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第一話 熱病の果てに

 **矢部やべ 維胤これたね**は、四十五歳だった。


 独身。

 趣味は戦国時代。

 得意分野は九州戦国史。

 最近の悩みは、部下の退職願が机に置かれる頻度が、自分の有休申請より多いことだった。


「……せめて一日でいいから、信長の野望やりてえな」


 誰もいない深夜のオフィスで、そんなことを呟いたのが最後だった。


 維胤は、いわゆるブラック企業の中間管理職である。上からは無茶な数字を押しつけられ、下からは相談と不満と涙が集まる。怒鳴れば済む話を怒鳴れず、切れば済む話を切れず、結局は自分が頭を下げ、残業し、尻拭いを続けてきた。


 昔は違った。


 学生の頃は、戦国時代が好きだった。

 **島津しまづ**の釣り野伏、**大友おおとも**の南蛮貿易、**阿蘇あそ**の神威、**龍造寺りゅうぞうじ**の膨張。

 史料集を読み漁り、歴史書に付箋を貼り、ゲームでは何度も九州統一を試した。


 祖父からはよく言われたものだ。

「うちの先祖をたどれば**阿蘇家あそけ**に行きつくぞ」

 と。


 もちろん本当かどうかは分からない。よくある田舎の家系自慢だろうと笑っていた。

 だが、笑い飛ばしてきたその名が、最後に頭をよぎることになるとは思わなかった。


 その夜、維胤は床に倒れた。

 胸が焼けるように痛み、視界が白く滲み、冷たいタイルの感触がやけに遠かった。


 誰か、と思った。

 部下の顔が浮かんだ。

 未処理の案件が浮かんだ。

 そのあと、なぜか**阿蘇あそ**の山並みが浮かんだ。


 火の山。

 神の山。

 古くから人を育て、呑み込んできた山。


 そこで意識が途切れた。


    ◇


 ――熱い。


 最初の感覚は、それだった。


 喉が焼けつくように乾き、身体は鉛のように重い。額も胸も背も汗で濡れ、息を吸うたびに肺の奥がじりじりと痛んだ。耳元では複数の声がしている。女のすすり泣き、若い男の慌てた声、何かを祈るような低い呟き。


「まだ熱が……」

「薬湯を」

「若君、どうか……」


 若君。


 その言葉に、維胤は薄く目を開けた。


 天井が低かった。木組みの梁が見え、その向こうで灯火が揺れている。病院ではない。会社でも、自宅でもない。鼻先をくすぐるのは薬品ではなく、煎じた草の匂いと、畳と木の匂いだった。


