は、海を見ていた。


 勝てるか。


 大船には火力がある。

 阿蘇の兵は精強だ。

 鉄砲もある。


 だが、ここは瀬戸内だ。


 潮を知らない。

 浅瀬を知らない。

 島影を知らない。

 相手の船数も分からない。


 親英は悟った。


 今の船数では、勝てない。


 いや、勝てたとしても、公方様を危険に晒す。

 それは負けと同じだ。


 親英は惟種へ小さく言った。


「若君」


「何だ」


「ここは、払うべきにございます」


 惟種の目が親英へ向いた。


 親英は悔しそうだった。


「今の我らでは、この海を知らなすぎます。大船だけでは瀬戸内は取れませぬ」


 種茂も、静かに帳面を開いた。


「若君」


「種茂までか」


「はい」


 種茂は、少し緊張しながらも顔を上げた。


「ここで戦えば、警固料では済みませぬ」


「宗運の真似か」


「いえ、帳面の話にございます」


 種茂は、帳面の端を押さえた。


「水、兵糧、火薬、矢玉、船の修繕、負傷者の手当、公方様の御身。どれを損ねても、警固料より高くつきます」


 惟種は黙った。


 種茂は続ける。


「加えて、ここは敵の海にございます。戦えば勝ち負け以前に、日程が崩れます。公方様の御帰還も遅れましょう」


「……」


「銭で済むなら、今は銭で済ませるべきです」


 その声は、宗運ほど鋭くはない。

 戸次ほど重くもない。


 だが、種茂自身の声だった。


 若い帳面役が、数を見て、若君を止めている。


 惟種は、しばらく黙った。


 怒りは消えていない。


 だが、義藤を無事に送り届ける。

 それが第一だ。


 ここで戦えば、自分の怒りを優先したことになる。


 惟種は深く息を吐いた。


「払う」


 使者が少し頭を下げた。


「ありがたく」


「ただし」


 惟種の声は冷たいままだった。


「これは、公方様の御座船を急がせるために払うものだ。阿蘇が村上に屈したものではない」


「承知いたしました」


「道を開け。水先を出せ。もし公方様の船に傷一つあれば、次は銭では済まぬ」


 使者は、今度は深く頭を下げた。


「肝に銘じます」


     ◇


 このやり取りを、義藤は船内で聞いていた。


 すべてではない。

 だが、惟種の怒りの意味は伝わっていた。


 阿蘇は上洛軍を出さなかった。

 幕府を府内へ置くことも断った。


 だが、自分の名を軽んじなかった。


 公方の御座船が止められたことに、本気で怒った。


 義藤は、静かに目を閉じた。


 京では、自分の名を使う者は多い。

 だが、その名を守るために怒る者は少ない。


 阿蘇は、自分を利用している。

 それは分かる。


 だが、利用するだけではない。


「一番の忠臣」


 義藤は、以前自分が口にした言葉を思い出した。


 あながち、軽い言葉ではなかったのかもしれない。


     ◇


 戸次鑑連は、甲板の端で惟種を見ていた。


 若君は怒っている。

 だが、戦わなかった。


 公方様を守るために怒り、公方様を守るために払った。


 筋が通っている。


 鑑連は静かに言った。


「若君」


「何だ」


「よき御判断にございます」


「通行料を払ったことがか」


「はい」


 惟種は不満げに海を見た。


「屈辱だ」


「屈辱を呑むのも、守るためならば武にございます」


 鑑連は続けた。


「公方様を守る役を受けた以上、その御名を守るのも警固のうち。若君の怒りも、退き際も、筋が通っております」


 惟種は少しだけ黙った。


「戸次殿にそう言われるなら、少しは救われる」


「ただし」


「ただし?」


「次は、払わずに通れるようにならねばなりませぬな」


 惟種の目が、静かに鋭くなった。


「そうだ」


     ◇


 村上の水先船が前へ出た。


 阿蘇の船団は、それに従って瀬戸内の潮へ入っていく。


 通行料は支払った。

 道は開いた。


 だが、惟種の中で何かが残った。


 火種である。


「親英」


「はっ」


「瀬戸内を調べろ」


 親英は、すぐに頭を下げた。


「承知しました」


「村上の船。島。潮。港。水先。警固料の筋。すべてだ」


「はっ」


「今は払う」


 惟種は、島影に消えていく村上の船を見た。


「だが、次も払うとは限らぬ」


 種茂は、その言葉を聞きながら、帳面の端に小さく書きつけた。


 瀬戸内。

 村上。

 警固料。

 水先。

 通行権。


 陸の道だけではない。

 海にも道がある。


 そして、その道には主がいる。


 種茂は、改めて思った。


 海は、厄介だ。


 だが、阿蘇が天下を見ているなら、この海を避けて通ることはできない。


 春の瀬戸内に、阿蘇の旗が揺れる。


 その下で、惟種は静かに村上水軍の船影を見送っていた。


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同作者の別連載
『異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~』
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― 新着の感想 ―
ここは村上水軍の方が理がある気がしますね。これたねが言ってる事はタダで公方のために働けと言ってるようなものだし。当時の水軍は警護と難所や浅瀬を知り尽くしているから水先案内もしてますし、事前に根回ししな…
やよい軒にダゴ汁定食が出ました。言わずとしれた阿蘇名産で外輪山巡ったら必ずダゴ汁って書いてありました。大分はドンコ事椎茸名産ですよね。日本椎茸栽培始まりの地確か積んでた木に偶然菌糸付いたんで菌床栽培で…
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