 視線を動かすと、枕元に控える女がはっと息を呑んだ。年の頃は三十ほど、顔色は悪く、目元は泣き腫らしている。脇には若侍がふたり、固い顔で膝をついていた。


「……みず」


 そう言ったつもりだった。

 だが出た声は、自分のものではなかった。


 細い。高い。ひどく幼い。


 女が慌てて器を差し出す。維胤は反射的にそれを口にし、少しだけ喉を潤した。ぬるい水だったが、それでも生き返るようだった。


「ここは……」


 また声が違う。

 違うのに、なぜか馴染む。


 若侍のひとりが平伏しながら答えた。


「**阿蘇あそ**の館にございます、若君」


 阿蘇。


 その二文字が、脳裏に打ち込まれる。


 途端に、頭の中に見知らぬ景色が流れ込んできた。


 巨大な山の火口。

 噴煙の下に広がる田畑。

 神事の列。

 館の長廊下。

 厳しい顔をした男。

 咳き込みながら床に伏せる子ども。

 重臣たちのひそひそ声。

 そして――若君がこのまま死ねば、**阿蘇家あそけ**はどうなるのかという、押し殺した不安。


 俺は**矢部やべ 維胤これたね**だ。

 いや、違う。

 阿蘇あそ 惟種これたね

 **阿蘇家あそけ**の若君。


 両方の記憶が、濁流のように混ざっていく。


 終電のないオフィスと、灯りの揺れる病室。

 エクセルの数字と、年貢の勘定。

 部下の退職と、家臣の離反。

 頭の中で、二つの人生がぶつかり合った。


「若君……?」


 声をかけられ、惟種は小さく息を吐いた。


 混乱はしている。

 だが、それ以上に理解してしまったことがある。


 この身体は病に伏していた。

 高熱が何日も続き、命も危うかった。

 家中では、若君まで死ねば先行きが見えぬと不安が広がっている。


 それも当然だった。


 **阿蘇あそ 惟将これまさは、ほんの一か月前に世を去っている。

 本来ならば家の柱となるべき嫡流の一角を失い、残る嫡子は阿蘇あそ 惟種これたね**ただ一人。

 その惟種まで熱病で倒れたのだ。

 館に満ちていたのは、若君の身を案じる空気だけではない。

 もしこのまま死なれれば、阿蘇家あそけの明日はどうなるのか――その怯えが、誰の顔にも滲んでいた。


 しかもそれだけではない。


 **阿蘇家あそけ**は強い。だが盤石ではない。

 **大友家おおともけ**がいる。**島津家しまづけ**がいる。**相良家さがらけ**がいる。

 館の内に揺らぎがあれば、外は必ずそれを嗅ぎつける。


 ブラック企業の中間管理職だった男には、妙に分かりやすかった。

 組織が危ない時の空気は、時代が変わっても変わらない。


 惟種は自分の細い指を見た。

 小さい。白い。子どもの手だ。


 信じがたい。

 だが、戦国時代の**阿蘇あそ**にいるのだとしたら。


 ――まだ間に合う。


 その感覚だけは、不思議と強く胸に残った。


「……父上は」


 女が答える。


「**御屋形様おやかたさま**はご政務にございます。若君がまだお休みの間も、館は止まりませぬゆえ……」


 それはそうだろう。

 当主が生き、館が回っているなら、幼い若君ひとりの病で全てが止まるはずはない。


 では、この状況でいちばん動かすべき相手は誰か。


 惟種の中の維胤が、即座に答えを出した。


 現場責任者。

 実務の中枢。

 当主に上申でき、家中を動かせる男。


「……**宗運そううん**を呼べ」


 部屋の空気が止まった。


 若侍たちが顔を見合わせる。女も目を丸くする。

 いまこの場で**甲斐かい 宗運そううん**の名を真っ先に挙げるとは思わなかったのだろう。


「若君、**甲斐かい 宗運そううん**様を、でございますか」


「そうだ」


 思った以上に声が落ち着いていた。

 病み上がりの子どもの声なのに、妙に揺らがない。


「今すぐでなくてよい。館におるなら呼べ。おらぬなら戻り次第、わしのもとへ」


 自分で言ってから、少しだけ可笑しくなった。

 四十五年、会議と謝罪と調整ばかりしてきた男の物言いが、子どもの身体の中から自然に出てきたのだ。


 若侍のひとりが、はっとしたように頭を下げた。


「は、ははっ! すぐに!」


 駆けていく足音が廊下へ消える。


 女はまだ不安そうだったが、その瞳の奥には戸惑いと同時に、わずかな光が宿っていた。今まで死にかけて寝込んでいた若君が、目覚めてすぐ重臣を呼んだのだ。何かが変わったと感じてもおかしくない。


 惟種は天井を見上げた。


 甲斐かい 宗運そううん

 **阿蘇家あそけ**の重臣。

 有能。慎重。現実派。

 維胤の知る歴史の断片と、この身体に残る感覚が、そう告げている。


 最初に話す相手は、あの男しかいない。


 父である**阿蘇あそ 惟豊これとよ**に直に語るには、まだ早い。

 病み上がりの若君が突然、未来の夢を見たなどと言えば、熱に浮かされていると思われるのが落ちだ。だが宗運なら、信じる信じないはともかく、使える話かどうかを切り分けるはずだ。


 そういう人間が、組織には必要なのだ。


 どれほど理想があっても、それを現場に落とす者がいなければ何も変わらない。

 それは会社でも戦国でも同じだった。


 しばらくして、廊下の向こうが騒がしくなった。

 足音は急ぎつつも乱れていない。ひとりで来るのではなく、道を空ける気配がある。


 襖が開いた。


 入ってきたのは、三十を少し過ぎたばかりに見える男だった。痩せすぎず太すぎず、実戦も政務もこなす者の無駄のない体つき。目は鋭いが、いたずらに荒々しくはない。館内の重圧と緊張をそのまま背負ってきたような顔をしている。


 甲斐かい 宗運そううん


 男は病床に目を向け、すぐさま膝をついた。


「若君。ご快復あそばされたか」


 その声は低く、よく通った。

 喜色は薄い。まずは現実を見極めようとする声音だった。


 惟種はその男を見返した。

 この人なら話せる。

 そんな確信が、不思議とあった。


「快復、かどうかは分からぬ」


 宗運の眉がわずかに動く。


「されど、夢を見た」


「夢、にございますか」


「ただの夢ではない。火の山が鳴り、田が枯れ、人が飢え、鉄が火を噴く夢だ」


 部屋の空気が張りつめる。

 女たちが息を呑み、若侍たちの顔色が変わった。


 だが宗運だけは、動かなかった。

 その目だけが、少し深くなった。


「熱のうちの、うわ言かもしれませぬ」


「かもしれぬ」


 惟種はあっさり認めた。


「だが、その中に、捨ててはならぬものがあった」


 宗運は黙る。


 否定しない。

 かといって、すぐに信じもしない。


 やはりこの男だ、と惟種は思った。


宗運そううん。そなたにだけ話す」


「……は」


「人を遠ざけよ」


 宗運は一度だけ惟種の顔を見つめ、それから静かに振り返った。


「皆、下がれ。若君の御前である。聞かなかったことは、口にするな」


 女も若侍も、戸惑いながら頭を下げて退出する。襖が閉まり、部屋には灯火の揺れる音と、病み上がりの荒い呼吸だけが残った。


 宗運は改めて膝を進める。


「これで、内々の話にございますな」


 その一言で、惟種は少しだけ肩の力が抜けた。


「……宗運。わしは、おかしなことを申すぞ」


「若君がおかしなことを申されるのは、病み上がりゆえでございましょう」


「だが、聞くか」


「**阿蘇家あそけ**の先を思う言葉であれば」


 宗運の答えに、惟種は小さくうなずいた。


 そして、静かに言った。


「わしはな。未来の景色を見た」


 灯火が、ひときわ大きく揺れた気がした。


 火の山のもと。

 病床の若君と、**阿蘇家あそけ**を支える重臣。


 ここから始まるのだと、惟種は知っていた。

 前世の後悔も、この身体に残る熱も、すべて抱えたままで。


 **阿蘇家あそけ**はまだ滅びていない。

 ならば立て直せる。


 そのためにまず必要なのは、夢を信じさせることではない。

 夢の中から、使える未来を拾い上げることだ。

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